Ⅳ-3 世界のどこにもない時計
突然現れた子供に、兵士オラシオは殴りかかった。
けれど拳は手応えもなく宙を切り、オラシオは勢い余って倒れた。上半身だけを起こして見上げる。悲しい目をした子供が立っていた。
「悪魔め」
オラシオは毒づく。さっきから頭の中が騒がしかった。膨大な時間が駆け巡り、その中でオラシオは何度も死んでいた。槍が刺さり、剣で首を斬られ、怒りと恐怖の中で死んだ。死んだことに気づかず生き返り、何事もなく死んで、また生き返った。
たくさんの死体を見た。最初は怖かった。怖かったから染まった。自分は強い。強いから殺せる。殺しても何も問題にならない。ここはそういうところだと納得した。
子供が手を伸ばしてくる。オラシオは振り払おうと腕を動かした。けれど子供の手は難なくオラシオに届いてしまった。
「来るな! 触るな!」
ひんやりとした感触がオラシオの額に張りつく。子供の小さな手が視界をふさぐ。その暗闇に、オラシオは見た。
生まれ故郷には家族がたくさんいた。けれど貧しかった。オラシオは出世を望んだ。偉くなって、金持ちになって、家族を支えたかった。
老いた両親、痩せた弟妹、病で死んだ兄。それらの顔が次々と見えた。そして、オラシオがいない間にどう生き、どう死んだのかを見た。
オラシオの口から、息が漏れた。
自分が殺戮を遊戯に見立てている間に、守りたかった家族は地道に生きて、子を残し、死んだ。けれど貧しさは子孫の命も奪った。生き延びて血脈を繋いだ人数より、オラシオが殺してきたインディオの数の方が多いのだと知った。
オラシオは笑った。涙が浮かんだ。
どこで狂ったのだろう。何がいけなかったのだろう。
悪魔はどこにいたのだろう。罪は誰にあったのだろう。
オラシオは悟った。
ただ、自分は、弱かったのだと。
弱さから目を背けた、馬鹿野郎だったのだと。
司令官イラリオ・ガルシアがその子供を見たとき、彼は溜め息をついた。
手の中には懐中時計がある。いつかのある日、時計師が訪ねてきて置いていった。どこかで役に立つこともあるかもしれないと引き出しにしまったが、それきり忘れていた。時計はもうずっと、長いこと、執務机の引き出しの中にあった。
今、その時計は動いている。島の空気が一変したとき、引き出しの中で時計が呼んだように思ったのだ。だから手に取った。だからイラリオは、もうわかっていた。
「あの船乗りめ」
イラリオは吐き捨てるように言った。正面に子供が佇んでいる。穏やかな目がイラリオを見ていた。
「孫まで船乗りとは、縁起が悪い」
時計の音が愛しい。せわしなく、カッカッカッと鳴いている。それは心臓の音にも聞こえた。命の音、鼓動。
「娘は立派だった」
指先から消えていく自分の手を見つめて、イラリオはつぶやいた。
「たいしたものだ。本当に、たいしたものだ。こんなに不甲斐ない父親なのに」
血を見るのは嫌いだった。無抵抗な者を痛めつけて驕る連中の顔が嫌いだった。それでも何も言わなかった。もめ事はもっと嫌いだったから。
自分さえよければいい。自分に被害がなければそれでいい。円滑に、敵を作らず、ゆっくりでいいから出世すること。それがイラリオの目指した生き方だった。
「娘の友達を、助けてやれなくてすまなかったと思っている」
本心だった。助けてあげたかった。
「私は逃げた。卑怯者で、弱くて、家族を守る力もない」
何もできなかった。何も。
無力な父のかわりに、娘が未来を繋いでくれた。
「妻に会えるだろうか」
イラリオはこの世でたったひとり、彼が心を開いた女性の名前を呼んだ。
呼びかけを抱きとめるように、時計は静かになった。
畑に亀裂が入っていた。作物が枯れている。空の色がおかしかった。太陽はまだ中天にとどまっているのに、透き通るようだった青い空が夜のような色に変わっている。暗闇の浸食に抵抗するかのように赤紫色に輝く太陽は、まるで毒に蝕まれ悲鳴をあげているようだった。
村が燃えていた。あちこちの家から火の手が上がっている。人々が騒いでいる。頭を抱えて同じ場所を行ったり来たりしている人もいるし、茫然と立ち尽くしている人もいる。
フアンの肩を誰かがつかんだ。ビクッとして振り向くと、ディマスが険しい顔で立っていた。
「リカルド、おまえ」
フアンは慌てた。
「あ、あの、俺はリカルドじゃなくて」
「ばかやろう、黙っていなくなるなよ」
怒気を含んだ声でディマスが告げた。その目は涙で潤んでいた。
「酒を用意してたんだぜ。とっておきの酒だ。一緒に飲みたかったのに」
「……ごめん」
ディマスは相好を崩した。ぽんぽんとフアンの肩を叩く。
「一介の船乗りで終わるなよ。それを言いたかった」
すっきりした顔でディマスは笑い、そして消えた。肩に触れていた手の重みが消えて、もうどこにもディマスはいなかった。
見れば、体の輪郭を失っている人がたくさんいる。体が半透明になっていて、煙がかき消えるように完全にいなくなってしまう人が何人もいた。その人たちに悲壮感はなく、誰もが納得したように微笑んでいた。微笑んだ順に消えていくかのようだった。
「フアンさん、これはどうしたことでしょう」
マルティンがフアンに向かって歩いてきた。困ったように笑っている。彼の体も半透明だった。
「いろんなことをいっぺんに思い出しましたよ。もう何が何やら」
「マルティンさん……」
「でもね、不思議と平気なんです。いろんなことがあって、怖い思いもしましたが、でも笑っていられるんです」
マルティンは周囲に視線を投げた。
「あなたは一刻も早くここから出た方がいいようですよ。ほら、島がもたない」
マルティンの言葉が終わるか終わらないうちに、ふたりが立っている足下に亀裂が走った。フアンは驚いて後ずさる。大きな亀裂の向こうでマルティンの体が消えていく。
その時、ひとりのインディオがマルティンの背後から駆け寄ってきた。ほとんど裸の、インディオの女性だ。
「ああ、紹介します」
マルティンは彼女の肩を抱き、フアンに向き直った。
「僕の妻です。といっても、妻にすると決めたのはついさっきなんですが。もっと早く認めていればよかった。この純朴さは黄金に勝る宝ですよ。それに、美人でしょう?」
マルティンに抱き寄せられた女性はフアンを見つめ、にこりと笑った。その目から涙が一筋、こぼれ落ちる。
フアンは驚いて、嬉しくて、笑い返した。
「無事にスペインまで帰り着けることを祈っています。リカルドさんによろしく」
マルティンは手を振った。それを最後に、ふたりは一緒に消えてしまった。
フアンは村に背を向けて歩いた。砦の前を通りかかったとき、森の方から鳥が一斉に飛び立つような音がした。すぐに地響きがやってくる。山が崩れているのだろうか。
フアンは沈黙する砦をしばらく眺めたあと、小走りに海岸を目指した。
コルバイ村も燃えていた。地面には縦横に亀裂が入っている。周囲を見渡したが、この亀裂を飛び越えないと先へ進めそうもない。
フアンは助走をつけて跳んだ。かろうじて亀裂の向こうに着地する。
顔を上げたフアンの目に、燃える木が映った。火の粉を浴びながら男が立っている。男は村全体をぐるりと眺めまわしていた。そしてフアンと目が合う。
「カシケさん」
フアンが呼ぶと、カシケは笑って近寄ってきた。頭に挿した鳥の羽根、鼻にさげた小さな黄金。カシケはフアンの前に立つと、悲しそうな顔をした。
「スサナ、ごめんなさい」
フアンは目を見開いた。カシケは手のひらを見せるように両手を軽く挙げて、それを頭と一緒に下げた。
「スサナ、ごめんなさい。しれいかん、ごめんなさい。みんな、ごめんなさい」
たまらなくなったフアンはカシケの両肩を押さえた。カシケが顔を上げる。凜々しいと思った。恐らく今のリカルドとそう歳が変わらないはずのカシケは凜々しく、眼差しは力強い優しさにあふれていた。フアンは口を開き、声を絞り出した。
「ごめんなさい、ごめん……」
ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
それしか言葉が出てこなかった。
カシケは慰めるようにフアンの腕を叩いた。おおらかな微笑が間近でフアンを見つめる。その顔が薄れていく。カシケの肩をつかんでいたフアンの手が、何もない虚空を握りしめた。最後までカシケはフアンと目を合わせて微笑んでいた。
フアンは走った。村を抜けて、森を抜けて、浜に出る。
海岸線が近かった。潮が満ちているのか、砂浜にあった小舟は波にもてあそばれていた。霧が濃い。白く塗りこめられて水平線が見えない。
フアンは波を蹴立てて小舟に乗りこんだ。波が打ち寄せてきて、引く。それに乗って小舟は島から大きく離れた。打ち寄せてくる波のときはたいして動かないのに、波が引くときは一気に動くのだ。まるで海が舟を島から連れ出そうとしているようだった。
白い霧に閉ざされている水平線から顔をそらし、島を振り返った。遠ざかっていく浜辺にあの子が立っていた。
フアンは身を乗り出した。呼びかけようとして、その子の名前を知らないことに気づく。もどかしかった。フアンは食い入るように子供を見つめた。
子供はフアンと目が合うと、満面の笑みを浮かべた。そして何やら奇妙な動きをした。足踏みをしたかと思うと、両手をひろげ、ぐるぐるとまわりはじめたのだ。
それは誰かと円になってまわるような動きだった。伸ばした両手のさきで、誰かと手を繋いでいる。そういう動きだった。それが何の再現なのかに気づいて、フアンは泣きそうになった。
子供は楽しそうだった。飛び跳ねるようにずっと踊っている。無邪気にはしゃいで、踊りながらフアンに笑いかけていた。
「あ」とフアンは声を漏らした。子供のお腹のあたりで何かが揺れている。フアンはポケットをまさぐった。フェルナンドから貰ったはずの時計がなかった。
「あれって、ええ?」
子供が首にかけている紐の先で、ふたつの懐中時計が踊っていた。フアンの口元に苦笑が浮かぶ。
「くれてもいいじゃん。なんでだよ」
楽しそうに踊る小さな影を目に焼きつけたかった。きっと、あの子は時計が好きなんだ。そしてあの時計たちは、もう時を刻まない。この島と同じように。
「いいよ。ビエウの島の時間は、俺の中に流れてるから」
二百年前に時を止めた島。何度も同じ夢を見るかのように、一年間を繰り返してきた島。その歪な在り方を維持していたものが何なのか、はっきりとはわからない。けれどきっと、「もうじゅうぶん」だと笑えたから消えるのだろう。フアンはそう思う。
島の姿が薄れていく。ほのかに甘い香りがした。アナカオナが焼いてくれたパンのような、あの山で香っていた木のような、優しくて悲しい香りだった。
白い闇の中を舟はゆらゆらと進んだ。やがて空から日差しが降りそそぐ。青くうねる海が姿を現す。
フアンは水平線を見渡した。霧は完全に消えている。ついさっきまで島があったあたりには何もなかった。右手に目を向けると、遠くに小さな島影が見えた。
あれは、イスパニョーラ島か。
青空を背負って海鳥が鳴いている。その白い体を目の端にとらえながら、帰ってきた、とフアンは感じた。
帰ってきた。
だから帰ろう、スペインに。
父に会ったら、すべてを話そう。どうやらみんな親父に会いたかったみたいだよって。母さんのこと、わかったよって。フェルナンドさんは親父の歯を折りたかったらしいよって。どんな顔するだろうな。
バルバラに会ったら、結婚しようと言おう。ちょっと怖いな。でも言ってみよう。お金はないし、きっと苦労させるだろうけど、君がいいんだって。受け入れてくれるかな。もう海に出るなと言われたら、時計師を目指してみようかな。
もしも子供が生まれたら、話してあげたい。カンティガという、ビエウという島で起きたことを。悲しい話だ。だけど悲しいだけでは終わらない話だ。それを聞かせてあげたい。
1714年、カリブ海に消えた悲劇の島の記憶を携えて、フアンは帰国の途についた。
了
カリブの時の島 晴見 紘衣 @ha-rumi
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