第7話 虚飾――猫は、着替える
私の猫は、一見すると普通の黒猫に見える。が、ただの黒猫ではない。
猫や犬の毛には、アウターコートと呼ばれる外側から見える長い毛と、インナーコートと呼ばれるアウターコートの間を埋める短い毛がある。私の愛猫は、アウターコートは黒いのだがインナーコートは灰色に近い白だ。だから、毛並みをかき分けると黒い毛の下から白い毛並みが見える。さらにその白い毛並みをかき分けると桜色の肌がわずかにのぞく。
このアウターとインナーの毛並み両方がとても手触りが良い。ビロードのように滑らかで柔らかいのだ。これは欲目でもなんでもなく、複数の獣医から同じことを言われて褒められたというれっきとした事実である。
そして、毛並みをよく見ると、かすかに黒の中に濃淡がある。木目のような独特の縞模様が見えるのだ。
私の猫の血縁は、母親の方なら祖母猫の代までわかっている。彼女たちは代々の野良にゃんで、祖母にあたる猫はほんの少しだけ茶褐色がかった黒猫だった。その祖母猫から生まれた猫――母親猫は祖母猫と同じく黒猫だったが、胸元に一箇所だけ三日月の形の白い斑が入っていた。そして、その母猫の姉妹、つまり叔母猫は、灰色の毛並みに黒で木目のような独特の縞模様が入っており、アメリカンショートヘアと呼ばれる猫にそっくりの外観だった。
彼女らの毛並みから推測するに、どこかで洋猫のDNAが入っているのかもしれない。毛並みの柔らかさもそれに起因するのだろうか。
猫は年に二度、夏と冬で換毛する。毛並みが生え替わるのだ。
冬毛もそれなりに大変だが、夏毛になる時は大騒ぎだ。ブラシで毛並みを梳いても梳いても白いインナーコートが抜けてくる。黒い毛並みを手で撫でただけで白い毛がわき出る様子は、猫の身体から煙が出てくるような錯覚すら覚える。毎年のことながら、これは毛並みの生え替わりではなく病気ではあるまいかと不安になるほどだ。
ともかく、毛並みを梳く。梳くったら梳く。グルーミング用のブラシがあっという間に目詰まりを起こして毛の固まりになるのを抜き出してゴミ箱に捨て、再び梳きまくる。
毛並みを梳かれる猫の方は呑気なものだ。最初の数回は大人しくしているが、そのうちくすぐったいのか飽きてきたのか、私の手の下ブラシの下をくぐり抜けてどこかに行こうとする。
こちらは途中で逃げられては困るので、すかさず首のあたりを押さえつけてなおも梳く。抗議の鳴き声が上がるがお構いなしである。このまま冬毛を生やしていては猫も暑いし、それになんといっても当の本人、つまり本猫がかゆがって後ろ足で自分を掻く。その度に白い毛がふわふわと部屋中に漂うのだ。お手入れ待ったなしである。
こうなると人と猫、二本足生物対四本足生物の仁義なき戦いだ。姿勢の安定を文字通り手放して前肢を作業専用に特化させた二足歩行が勝つか、四肢全てを移動中心に振り分けた四足歩行が勝つか、進化の正否が問われることとなる。ホモ・サピエンスの誇りにかけて、そして部屋の美化と衛生にかけて、負ける訳にはいかない戦いである。
負ける訳にはいかない戦いが、勝てるとは限らない。
猫は必死に抵抗を試みるが、やがて大人しくなり、ゴロゴロと喉を鳴らし始める。この音が聞こえると、こちらの集中力も下がる。作業はいつの間にか、毛並みを梳くというよりブラシで猫を撫でる傾向を帯びてくる。
それを見透かしたかのように、猫は素早く身体を側転させるとこちらに腹を見せ、そして前足でブラシを持つこちらの手を掴む。不意打ちの媚態に思わず止まる動作。そこへすかさず繰り出される後ろ足からの連続猫キック。まさに猫技、いや寝技。
愛猫から甘え混じりの猫キックを喰らって、心躍らぬ愛猫家などいない。
あら痛いやめてやめて、と口では言いながら、私は自分の右手を猫の暴虐にゆだねる。猫は丸い目をキラキラさせてこちらを見上げながら、前足は耐えられるギリギリの力で爪を立て、後ろ足で腕をガシガシと蹴る。全身全霊でこちらに戯れかかってくるのが伝わってくる。その嬉しさ、心地よさ。
気が付けばグルーミング用のブラシは床の上に転がり、猫キックに合わせて抜け毛が空中を舞う様子はさながらたんぽぽの綿毛が舞う春の野原だ(やや誇張あり)。
人間は決して猫に勝てない。これは宇宙の真理なのだ。
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