論理の果て
陽陽空
エドワード・ゴーリー「おぞましい二人」を読む
1967年のアメリカで出版された、この絵本を最近偶然知った。
イギリスで実際に起こった事件をそのまま、かいつまんで20枚の絵と短い文とで説明したような、一応子供向けの絵本である。
生まれも育ちも侘しい境遇の男の子と女の子が知り合い、会ったとたんに互いに似たもの同士であることを一目で悟った。
どこが似ているかは詳しい説明はないが前後の文で、性悪で残酷な性癖が、というのはすぐ分かる。
やがて二人は大人になって一軒家を借り、そこで次々に子供をたぶらかして連れ込み、殺すことを愉しむ。その殺し様を写真に撮ったのが、不注意で人目に触れ、ついに逮捕された。
二人は別々に収監され、そのまま一生会うことなく、男は43で女は82か4かで獄中で死んだ。
この事件は「いったい何なのだ」作者は不可解でしかたなかったらしい。
動機は、目的は、何が楽しいのか、獄中でどんな思いで過ごしていただろうか。いつまでも気持ちに引っかかりがあり、理解不能のまま、事実だけを描いてみたというところだろう。
どんな事件にも人は一応動機、原因を求める。メディアもそれに答えるべく解釈を試みる。学者、評論家の口を借りて。
現代社会の仕組み、有り様の不備にそれが求められれば一番格好がつくので、そのようにもっていく。たいていは視聴者、読者もそれで納得する、というかそれ以上は考えない。考えないというか、考えていけば、どうしたって恐ろしい、人間という者が持つ不条理な不合理な不可解な非常識な不経済な不道徳な理不尽な、つまりは訳の分からないところに迷い込み、いつも不快な後味だけが残る。
だから深く考えたくない。そんなところではないだろうか。
エドワード、ゴーリーもおぞましい二人の生い立ち、育った家庭環境などを点検してみた。たしかに貧しいがゆえに大した愉しみを得られない二人きりの生活に飽きての暇つぶし、という解釈はあり得ようが、もちろんそんなことで納得がいくはずがない。
貧しい者が皆どろぼうをするわけではない、大抵の者は法律を守る。それより先に良心というものを持っている。
しかし、この二人の嗜好はひどい、あまりにおぞましい。
エドワード、ゴーリーはくりかえし考え続けた。
私はこんなとき、人間の持つ「負の情熱」の為せる技だといっている。
そう名付けてみただけ。名付けただけでそのことがわかったみたいな顔をしている場合があるのをよく見かける。「なんとか現象」などと称して。
私は何ごとについても、何かがわかった気などまったくしない。
何ごとの解釈も消化不良のままである。
たまたま、今さっき、きょうのニュースで自殺希望の20代の若者を9人、おなじ20代の男が次々と殺したというのを速報でやっていた。
速報だから、女性8人、男1人という内訳だということだけを、とりあえず伝えた。もう、当分ニュース、ワイドショーはこの事件一色だろう。生まれ、育った環境、学歴から何から調べ上げて報道がなされるだろう。知人、友人の評判を聞き回り、果ては親にまで「今の心境は」とマイクを向けるかもしれない。
そして、あれこれ識者の空虚な解説がされることだろう。
しかし。
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