三
真空の3度の海をただ一人漂っているみたいな孤独
宇宙空間の温度は、3度なんだそうである。十和ちゃんの家で、銀河の綺麗な写真を見せてもらっているときに、十和ちゃんが教えてくれた。
「3度って言っても、〝どしー〟じゃないよ」
「〝どしー〟……?」
℃、と十和ちゃんは宙に指で書きながら、
「セルシウス温度のこと。あれ、じゃファーレンハイトは、〝どえふ〟って言うのか?」
一人で首を傾げている。もちろん、何のことやら、わたしにはわからない。
十和ちゃんは、ときどき突拍子もないことを言い出す。
が、多分十和ちゃんは、引き出しをものすごくいっぱい持っているのだ。十和ちゃん的には、話にちゃんとつながりがあって、いろんな引き出しから中身を次々取り出しているだけなのである。ただ、そのつながりをあんまり説明してくれないというか……そもそも、「相手がそれを知らないかもしれない」ということを、思いつきもしないというか。だから、傍目からは唐突に見えるんだろうな、と最近、理解してきた。
もちろん、訊けばきちんと教えてくれる。
「ふぁーれんはいとって、何?」
「ブラッドベリの『華氏451度』って貸したっけ」
「借りてない」
「じゃ、今度貸すよ、面白いから。ブラッドベリってアメリカ人なんだけど、向こうは温度の単位がファーレンハイトなんだよね。記号は、〝どしー〟のCの替わりにF」
「ああ、それで〝どえふ〟」
思わず納得。
十和ちゃんの引き出しの中身を形作っているものの大半は、たくさんの本なんだろうと思う。十和ちゃんのお父さんは〝活字中毒〟という言葉がぴったりの人で、この家は至るところ、十和ちゃんの本と、十和ちゃんのお父さんの本が山積みなのだ。
「いや、本当にそう読むのかは知らないけど。で、ファーレンハイト度を日本語で言うときは、華氏何度。日本で使っているのはセルシウス度だから、摂氏何度って言う」
言われてみれば、摂氏何度、という言葉は、確かに耳にしたことがある。
「それでその、『華氏451度』だっけ? 摂氏に直すと、何度なの」
うっ、と十和ちゃんは、英語の長文読解を訊いたときのような、嫌そうな顔をした。
「あんな換算式、覚えてられるわけないじゃないか。普段、用もないのに」
あんな、と言われても、わたしは知らないのだけれど。十和ちゃんは立ち上がると、本棚から『物理学小事典』を持ってきて調べて、計算した。約233度。
「紙が燃え始める温度なんだとさ。『華氏451度』、焚書の話なんだよ」
本の内容とか、そういうことはそらで覚えているのが、十和ちゃんである。
「それで、宇宙の温度が3度っていうのは」
「ああ、そっちは換算が楽。ケルビンは、摂氏から273.15度引けばいいだけだから」
「けるびん……?」
また、知らない言葉が出てきた。
「摂氏マイナス273.15度を絶対零度として、ケルビンって単位で温度を表すんだよ。3K宇宙背景輻射は、摂氏に直すと、大体マイナス270度」
さんけー、と十和ちゃんが言うその〝けー〟は、多分けるびんの頭文字なんだろう。マイナス270度。想像もつかないが、ものすごく寒いということだけはわかる。しかし。
「絶対零度って、ずいぶんハンパな温度なんだねぇ」
「〝どしー〟とケルビンは、物差しの一目盛りの長さは同じなんだけど、測り始める位置が違うんだよ。摂氏ってのは水が凍るのが0度、沸騰するのが100度になるように決めた温度で、それとは無関係に、物質には〝これ以上低くなれない〟という温度が存在する。その温度を、摂氏の物差しを延長して測ったら、マイナス273.15度だった、と」
「それ以上、低くなれないの?」
「なれない。大雑把な話をすれば、派手に動いているものは温度が高くて、じっとしているものは温度が低いんだ。じゃあ、何もかも止まってしまったら? 原子や分子のレベルまで完全に止まってしまったら、それ以上は低くなれないだろ。それが、絶対零度」
――原子や分子のレベルまで完全に止まってしまったら。その想像に、すっと背筋が寒くなった。マイナス何度と言われるよりも、それは遥かに冷たかった。
ジリリリリン、とそのとき、レトロな電話の音が鳴り響いた。十和ちゃんは電話に出に行ってしまい、わたしは部屋に一人取り残された。
本に埋もれた十和ちゃんの机の上の、写真立ての中の一枚の写真と、目が合った。
……十和ちゃんのお母さんは、わたしにとっては伯母さんだけれど、わたしのお父さんのお姉さんだ。その伯母さんは、わたしがすごく小さい頃に交通事故で亡くなってしまったので、わたしは全く覚えていない。十和ちゃんも、そのときはまだ小学生にもなっていなかったので、そんなにいっぱいは覚えていない、らしい。
わたしが〝死〟ということを考えるとき、必ず思い浮かべるのが、十和ちゃんのお母さんだ。
もちろん、伯母さんがいなければ、十和ちゃんはこの世に生まれていない。でも、伯母さんは、今はもういない。その〝いない〟ということ、この世界から消えてしまうのだということを考えるといつも、からっぽの宇宙空間に一人放り出されたみたいに、怖くなる。
だけど本当は、からっぽの宇宙空間に放り出されたら、消えてしまうのではなく、凍りついてしまうのではないか。わたしの身体を構成する原子や分子の、一個一個まで。その想像は、とても怖かった。
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