第5話 強欲(あるいは暴食)――猫は、残酷だ

 私の猫は、脱走する。ほんの時折、私のわずかな隙をついて。

 それは、印鑑あるいはサインを必要とする簡易書留が届いた時だったり、思わぬにわか雨で洗濯物を取り込む時だったり、あるいはあと5分で回収車がやってくる時間のゴミ出しだったり、さまざまだ。

 とにかく、私の猫は私の隙をつく。不用意に開けた玄関の引き戸の10センチの隙間から、水銀が流れ出るように屋外に逃げ出す。しまった、と思った時はもう遅い。猫は私の足下をすりぬけ、四本の足でブロック塀を蹴るように駆け上がり、敷地の外に逃げ出してしまう。残されたのは愚鈍な二足足歩行の人間だ。

 茫然とする私を暖かい陽光が包む。猫が脱走するのは大抵春先、桜も散った頃だ。

 とにかく追いかけなければ、と私は門を開けて道路に出る。

 辺鄙な住宅地なので、幸い車の通行はほとんどない。がらんとした路上で右と左に首を振り、私は猫の姿を探す――どこにもない。

こうなると、もうどうしようもない。私は家に戻ってカリカリ(猫の固形餌)を入れたプロテイン缶を持ち出し、家の前の道路をしばらく行き来する。スチール製のプロテイン缶は動かすと中でカリカリが音を立てるので、猫はこの音=ごはん=快楽と知っているのだ。

 腰の真っ直ぐな成人が缶をシャカシャカ鳴らしながら住宅地の1ブロックをひたすら行ったりきたりを繰り返す光景は、遠くから見ると常軌を逸していることは間違いない。たまに人が通りかかってしまう時があるが、例外なく皆視線を合わせようとしない。相当アレに見えるのだろう。

 通報される前に出てきてくれと、私は缶を鳴らしながら道路を往来する。

 そうして少し後、私にとっては永劫に感じられたけど実際は30分も経っていない間に、猫は姿を現す。

 見慣れた黒い毛並みを認めて歓喜に包まれた私の認識は、次の瞬間、凍り付く。

 猫が、口元に小鳥を加えていたのだ。



 黒い毛並みの口元から見えている黄緑色の羽根が痙攣するように不規則に羽ばたきを繰り返す。メジロだろう。

 猫は私の姿を認めてはいるものの、ウウ、ウウ、と低い唸り声を上げる。興奮しているのか、威嚇しているのか、あるいはその両方なのか。

 だが私の興味はそこではない。

 羽ばたきを繰り返すということは、あのメジロはまだ生きている、羽根も動かせるなら自由にしてやれば大空に飛んでゆけるかもしれない。もしかしたら多少、後遺症は残るかもしれないけど。

 そのために私がすべきことは一つ。猫からなんとかしてメジロを取り上げること。

 猫は低く唸りながら、私の様子をうかがっている。

 ここで叱ってはならない。猫が怯えて逃げてしまうからだ。私が猫の行動に落胆していることも表に出してはならない。猫を傷つける上、おそらく猫にはその意味が理解できないからだ。

 私はしゃがみ込むとプロテイン缶を振りながらまさにねこなで声で呼びかける。おや、なにか持ってきてくれたのかい。ご苦労さま。どれどれ、ちょっと見せてごらん?

 言葉の意味はわからずとも、プロテイン缶の中で鳴るカリカリに興味を惹かれたのか、猫は獲物をそっと路上に置く。メジロは気絶しているのか、横たえられてもピクリとも動かない。

 私は一歩、猫に向けてにじり寄り、缶のフタを開ける。おそらくカリカリの芳香があたりに漂い始めるはずだ。猫の嗅覚はそれを捕らえる。猫の視線がこちらを向く。 

 と、パタタ、と息を吹き返したメジロが羽ばたく。

 猫は反射的にメジロをくわえ直す。

 ああ、と私の口元から声が漏れる。おそらくその声からは、非難と哀悼の色を拭い去ることはできていないだろう。

 私が喜んでいないことを感じ取った猫の行動は素早い。猫はメジロをくわえたまま、私を置いて走り出す。見失ってはいけないと私も即座に後を追う。

 屋内では決して見せることのない野生動物の素早さで、猫が走り込んだのは空き地を利用した月極駐車場だ。ポツポツと乗用車が止めてある。猫は姿勢を低くして、車の下に――決して人間の手の届かない所に潜り込んでしまう。

 もう、手遅れだ。

 為す術なく車のバンパーを見つめる私の耳に、何かが噛み砕かれる音が聞こえる。そして猫の絶え間ない唸り声――まるで、興奮したまま何かをむさぼり食っているような。

私はただその場に立ち尽くす。後悔と無力感に苛まれながら。



私は猫を愛している。この世に私の猫ほど優美で、温かくて、愛らしい生き物はいない。こんな完璧な生き物が喪われることなんてあってはならないと、そんな世界は間違っていると思う。

 その一方で、時折私は思い知らされる。この愛らしい無垢な生き物ですら、罪を犯すのだと。そしてその罪は、いつかその命をもって購うしかないのだと。

 昔読んだドイツの幻想小説の中に『乙女のごとく無垢な罪』というフレーズが出てきたことがあった。私はその耽美的な表現に惹かれつつも何が言いたいのか判然とせず、罪が無垢であるはずはないのにと首をひねったものだった。

 うららかな春の日差し、芽吹く新緑。

 私が自宅の敷地内でしょんぼりとしゃがんでいると、門扉の下をくぐり抜けて猫が帰ってくる。艶やかな毛並みには殺戮の気配はどこにもない。メジロの頭蓋をかみ砕いた口元にすら。

 猫はぎりぎり手の届かない所まで来ると立ち止まり、腰を下ろす。そしてまん丸の目で私を見る。

 ――私は、少しだけにじり寄り、手を伸ばすと猫を撫でる。

 たった今、罪のない命を奪った猫の毛並みは、いつもと同じように温かい。

 もう少し手を伸ばして、私は猫の首筋を押さえる。猫は反射的に逃げようとするが本気の動きではない。私は猫を引き寄せて抱きかかえる。猫はいつもと同じように私の腕の中に収まる。

 春先の庭で、私は抱きしめる。私の猫を、猫の罪ごと。

  

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