二
逃げるなら重力さえも脱ぎ捨てて一〇〇万光年星の彼方へ
十和ちゃんは頭がいい。
「いやいやいや。先輩とか同輩とか見てると、あたしなんか下の下だね。世の中、頭の出来が違うヤツってのはいるもんだ」
そう言って必ず否定するけれど、親戚中で、大学院なんてのに進学したのは十和ちゃんだけだ。何でも、大学を卒業したあとに、さらに修士課程というのと博士課程というのに行くんだそうである。十和ちゃんは今、修士の一年で、天文学を勉強している。
去年、わたしが高校三年の受験生だったときは、時々、数学の問題などを教えてもらった。英語の長文読解を質問したら「あたしは理系だ」と一蹴されたが、国語だと一緒に考えてくれたりするのである。単に、十和ちゃんが英語を嫌いなだけらしい。
ともかく、高校生の数学なんかは軽々と教えてくれて、改めてわたしは「頭いいなー」と感心したものだけれど。発想が奇抜と言うか、ときどき突拍子もないことを言い出すので、親戚の中では〝頭がいい子〟というよりは、〝ちょっと変わった子〟という扱いだったりする。
十二月末、ということはセンター試験まで残り一ヶ月を切ってしまい、わたしが受験のプレッシャーに押し潰されそうになっていた頃。わたしの家に教えに来てくれていた十和ちゃんに、半分冗談まじりにグチったことがあった。
「もう、逃げちゃいたいよ。一〇〇万光年くらい」
もちろん、一〇〇万光年なんて距離はテキトーで、ものすごく遠くまで逃げたい、というだけの意味に過ぎない。が、それを聞いたときの十和ちゃんの反応が、さすが十和ちゃんだった。
「星野鉄郎にも及ばないなあ」
「――は?」
呆気にとられるわたし。
「ま、鉄郎は逃げてったワケじゃないけど」
「それ、ダレ」
「知らない? 『銀河鉄道999』」
タイトルを聞いたことはあるが、わたしの知識は、メーテルという女の人が出ることくらいである。そういえば、主人公の少年がそんな名前だったような気もする。
「鉄郎が、機械の身体をもらうために、鉄道に乗って旅するんだよ。その目的地が、アンドロメダ星雲」
「……はあ」
「最近は、あんまり星雲とは言わないね。アンドロメダ銀河。で、地球からアンドロメダ銀河までの距離が確か、二六〇万光年かな。一〇〇万光年だと、半分も行ってないなー」
いや、別にわたしは、鉄郎に勝ちたいわけではないのだけれど。
その頃にはすっかり毒気を抜かれたというか、「逃げたい」という話は割とどうでもよくなっていて、
「じゃ、一〇〇万光年だったら、どこまで行けるの」
と訊いてみた。
「んなこと急に言われても」
悩む十和ちゃん。「銀河系は、確実に飛び出してるね、直径十万光年だから。大マゼラン雲や小マゼラン雲も、通過してるな。ローカルグループの中だとは思うけど」
「ローカル……?」
「銀河系と、アンドロメダ銀河と、それぞれのまわりの小さい銀河をひっくるめてローカルグループ、局部銀河群っていうんだよ。一〇〇万光年だと、銀河系からは離れちゃってるわ、アンドロメダにはまだ届いてないわで、ちょうど何もないところかも」
「どこにも着かないのかあ……それは、あんまり面白くないかも」
「そーそー。どうせなら、もっと派手に逃げなきゃ」
十和ちゃんが、ヘンなところで力説する。
「宇宙全部の大きさって知ってる? 一三七億光年だよ。それに比べりゃ一〇〇万光年なんて、ローカルもいいとこ。隣の市にピクニックに行ったくらいのもんさ」
十和ちゃん節全開のたとえ方に、ちょっと笑ってしまった。
――その頃、十和ちゃんは卒業研究の真っ只中でものすごく大変で、もしかしたら十和ちゃん自身が逃げちゃいたいくらいだったかもしれないことを知ったのは、わたしの受験も十和ちゃんの卒業研究も全部終わったあとのこと。
十和ちゃんのお父さんの話だと、連日大学に泊り込んでいたとか、年末年始もほとんど顔を見た覚えがないとかいう凄い状況で、そんな最中にわざわざ時間を作って、わたしの家に来てくれていたのだ。そのことでわたしがお礼を言うと、
「現実逃避の一環だから」
けろっとした顔でそう答えた。「テスト前になると辞書を編纂したくなるようなもんさ」
……辞書を編纂したくなったことはわたしにはないけれど、試験とかが近づくと関係ないことをしたくなる、という心理は理解できる。どうも十和ちゃんにとっては、わたしのところが逃避先だったらしい。しかし、あのときの会話を覚えていたわたしは、
「ずいぶんと近い、逃避先だねえ。一光年も行ってないじゃない」
そう言うと、十和ちゃんは苦笑いした。
「だから、もっと派手に逃げなきゃって言ったろ」
何はともあれ。
この春、わたしは無事、十和ちゃんと同じ大学の一年生に。十和ちゃんは大学を卒業して、修士の一年になったのだった。
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