Ⅳ ビエウ・カンティガの章
Ⅳ-1 二百年越しの渇望
フアンは目を覚ました。
真っ先に目に入ったのは空だ。吸いこまれそうに澄み切った青空が視界いっぱいにひろがっている。フアンは崖の上で仰向けに倒れていた。
体が強張っていた。指を折り曲げては開き、感覚が戻ってくるのを待つ。肘を曲げ、ゆっくり体を起こした。
太陽の位置を確認する。アナカオナが消えてしまってから、まだそれほど時が経っていない。
空から視線を下ろした先に横穴があった。立ち上がって近づき、じっくりと眺める。天井の低い入り口、剥き出しの岩肌。狭く、薄暗く、何もない洞穴だ。
「……ここで?」
かすれた声がフアンの唇を割った。鮮やかに思い出せる光景が、目の前のからっぽの洞穴に重なる。
ここが、産まれた場所。俺が産まれて、母さんが消えた場所。
夢のかけらがフアンの中で息をしている。様々な人の思いが通り抜けていったことで、目に映る景色はさっきまでとどこか違って見えた。胸の中にも目があると気づいたアナカオナのように、フアンも閉じていた目が開いたような感覚だった。
フアンは首を巡らした。道の先にあの子が立っている。フアンと目が合うのを待っていたかのように、文様のない子供は背を向けた。
「君は、なに?」
問いかけは宙に落ちた。振り向かない小さな背中が山を下っていく。
フアンは後を追いかけた。黙ってついて行くうちに、この小さな背中に島のすべてが映りこんでいるように見えてきた。
細い崖道、足下に見える緑、波打ち際の丸木舟、先住民の村と、入植者の村と、砦と、水平線に繋がる空。そして時計。世界のどこにもない懐中時計と、長いあいだ止まったままの振り子時計。
子供が立ち止まった。振り向いて、丸めた手をフアンに差し出す。
フアンが手のひらを出すと、何かが落とされた。フアンは胸を棒で突かれたような心地で子供を見つめ返した。
子供の黒い目から涙がこぼれ落ちる。雨上がりの葉っぱから落ちる雫のように、清らかで澄んだ涙だった。
フアンは拳を握り、奥歯を噛み締めた。
フェルナンドが目覚めたとき、隣にはフアンが倒れていた。
インディオの子供が顔を上げる。子供はフアンのそばにしゃがみこんだまま、悲しそうな目でフェルナンドを見た。
「おまえは」
言葉が途中で切れてしまった。問いかけたところで返事がないことをフェルナンドは知っている。これまでずっとそうだった。だから問いかけではなく、独り言をつぶやいた。
「今のは記憶か。おまえの記憶。……それと、時計の記憶か」
落ちている懐中時計に手を伸ばした。フェルナンドとフアンの間に仲良く落ちていた時計、それを手のひらに乗せる。
この手で作った時計だった。スサナにあげた時計と、アナカオナに渡した時計。ふたつの時計は沈黙している。ゼンマイを巻いても動かない。
役目を終えたのだとフェルナンドは感じた。持ち主の消滅にともなって、時計はもう時を刻まない。
この時計は知っているのだ。作った人間がどういう奴で、受け取った人間がどういう人物だったのかを。どんなふうに時を刻んで生きてきたのかを。
あの記憶の奔流。
あれは、このふたつの時計が見ていたものか。そして、この子供の目に映っていた光景だったのか。
「そうなんだろう?」
時計に語りかけるように、しわがれた声でフェルナンドはつぶやく。
病人のごとくやつれたフェルナンドを、子供が黙って見つめていた。
フェルナンドは時計を握りしめて山を下りた。起きる気配のないフアンの心配はしなかった。あの子供がいたから。
案内などなくても見慣れたいつもの場所に戻ることができた。方角さえ見失わなければ、フェルナンドには容易いことだった。二百年以上もこの島で生きてきたのだから。
スサナがいなくなってからの二十年間、フェルナンドはみるみるやつれた。肉体が老いたわけではない。病気になったわけでもない。それなのに頬がげっそりと痩せこけた。声もすっかり嗄れてしまった。
はじめまして。
そう言って現れるはずのスサナがいなかった。
それがこれほどこたえるものだとは、フェルナンドも予想していなかった。
スサナが子供を産んで消えた直後、崖の途中でアナカオナに追いついた。赤ん坊はどうしたと訊ねたが、アナカオナは逆にスサナについて訊くばかりで、赤ん坊の行方については何も答えなかった。
きっと消えたのだろうとフェルナンドは思った。スサナが消えたように子供も消えたのだ。アナカオナが取り乱しているのはそのせいだろうと。
産むはずのなかった命を産んでスサナは消えた。産まれるはずじゃなかった命も結局は消えた。
それがこの島の
リカルドが憎かった。
いつの間にか舟ごと姿を消していたリカルドに、ディマスたちはひどくがっかりしていた。フェルナンドは共感などしなかった。リカルドを憎んだ。
あの男が来たからスサナが死んだ。
あの男は死神だった。
陽気で、おしゃべりで、人懐っこくて、あっという間に島に溶けこんで、スサナを奪って、島じゅうに明かりを灯したくせにあっさり消して去った男。
憎かった。
嫌いだった。
あの朗らかな声が耳から離れない。
あの親しげな目つきが頭から消えない。
あの男を見つめるスサナの顔は、いつも笑っていた。まっすぐあの男を見つめて、楽しそうに、熱っぽく、満たされたように、瞳を輝かせていた。
どうせいなくなる人間だから。
次の一年になったら、またスサナは私を見るんだ。
そう思っていた。でもそうはならなかった。スサナは二度と戻ってこなかった。
何のために生きているのだろう。
何のために繰り返しているのだろう。
そうした疑問が浮かぶたび、フェルナンドの脳裏にはあの惨劇がよみがえった。少しも色褪せることなく、火の煙るにおいも、誰かの断末魔も、血の色さえ鮮明に襲いかかってフェルナンドを苦しめた。
血に染まる手足にゾッとして肌が粟立つ。迫る松明の火が生臭くて、ひどい汗をかく。たくさんの死体の中に自分だけが立っている幻を見る。吐き気がして、足が震えて、逃げたくてたまらなくなる。
頭をかきむしって惨劇の記憶を追い払った。
何も考えたくなかった。人に会いたくない。話をしたくない。工房にこもって組立と分解を繰り返し、頭の中を真っ白にするよう努めた。
浜に人が流れ着いた、とディマスが言ってきた。「時計に興味を持っているようなんだ、泊めてやってくれないか」と。
フェルナンドは夢うつつで聞いた。頭がぼうっとしていて、ディマスの言葉をよく理解できなかった。だから特に何も考えずに首を横に振った。
ディマスが立ち去った後で、戦慄が走った。浜に人が流れ着いた、その意味を思い出した。
あいつが来た。あの死神が。
フェルナンドは外に出た。コルバイ村に行くのは二十年ぶりだった。村を抜けて、浜辺に立った。
小舟を調べている男がいた。振り向いたその顔を見て、フェルナンドは目がくらんだ。胸が懐かしさでいっぱいになった。
その男は似ていたのだ。目元がスサナにそっくりだった。
死神の罠だ。そう思った。スサナに似た顔で懐に入りこみ、また誰かを奪いに来たのだ。リカルドとは違う男だったが、死神であることは同じだ。
フェルナンドはスサナの幻を追い出すことに決めた。異物であるこの死神を島から追い出さねば、また誰かが消える。だから追い出すのだ。
そう思う一方で、別の思いも胸をひっかいた。
死神。
殺すなら、私を殺してくれ。
もう疲れたんだ。
助けてくれ。
ほかの誰かが消えるということは、置いていかれることと同じだった。ひとり、またひとりと消えていって、この無限の時間に取り残されることをフェルナンドは恐れた。
スサナを奪ったように誰かを奪うくらいなら、私を消してくれ。そうでないならさっさと死神がいなくなってくれ。
だから死神を自宅に招き入れた。
さあ、対峙しよう。おまえは出て行くのか、私を殺してくれるのか。
死神の口から、スサナの名前が出た。スサナを母親だと言ってきた。父親から時計を預かっていると、あの懐中時計を取り出してきた。
消えたはずの時計だった。フェルナンドは呼吸を忘れた。死神の顔を見た。目元がスサナによく似ている。そして、この声。この声とよく似た声が、かつて「フェル」と呼びかけてくれたのだ。フアンのちょっとした言いまわしや発音の癖のなかに、あの男がいた。
リカルドだったのか。
リカルドがスサナの子供を連れ出したのか。
あの小さな命がこんなに大きくなったのか。
どうすればいいのかわからなくなった。
生まれなかったはずの人間が島の外で生きのびて、戻ってきた。フアンの時は進んでいる。しっかりと、心も体も時を刻んで成長している。島の外で流れ続ける時間を受け止めて、島の中で止まっているフェルナンドを見つめてくる。
何をしに来たんだ。
どうせ連れ出してくれたりなどしないくせに。
どうせまた置いていくくせに。
ひっかきまわすだけなら来ないでくれ。さっさといなくなってくれ。スサナがいた頃に時を戻せないならこの島に居座るな。
何も知らないくせに。あの炎を知らないくせに。この島が血で染まったことを、悲鳴で埋め尽くされたことを知らないくせに。
せっかく作った時計が火に包まれようとしたことも、あの子供の泣き声も、何も知らないくせに。怖くて悲しくてどうしようもなかったことなど、何にも知らないくせに。
平和そうな顔で、お気楽な好奇心で根掘り葉掘り。理解できるというのか、おまえに。おまえのせいでスサナは死んだ。スサナの永遠を奪っておまえは生まれた。この島の永遠を破っておまえは生まれたんだ。
出て行ってくれ。
――助けてくれ。
もう誰も奪わないでくれ。
――いっそ殺してくれ。
外の話など聞きたくない。
――この苦痛から抜け出したいんだ。
フェルナンドは自宅に戻った。工房に入り、ふたつの懐中時計を机に置いた。もたれかかるように椅子に体重を預ける。
およそ二百年の時の重みが、天才時計師の心身を軋ませていた。
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