対決
弦巻耀
対決
奴が現れたのは、雲の多い満月の夜だった。
その時俺は、星の見えない夜空を眺めながら、タバコをくゆらせていた。日中さんざん真夏の太陽に照りつけられた身体を夜風に晒しながら、ぼんやりと一服を楽しむ。ささやかな至福のひと時だ。
それを台無しにしてくれるとは、いい度胸じゃねえか。
奴らは、まだ俺の縄張りを狙っているらしい。全くしつこい連中だ。これまで、幾度となく返り討ちにしてやったが、懲りもせず次から次へと手下どもを送り込んできやがる。手駒だけは恐ろしく豊富らしい。
その一匹が今夜もご登場、というわけだ。
上空は風が強いらしい。火山灰のような色をした雲が流れると、ふいに満月がその全体像を現した。
どぎつい藍白の光が、侵入者を照らし出す。
何だ? これまでの奴らとは、明らかに違う。逆光でシルエットしか見えないが、とにかく図体がデカイ。生ぬるい風に恐ろしく細長いひげを揺らし、いかにも堂々とした風格をしてやがる。
不甲斐ない手下どもに業を煮やした御大が、ついにお出ましってとこか。
いいだろう。勝負してやろうじゃないか。雑魚だろうが御大だろうが、関係ねえ。俺の縄張りに入ろうとする奴は、問答無用で、殺す。
右の口角だけが、ひくりと上がるのを感じた。殺ってやる、という高揚感を覚えると、いつもその辺りが勝手に動く。
その時の俺の顔を、女房は「悪魔のようだ」と言って怖がるが、これは生まれながらのクセだ。
俺の殺気を感じたか、奴はピクリとも動かない。
俺は、座っていた小さなストールから、わずかに腰を浮かせた。
奴に気付かれずに動くことができるか。
俺の首筋を汗がつたう。そこに夜風にあたって、ヒヤリとした。
そうだ、今日は風が強いんだったな。目だけを動かして、夜空を見上げた。
相変わらず雲が流れている。このまま、また雲が月を隠してくれれば、俺も闇の中に埋没できる。
それまで、動いてくれるなよ、このクソ野郎。
俺は微動だにせず、ただひたすらに奴を見据えた。不思議なことに、奴のほうも、まんじりとも動こうとしない。
俺の気迫に足がすくんだか、それとも、くだらない小細工でも考えてやがるのか。
その時、ふっと視界が暗くなった。
満月を隠した雲が、黄味のかかった灰色にぼんやりと発光している。俺は、奴から目を離さず、床に置いてあった得物へとゆっくりと近づいた。
手になじむ金属の感触。
奴はまだ動かない。やはりこちらの動きは見えていないようだ。
音を立てないように得物を静かに持ち上げ、愕然とした。
ひどく軽い。中身が残りわずかだ。予備は手元にはない。俺としたことが、何という失態だ。
このところ、ヘボな雑魚ばかりを相手にしてつまらぬ勝利感に酔いしれていたが、そのツケが回ったのか。
おそらく、俺が奴を攻撃できる時間は十五秒もなさそうだ。その時間内に奴を仕留められなければ、奴は俺の目を逃れ、夜陰に紛れて縄張りの中に潜り込むだろう。
そうなれば、女房と二人のガキは、阿鼻叫喚の地獄を見ることになる。
奴の思い通りにさせてたまるか。万が一の時は、相打ちも辞さない覚悟だ。
俺は腹を決め、奴に狙いを定めた。奴は、こちらが攻撃の構えを取ったことに気付いているのかいないのか、相変わらず長いひげを風にたなびかせたままだ。
余裕しゃくしゃくとでもいいたいのか。ふざけんじゃねえ!
感情的にトリガーを引いた。得物の口から白い煙が、火炎放射器のごとく奴に迫る。
過去に俺の縄張りを荒らしに来た雑魚たちは、三秒足らずでこの煙の餌食になった。いくら奴の図体がデカかろうと、直撃を食らえば五秒であの世行きのはずだ。
しかし奴は、俺の攻撃を平然と受けていた。暗くてその表情はさっぱり見えないが、白煙の中にたたずむ奴は、気持ちよさそうにすら見える。
なぜだ。神経を麻痺させる猛毒の中にいて、なぜ平気でいられるんだ。
トリガーを引く指の感触が急に軽くなった。もう中身が切れる。このままでは、奴を仕留める前に、俺が丸腰同然になってしまう。
物理攻撃に切り替えるか。俺は、素早く左右を見た。使えそうなのは、デッキブラシぐらいしかない。そんなもので奴の動きを封じられるとはとても思えないが、何もしないよりはマシだ。死にもの狂いで、出来る限りのダメージを与えてやる。
雲が流れる。再び満月が姿を現した。白煙の中に、奴の姿が見える。先ほどと変わりないデカイ図体が光る。
それが、にわかに、浮いた。
奴が飛び上がる。あの忌まわしい茶色い羽を月明かりに煌めかせながら!
俺は、完全に空になった得物を握りしめた。デッキブラシを手に取ろうとしたが、体が金縛りにあったように動かない。
宙に浮いた奴が、……来る!
それは、スローモーションを見ているようだった。
闇色の空に舞い上がった奴は、手足を縮め、細長いひげだけを優雅に揺らしていた。開いたと思った茶色い羽は、ついに閉じられたままだった。俺に飛びかからんばかりに見えたシルエットは、逆の方向にゆっくりと弧を描く。
俺の攻撃がそれなりに効いていたのか。
奴は、その問いには答えず、音もなくアスファルトの谷底へと落ちていった。
勝った……んだ、な。
俺は、ずっと息を止めていたことに気付き、大きく深呼吸した。
ようやく動くようになった足を一歩踏み出し、奴の消えた先を見下ろそうとした。もはや奴の死体を確かめる術はないと分かってはいるが……。
俺が顔を出そうとした途端、下から断末魔の叫び声が聞こえてきた。
「ギャーッ! 何か落ちてきた!」
「何これ! ゴキブリっ?!」
俺の縄張りは、繁華街に面したマンションの四階にある、総面積51㎡の2LDKだ。ベランダの真下には、同じマンション1階に入る文房具屋の入り口があるのだが、夜間は店先のスペースに若者共が座り込んでは、カップ麺を食ったりしている。
俺との対決に敗れた「奴」は、そのカップ麺の中にダイブしちまったのかもしれない。
許せ、若者よ。対決に犠牲はつきものだ。
俺は、音を立てないように窓を開けると、茶色にテカる虫か何かのように、こそこそと部屋の中に引っ込んだ。
(了)
*9割ほど実話です。対決のとばっちりを受けた方々、本当にゴメンナサイ。
対決 弦巻耀 @TsurumakiYou
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