Ⅳ-2 過去と未来

 鳥が飛び立った。椰子の葉が揺れた。

 家の中に入ると、明るい日差しの残像で目がチカチカした。フアンは子供と一緒に工房に向かった。


「フェルナンド、さん」


 呼びかけると、天才時計師は目を開けた。椅子に座ったまま億劫そうにフアンを見る。

 ひどくやつれた顔だった。目の下にクマができているし、薄い唇は血色が悪く、無精髭も生えている。さっきまで見ていた過去のフェルナンドとはまるで別人のように精彩を欠いていた。


 この人が、とフアンは思う。

 この人が。

 この人が――


「その、なんて言ったらいいか、わかんないけど。何をしなきゃいけないかはわかってる」


 フアンが言うと、フェルナンドは笑った。フッと息を抜くような、力のない笑い方だった。


「何をしなきゃいけないか、だって? おまえは帰るんだ。そうだろう?」

「そうだよ。でもその前に、この島の時計を動かす」

「島の時計?」


 フェルナンドの目がぐるりと動いて、フアンではなくフアンの隣に向けられた。子供が佇んでいる。フェルナンドの視線を受けても特に何の表情も浮かべない。フェルナンドはフアンに視線を戻した。


「スサナもそんなことを言ってたな。どうやって動かすんだ。動かしたらどうなるんだ」

「これで」


 フアンは右手を掲げた。握っているのはゼンマイを巻く鍵だ。フェルナンドは壁際の振り子時計を見やった。


「いつ持ち出した?」

「この子が渡してくれた」


 フアンが顔を向けると、子供は動いた。振り子時計に近づいて正面に立つ。文字盤を見上げ、熱心に見入って微動だにしなくなる。

 フェルナンドは子供に視線をそそいだ。


「動かしたらどうなる」


 子供は無反応だ。フアンは目を伏せた。動かしたらどうなるか。動かしたら、フェルナンドはどうなるのか。答えることをためらった。けれど答えはひとつだから、顔を上げた。


「動くよ。時間が」

「おまえは何を見た?」


 血走った目を向けられ、「う~ん」と苦笑を返す。


「記憶かな? とっても長い、この島の過去を旅した」

「私も旅をしてきた。思い出したくない過去と、知らなかった過去を見た」

「そっか。うん、いや、そっか」


 フアンはポリポリと頭をかいて笑った。

 生まれなかったはずの命。それが俺か、と思った。あり得ないことが起こった、それが俺か、と。


 だけど、生まれるべきではなかった、わけではないんだ、とフアンは思う。少なくとも生まれることを望んでくれた人がいたのだから。守り抜いてくれた人がいたのだから。


 あり得なくても、あってはならないわけじゃない。そう信じたいし、今の自分には帰りを待ってくれている人がいる。そのことが、フアンの心を支える。


「今も、俺にいなくなってほしい?」


 フアンはこわごわと尋ねた。

 赤く濁った目がフアンを見ている。その眼差しに冷たさはなかった。時計師が完成後の時計を吟味するときのような、厳しいけれど、それだけではない光が宿っている。


「おまえは、私がどうにかできるような相手じゃないんだろう。知れ切った時を生きてきた私には。最初から、私の手に負える存在じゃなかった」


 フェルナンドが無愛想に口を開いた。フアンから視線をそらさずに、はっきりと告げる。


「予測不可能な未来そのものだ」


 フアンは言葉に詰まった。突き放されたようでいて、抱きしめられたような、なんとも言いようのない感覚が指先まで駆け抜けた。返す言葉がなかった。膨大な過去という時間を生きてきた人を前に、なんて言えばいいのだろう。


 けれどその言葉を聞けたからこそ、フアンは腹をくくった。

 吐息と一緒にうつむいて迷いを振り払う。覚悟の笑みを浮かべ、顔を上げた。


「やっぱり、あんたは天才だったね。ほとんどゼロのところから、誰よりも先に懐中時計を生み出した。二百年たってもまだ誰もあんたに追いつけてないよ」

「何の価値もないがな」

「価値はあるよ。意味もある」

「どこに?」


 フェルナンドが自嘲気味に笑った。

 どれだけ精巧な時計を作っても、それが世界を変えるほどの発明だったとしても、この閉ざされた島でいったい何になるのかと、言外に告げている。それでも作らざるを得なかった苦悩と孤独が、やつれた顔にありありと浮かんでいた。


「ほんのちょっと先のことも見たんだ」


 まじめな顔で告げたフアンは、手の中の鍵を見つめた。木で作られた軽い鍵だ。持ち手の部分にくぼみがある。振り子時計の背面に引っかけるためだろう。


「振り子時計を動かすと、島の時間が動くらしいよ。そしたら、みんな記憶を取り戻して、消える。アナカオナみたいに」


 鍵を受け取ったとき、フアンにはその光景が見えた。消えるのは人だけではない。歯車のような時間を過ごしてきたこの島そのものが、消えていく。


「あの日が来るのか? あの日の続きか?」


 フェルナンドが腰を浮かせた。顔色が変わり、狂気とも怯えともつかない危うい光が瞳に宿る。

 フアンはかぶりを振った。


「もう終わったんだよ、あの日は」


 歴史に名を刻むことのなかった天才時計師に、フアンは語りかけた。


「とっくに終わってるんだ。だから、消えるだけだよ」


 フェルナンドの顔が硬直する。放心したように腰を下ろした。


「終わってる……消えるだけ? 島の時間は……それじゃあ、それなら私はいったい何のために生きてきたんだ。何のために……どうして……」

「俺に会うため、ってことで許してくれない?」


 おどけたふりでフアンは告げた。

 フェルナンドの孤独を思えばとても胸が痛い。けれどフアンは悲嘆に寄り添って一緒に暗いところへ落ちていく人間ではなかった。かといって、すぐに手を放す男でもなかった。


「あんたに会えてよかった。ここに来てよかった。ずっと忘れない。ずっと」


 フェルナンドの顔に落ち着きが戻る。視線をさ迷わせ、フアンを見た。赤い目は悲しげだったけれど、張り詰めていたものが解けたような気配も滲んでいた。

 フアンは振り子時計に近づいた。子供の背後に立って、鍵を挿す。


「フアン」


 ゼンマイを巻き始めたフアンをフェルナンドが呼んだ。しわがれた声には咎める響きも、うろたえる響きもなかった。


「どうして船乗りになった」


 フアンはくすりと笑った。


「親父が見てる世界を見てみたかったから」

「一緒の船に乗るのか」

「まだ一回だけ。親父さ、体調崩して落ちこんでるんだ」

「悪いのか」

「そこまで深刻じゃないよ。今までが元気すぎただけ。ねえ、俺じゃなくて親父に会いたかった?」

「どうかな。会ったら殴って歯の一本ぐらい折ってやったかもしれん」

「おっかねえなあ、許してやってよ」


 ゼンマイが巻き終わる。子供が両手を伸ばした。小さな手が、石の入った木箱をつかみ、左右に揺らす。


 床が沈みこむような感覚に襲われた。フアンは慌てて踏ん張ったが、床に変化は見られない。錯覚だったのか、自分が揺れただけか。


「ああ、やっぱり時計は動いてこそだな」


 しみじみと、嬉しそうにフェルナンドがつぶやいた。目尻に光るものが浮かんでいる。

 振り子は揺れ続けた。子供が手を離しても止まることなく、規則正しく揺れている。チクタクと歯車の動く音がする。


 また、床が沈みこむような感覚に襲われた。フアンは入り口まで移動して壁に手をついた。フェルナンドは満足そうに振り子時計を眺めている。


 針が動いた。一分が過ぎたのだ。焦げ臭い煙が漂った。工房の壁から炎が染み出してくる。棚に燃え移り、熱がフアンのもとまで届いた。フェルナンドも煙に巻かれている。それでもフェルナンドは咳きこむこともなく、熱がる素振りもなかった。


「行かないのか? 急がないとおまえも一緒に消えてしまうぞ」


 からかうようにフェルナンドは肩を揺する。フアンの目は、机の上にあるふたつの懐中時計に吸い寄せられた。


「その時計、くれないかな」

「欲しいか?」

「すごく」


 フェルナンドはまんざらでもなさそうに笑って、懐中時計を投げて寄越した。


「使い物にならんだろうが、やるよ。おまえたち親子に」

「ありがとう。大事にする」


 フアンはふたつの懐中時計を重ねた。手のひらで軽く包んでから、そっとポケットにしまう。


「……行きます。さよなら」


 フェルナンドの目が細められる。


「ああ、さよなら。会えてよかったよ」


 フアンは振り子時計を見た。子供が首だけ振り向いてフアンと目を合わせる。その顔が、ニッと笑った。無邪気な、晴れやかな笑顔だった。

 フアンも笑顔を返した。軽く頭を下げて、フェルナンドの家を後にした。






 フアンが出て行ってしまうと、フェルナンドは溜め息をこぼした。

 無造作に積まれた設計図が目に入る。時計の設計図にはもう長いこと手を入れていない。船の設計図はリカルドとともに書いたものだ。スサナが消え、リカルドもいなくなり、砂浜の作業場も消えてしまったが、これだけは残っていた。


 作りかけの懐中時計を手に取ったとき、自分の手が半透明になっていることに気がついた。迫ってくる炎をチラリと見て、振り子時計に目を戻す。炎の熱さはまったく感じなかった。


「子供か……私にも、いたんだな」


 文様のないインディオの子供がフェルナンドに視線を送った。体は振り子時計に向けたまま、顔だけでフェルナンドを見ている。何かを訴えかけるようなその眼差しに、フェルナンドはハッとした。


「もしかしてそれを教えたくてリカルドをここに――?」


 不思議な子供は歯を見せて笑った。屈託のないその笑顔に、フェルナンドは吐息をついた。


「そうか……おまえは、そうか……」


 フェルナンドは微笑む。振り子時計が針を進める。


「君の名前を教えてくれないか。喋れるんだろう? 声も、出せるんだろう?」


 子供は小首をかしげ、次いで笑った。小さな口から音がこぼれた。


――ビエウ


「そうか。そうだったのか」


 フェルナンドは愉快な気持ちになった。

 ビエウが振り子時計に向き直る。今まで何度も見てきた横顔にフェルナンドは語りかけた。


「あの日、あの悲しい夜に、時がまわることがなかったなら。生き残っていたのは私だけだったんじゃないかと考えたんだが、どうだろう?」


 小さな横顔は返事をしなかった。振り子時計の長針が動く。それを見て、ビエウが笑う。


「時計が好きか」


 フェルナンドも笑った。


「時間が目に見えるものとして形になっていくのは、面白かったか?」


 フェルナンドは作りかけの時計を見下ろした。最後の一個。自分の時計。あるはずのない時の中で作った、生み出すはずのなかった懐中時計。

 あの日に自分が生き残っていたとしても、死んでいたとしても、この島の木で作ってきた時計は、本来なら生まれるはずがなかったものだろう。けれどこれは過去だ。フアンは未来だが、フェルナンドの時計は過去なのだ。過去を刻んで進まなかった。


「私が時計を作り続けてこられたのは、作っていると、君が楽しそうだったからだ。君がいなければ、死ぬことばかり考えたかもしれないな。……私も、子供は好きなんだよ」


 こう見えてもね、とフェルナンドは肩をすくめた。

 あるはずのなかった二百年を思い返す。生まれなかったはずのものが生まれ、なかったはずの笑顔が生まれた。それを消さずに持って行ってくれるだろう。この島を出た命が、誰も知らない未来まで。


 歯車を手に取った。部品をはめこんで、ひとつ組み立てる。文字盤を取ろうとして、できなかった。フェルナンドの手は消えていた。


 炎が床を舐める。天井の板が剥がれ落ちた。設計図が燃える。作りかけの懐中時計が火に包まれる。振り子時計はチクタクと時を刻む。


 その部屋にはもう、誰もいなかった。

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