第9話 グランマの賭けと、その結末
梅雨の合間の晴れが何日も続いていた。7月初旬の涼しい夜のことだった。
食料がほぼ尽きたので私は買い出しに出ることにした。
ドアを開けると、西へ続く街道の上に伸びる高速道路から、車の走行音が小さく遠く響いてくる。それは、東京という複合生命体の大動脈が脈打つ音で、どんなに静かでも昼間には気付くことができない音だ。
そろそろ11時になろうかという頃だった。なぜなら、今から外食すると深夜税を取られて面白くないな、と思った記憶があるからだ。(深夜税は夜の10時から適用されている)
短い廊下を曲がって階段を下りかけて、私は階段の下に何か黒いものが居るのに気付いた。うずくまっている猫だ。左耳の一部が欠けていたので、私はそれがグランマだと判った。
こんな人目に付く場所でグランマを見るのは初めてだし、そもそもグランマにここまで接近できることが珍しい。私は反射的に足を止めてグランマを見つめた。そして、グランマの脇にもう一つ、小さな黒いものが居るのに気付いた。朔だった。ますます珍しいことだった。グランマの子供たちは誰ひとり、あのブロック塀に挟まれた狭い空間から外に出てきたことはなかったからだ。
グランマは最初から顔を上げて私を見ていた。足音が聞こえていたのだろう。
思わぬ出来事に意表を突かれ、きっと私はぽかんとしていたと思う。念願の子猫を間近で見られた喜びが少しばかり出ていたかもしれない。いずれにせよ考えていることが丸わかりの、間抜けな顔だったのは間違いない。
そんな私の表情の中に、グランマは何を見たのか。
距離を詰めずに私が見つめる中、グランマはそっと――愛おしそうに、大切そうに、朔の背中を一舐めした。その仕草にこめられた剥き出しの愛情に、私は胸を衝かれた。
そして、グランマは予測も付かなかった行動に出た。そのまま踵を返し――朔をその場に置き去りにしたのだ。
びっくりしたのは人間の方――すなわち私だ。なにがなんだかわからなかった。突然、自宅の真ん前で子猫とふたりっきりにされてしまったのだから。
わけがわからないのは子猫の方も同じらしかった。朔は、悲しげな声を上げながらグランマの後を追って動き出した。歩くというよりは這うような仕草で、この子猫が親離れの時期に至っていないのは一目瞭然だった。
それを見た私の脳裏に浮かんだのは「この未熟児な子猫を託されたのだ!」という責任感と、「どうしよう、生命を預けられてしまった」という戸惑いだった。一瞬でそう判断するに至った思考の筋道を、整然と説明するのは難しい。直感的に「託された・預けられた」と思いこんでしまった、としか言いようがない。疲労と空腹と夏の夜の空気、そして私自身のフラストレーションが、日頃でさえおぼつかない私の判断力を狂わせていたかもしれない。
一方の朔は、私を――というより母猫のグランマ以外のすべてを、ただひたすらに恐れるだけだった。朔は悲鳴を上げながら安全な場所を探して、朔が知る最も心地よい場所――一階の角部屋に付いていたエアコンの室外機の下に潜り込んでしまった。
私はあわてて地面に膝を付いた。体を屈めて室外機の下を覗き込むと、街灯の光の届かない暗がりで、ペタンと床に伏せている小さなシルエットが見えた。シルエットからは不安と恐怖に満ちた鳴き声が聞こえてきた。庇護を、救助を求める痛々しい響きだった。
「にゃ~?」と声をかけながら、私は恐る恐る室外機の下に指を4本そろえて入れてみた。小さなシルエットはもぞりと後ろに下がり、悲痛な鳴き声はさらに大きくなった。
弱ったことになったぞ、と私は思った。エアコンの室外機はホースや配管で室内機とつながっており、うっかり触ると問題が起きる――例えばフロンガスが漏れる可能性がある。そして目の前の室外機は勝手に動かないようコンクリの地面としっかりボルトで固定してあるし、何よりこれは階下の角部屋の住人の所有物で、勝手に触ること自体が問題だ。そもそも、私がこの場所――角部屋のすぐ外に居ること自体、かなりギリギリの行為だろう。
角部屋の住人が今この時間帯に室内にいるのかどうかは判らなかった。引き戸のアルミサッシから光は漏れてこない。部屋の主とは全く面識がなく、唯一知っているのは日曜日に男物の洗濯物が干してあるという事くらいだ。
朔の鳴き声は痛々しいが、あたりに響き渡るほど大きくはない。引き戸を閉めていれば気付かれることはない――少なくとも、室外機の下で鳴いていることは判らないだろうと私は思った。むしろ、私が立てる物音や朔に話しかける声の方が、警戒を抱かれるかもしれない。
いつまでもこうして頭を地面すれすれに下げている訳にはいかない。私は立ち上がった。時間も惜しいし、買い物もしなければならない。朔も、時間を置けば落ち着くかもしれない。
――24時間営業のスーパーで、私は朔のためにアカディ牛乳を買った。以前読んだ漫画の中で、何の予備知識もなく子猫を拾った主人公が「6ヶ月前の仔猫に普通のミルクは飲ませてはいけない」と知ってこの商品を買ってくる描写があったからだ。それくらい、私は猫の食べ物に疎かった。
アパートに戻ると、私は真っ先に室外機の下を覗き込んだ。
暗がりの中に、小さなシルエットがまだあった。「にゃ~?」と呼びかけるとモゾリと動く。逃げもしないし、鳴きもしない。気配を殺して私が立ち去るのを待っているのか、それとも、鳴き疲れて声が出ないのか。
室外機と床の隙間は10センチもなく、腕を入れることはできそうになかった。長い棒か何かでつついて強引に追い出すことも考えたが、かえって怯えさせるだけだと思いとどまった。朔の方から出てきてくれなければ何もできないのだ。
私は考えた末、その場でアカディ牛乳の封を切った。500gヨーグルトの容器のフタを外して牛乳を注ぐと、室外機の下に半分ほど差し入れる形で置く。これで手なづけられるかもしれないし、少なくとも朔には栄養が必要なはずだ。
室外機から離れて階段に腰を下ろして待つ。だが、朔が出てくる気配はない。警戒しているのだろうか。
足音が遠ざかればいいのだろうか、と考えた私は、その場で靴を脱ぎ両手に嵌めた。靴で階段を叩きながら徐々に音をフェードアウトさせ、人間が遠ざかった気配を音で演出する。他人が見ていれば不審者間違いなしの奇行だが、夜の11時を回れば人の往来はほとんどない。東京都下の住宅街は、夜間の人口が増えても人の目は少ないのだ。
そうして腰を下ろし、身じろぎ一つせずに待ったが、事態は変わらなかった。10分過ぎたあたりで、仔猫への責任感より自分自身の空腹が打ち勝った。私はあきらめて自分の部屋に引き上げることにした。
――明け方、眠る前に室外機の下を覗き込んでみたが、そこにはもう誰もいなかった。牛乳も、減っている様子はなかった。
猫に親しみ、猫に関する知識を仕入れた今なら、もっと他にやりようがあったと知っている。猫の食欲は嗅覚と連携しているから、良い匂いのするもの――かつお節などで興味を惹く手もあるし、仔猫専用のウェットタイプのキャットフードだってある。ペット専門店なら仔猫用のミルクを売っている。
だが、この頃は本当に無知だった。というか、猫が何を食べるのかと考えた時、キャットフードという存在に思い当たらなかった。この世にそういうものがあると知ってはいても選択肢の中に浮かんでこなかった。買い物をしたあの24時間スーパーにも、きっと売っていたはずなのに。
アカディ牛乳だとしても、せめて温めておけば、なにか違っていたかもしれない。
数日後。仕事の合間のわずかな休息。むくんで重たい足をなんとかしようと、私は床に転がって足を窓枠に引っかけていた。裸足の爪先の向こうに晴れた空が広がっている。こんなにいい天気なのになぜ私には自由がないのか、とぼんやり考えていると、会話が聞こえてきた。
“あら……こねこ……”
“……おやがそのうち……さがしにくるから……”
私はガバと身を起こして窓の外に乗り出した。階下に人の姿はない。部屋を飛び出して廊下の端から表を見たが、こちらにも人影はなかった。
(気のせい? いや……)
七月の紫外線を反射するアスファルトを見つめながら、私はたった今の記憶を辿った。窓から外を眺めて……どの方角を眺めていた? いや、そもそも今、風はどちらから吹いている?
私は部屋に戻って、窓から身を乗り出した。顔に当たる風は東――都心の方から吹いてくる。
そちらの方角に顔を向けた私は思わずうめき声を上げた。そこにそびえているのはこの区画では珍しい建物――高層マンションだったのだ。
高層といっても近年主流のタワー型ではなく、10~15階程度の高さだ。生活道路から全景を眺めると、地下への駐車場と、狭いマンションへの入口への階段、そして奧へ続く通路が見えた。階段の脇には花を植えるのに適した空間があったが、そこには一年中白い玉砂利が敷いてあった。奧へと続く通路には、隣接する建物との目隠し用に常緑樹が植えてあって、誰かが落ち葉を掃いているシャッシャという音がたまに聞こえることがあった。
朔はあの通路にいる。私はそう直感した。人の目に触れる場所にグランマに連れてゆかれたのだ――この間の夜、私と出会った時と同じように。
(どうしよう。助けに行った方がいいのか?)
いや、行ってどうする。また手の届かない物陰に逃げ込まれるだけではないのか。そして、逃げ込まれた所を引っ張り出そうとして――否、そもそもマンションの敷地に立ち入ったところを住民に見られたらどう言い訳するのだ。猫が迷い込んだようだから探しに来ました、と?
(では、あの仔猫は、私の猫ということになるのか?)
私の思考はそこで凍りついた。
あの小さな命に対して責任を持つことになるのか? 賃貸物件の大半がそうであるように、このアパートもペット禁止だ。そのルールを破って朔の面倒を見るのか? そこまでの困難を引き受ける義理が、覚悟があるか?
マンションの目隠しの常緑樹の緑が、深い森のように思えた。
一度立ち入ったら、絶対に引き返せない――。
そして私は、踏み込むことをためらってしまったのだ。
(マンションの誰かが子猫を保護するかもしれない。グランマが迎えに行くかもしれない。大体、私は自分の仕事を片づけてないじゃないか。他のことに手を出す余裕はないはずだ)
私は、窓際から身を引いた。開け放した窓から風は吹いてくるが、外の景色はもう見えなくなった。
そのまま私は、仕事に没頭した。社会人として為すべき事、果たすべき義務という砦に逃げ込んだのだ。
そして、数日後の午前中――
2,3日前に業務作業を提出し終えた私は、しばしの自由を謳歌していた。
今日は何を食べようか。カレーがいいな……東中野の欧風カレー、西新宿のランチバイキングの店……。いや、今日も天気が良すぎる。自転車ではなく電車で移動しよう……となるといっそ吉祥寺……あ、天気がいいなら布団を干そう。
私はここしばらく敷きっぱなしになっていた布団を持ち上げた。窓を開けて手すりに布団を引っかける。
その時だった。風が会話を運んできたのは。
“まぁ……気持ち悪い……”
“管理会社に連絡したから、すぐ片づけに……放っといて……”
私の浮かれた気分は一気に吹き飛んだ。
風が吹いてくるのは今日も東。高層マンションの方からだ。数日前、朔を見かけたとおぼしき住民の会話が聞こえた方角だ。
私は、朔が死んだことを悟った。
駄目だったのか。人を恐れて逃げ回ったまま、命が尽きてしまったのか。
あるいは誰の手も差し伸べられないままに……(その『誰も』の中には、私も含まれているのだ)
私は階下を見下ろした。誰もいない。決して日光が当たらない灰色のコンクリートの上に、動くものは何もない。
取り返しのつかないことをした、と私は気付いた。カレーを食べに出かける気などすっかり失せていた。
朔の死がきっかけで、私はウェブで猫についての情報を集めるようになった。猫の生態に興味を持つようになった、と言い換えてもいい。
調べてみると、育つ見込みのない仔猫が親猫に見放される事例は珍しくないようだった。また、そうした仔猫が人間に託されるケースも、体験談として幾つか語られていた。
だとしたらやはりグランマは、このままでは未来がない朔の命を、私に預けることで存えさせようとしたのだろうか。私に、賭けたのだろうか。でも何故? 二階の窓からにゃあにゃあ叫んでいるのが気に入られたのだろうか。いや、そもそも去年の秋に成猫を連れてきたのは何故なのか。
そしてあの夜。朔を残して立ち去った後、グランマはどうしていたのだろう。二匹の仔猫の元へ戻ったのだろうか、それとも、どこかで見守っていたのだろうか。朔と、私を。
あれこれと思いをめぐらせてみても、答えが出るはずもないのだった。
ただ、グランマはやはり特別な猫だったように思う。
満月と三日月が成猫して後、グランマと一度だけ会ったことがある。初秋の深夜だった。私は息抜きに遊歩道をぶらぶらと歩いていた。少し先の植え込み沿いを満月がのんびりと歩いていた。人と猫、連れだって夜のお散歩である。
と、道なりに並んだ住宅の門扉の下を潜って、黒猫がするりと遊歩道の上に現れた。
それがグランマだと気付いた私は驚いた。母猫は、子猫が成長するとその子達にテリトリーを譲って自分は他の土地に行くと聞いていたからだ。実際、三日月や満月が親離れしてから、私はグランマの姿を見かけなくなっていた。
満月は、立てた尻尾を嬉しそうにくねらせながら足を早めてグランマに近づいていった。そのまま顔を近付けて、ほおずりするようにグランマの顔の匂いを嗅ごうとする。
あーあ、と私は思った。かわいそうな満月、お母さんだと思って甘えて、フシャーって威嚇されちゃうんだぜきっと。
が、予想に反して、グランマは何もしなかった。前後を行き来しながら懐かしそうにすり寄ってくる同じ大きさの体の満月を、避けもせず歓迎もせず、させたいようにさせている。
成り行きを意外に感じながら距離を置いて見守っていると、グランマは再び動き出した。そのまま遊歩道を横切って反対側のブロックに消えてゆく。生活道路に面したこちら側より古い家屋――広い庭と深い緑が残る地区だ。
満月も後を追おうとしたが、グランマはついと後ろを振り返って大きく口を開けた。軽い威嚇だ。さすがにそれ以上追いすがることもできず、満月は遊歩道に取り残された。
「怒られちゃったねー」
私が満月に話しかけると、満月はとててとこちらに戻ってきて、私のすねに体をこすりつけてきた。なんだか照れ隠しのようだなと私は思った。
話を戻そう。
梅雨が明け、本格的な夏が訪れた。
猫の親子は、階下のコンクリートの上にいつも姿を見せるようになった。母親がいない時は子供同士で寄り添い、建物の壁に身を寄せている。灰色と黒の、2匹の子猫が。
子猫はいつも2匹――いつまでも2匹のままだった。3匹目の、一回り小さな黒い子猫の姿は見えなくなっていた。
寝ていることに飽きると、2匹の子猫はじゃれ合いはじめる。狭い空間を追いかけ合って右へ左へピンボールのように跳ね回る。どこかで蝉が鳴いていた。眼下の空間は盛夏の生命力に満ち溢れていた。
私は、永久に失われた景色――3匹の子猫がいた頃のことを思ってしばらくは悲しかった。グランマの期待に応えられなかった後ろめたさもあった。
そういった意識も手伝って、私は朔の姉妹――2匹の子猫に漠然とした責任を感じるようになった。また、元気な子猫たちの姿はそれだけで魅力的で、守りたいと思わされるものがあった。
要するに、朔への罪滅ぼしと自らの要求が重なって、私は2匹の子猫たち、三日月と満月に肩入れするようになったのだ。
猫ざんげ 等々力渓谷 @todoluckyvalley
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