第2節 罪と罰(1)

 ぼくは目の前の老人の様子が豹変したのを見て、動揺を隠せなくなった。


 朝の静寂の中、場に緊張が張り詰める。

 

「あ……あの、校長先生?」

 

 ここ、校長室の窓は閉じきっている。風なんか吹いているはずがない、それなのに。


 眼前に立ちはだかる巨体の老人、その長い白銀の髪と髭はなびき、天井に向かって逆立っていた


「もう……思い出したとは思うがのう……最後の記憶を、まさか思い出せなかったなどとは言うまいな? わしがまさに話すのはそれについてじゃ」


 鈴の音によって引き出された記憶、その最後の結末。


 ここに来るまで思い出すことができないでいた、いや意識的に記憶の彼方へ追いやっていたのは他でもないぼく自身だ。


 --その内容に関して、ぼくは色濃く覚えていた。


 あの晩、ぼくは寝床に向かい、布団に潜るとすぐに眠りに落ちた。夢を見ていたのか。それとも夢ではなかったのか。とにかく無意識のうちに就寝中のぼくの身体から這い出してきたそれは、ふらふらと夜の空へ昇っていった。自由に空が飛べた、それが楽しくてしょうがなかった。楽しすぎて自分でも制御は不可能だった。ぼくは何でもできる、そう思った。


 いや、思ってしまった。


 そのとき、ぼくは明らかに狂っていた。


 狂気に包まれていた。


 夜空に高笑いしながら浮遊するそれは言った。


「そうだ、世界を壊そう」


 その後の展開は、寝る前に見た映画の中で起きたこと、ありのまま。ひとつだけ展開が違ったとすれば、それは人類がそれに対抗する手段を持っていなかったということ。ひとつ落ちただけでも小さな国が消滅してしまう、そんなレベルの彗星や小惑星が次々に地球に降り注ぎ、容赦なく世界を滅ぼしていった。


 鈴の音が喚起したぼくの記憶が正しければ事の顛末はそういうことで、ぼくが起こしたアクションがまぎれもなく事件のトリガーである。


「タダシ、きみの中では昨日の出来事じゃろう。きみが起こしたことは人類史上……いや、わしら神を含めた上でも最大級の過ちじゃ……罪じゃ。きみは罪を償い、まともな神になるためにこの学園で更生せねばならん。異論はあるかの……?」


 誤魔化すことなど、この老人を前に口にすることは出来なかった。


 これまでに経験したことのない、鬼神の如く凄まじい圧倒。有無を言わせない強い意志。この神の前では誰もが逆らえない。


「……はい。異論は……ありません」


 ぼくはカラカラの喉の奥からなんとかして言葉を捻り出すことに成功した。沈黙を守ることはこの神の前では通用しない。防衛本能が過労死寸前までハムスターの籠の中で回し車を走り回っている。


 嫌な汗が体中から噴き出すのが止まらない。ソファーに腰かけているはずなのに膝が笑い出すのが止まらない。この場から逃げたい。校長から逃げてしまいたい。そうすれば楽になれるはずだ。逃げ出す勇気があればとっくに逃げ出していた。


 だが目の前の存在がそれを絶対に許さない


「もうひとつ……タダシ、きみに訊ねる」


 校長がスッと立ち上がり、ぼくをはるか頭上から見下ろす。


 恐ろしさのあまり、返事さえろくにできない。


「きみは、世界を滅ぼした罪に対して……報いを受ける覚悟があるかね?」


「………………む……くい……?」


「それさえ受ければ、この場はきみを許そう。加えて、神界でのきみの生活の全てを保証してやろう」


 聞いた次の瞬間には、この場はきみを許そう、この言葉によってぼくの頭の中は支配されていた。許してください。許してください。許してください。許してください。許してください。許してください。許してください。許してください。お願いだから許して……。ぼくを……許して……。


――その心の声は知らぬ間に、大量の涙とともにぼくの口から漏れだしていた。


「覚悟ができたようじゃな……立て、立つんじゃ! 己の足でな!」


 他の感情に支配され尽くしていて、足が動かないとぼくは思ったのだけど、ぼくの防衛本能、いや生存本能が思考よりもはるかに上回っていたらしい。


「――来たれッ!!!!!!!」


 校長の怒声が部屋中に響く。と同時に校長の背後のガラスケースが勢いよく音を立てて割れ、その中から――ひとつの金色に輝く小型の金槌のようなものが飛び出すと、校長の右手の中にすっかりと収まる。


「人類と神の怒りをその身にて受け止めよ!!!! トォォォォォルハンマァァァァァァァァ!!!!!!!!」

 

 校長の右手から放たれた「それ」は至近距離から勢いよく放たれ――


 ぼくの体を貫いた。


 それからぼくの意識はない


* * *


「大丈夫ですかネェッ!? 校長先生!!!」


 校長室の扉が勢いよく開かれる。


「……ふぅ。なんじゃ……ミチザネ先生じゃの、おはようございます」


 先ほど鬼神のごとき形相で、タダシに正真正銘の「神の鉄槌」を浴びせて見せた校長。その体からはプスプスと煙が出ており、逆立っていた髪や髭もいまはヨレヨレになって重力による自然の摂理に従っていた。


「おはようございます、じゃないですよネェ……まったく……」


「ふぉっふぉ。生徒に対して体罰なんぞ久しくやっておらんからのう。……この件に関してはどうしてもわし自らがやらねばならんと思ったからじゃ。くれぐれも御内密にな? どこぞの教育委員会にでもバレたらわしの首が飛ぶかもしれんからのう。ふぉっふぉ」


 扉を開けた人物、校長にミチザネ先生と呼ばれた男は呆れたように息をつく。


 見た目は三十後半から四十前半。小柄な男性で文官束帯と呼ばれる平安貴族としてはメジャーな正装で身を包んでいた。頭には烏帽子を被っている。彼は人間として生を受けたが、死後に神になるためのある「儀式」を通過した後、この学園に召し抱えられることになった立派な神である。


「教育委員会ですか……まぁ人間界ではシビアな問題でもありますし、わたしとしても耳が痛い言葉ではありますけどモ。神界にそんなものありやしませんじゃないですかネェ?」


「ふぉっふぉ。おいぼれのジョークは聞き流すもんじゃよ、先生?」


 ミチザネは怪訝そうに持っていた杓子を口にあてる。


「それで……その子ですかネェ? 例の転入生、元ゴールド持ち、というのは」


「左様じゃ。といってもしばらくは起きてこんかもしれんがのう。ふぉっふぉ」


「まったく……派手にやりすぎですよネェ……」


ミチザネはそう口にした後、当然の報いではありますが、と付け加えた。


 校長の愛刀ならぬ愛槌で体を貫かれたタダシは衝撃で体ごと吹っ飛び、後方のガラスケースを破壊し、そしてめり込んでいた。


「ふむ……あとはミチザネ先生に一任してよろしいかな? 保健室まではわしが抱えていくが」


「いえいえ、校長がなさらずとも大丈夫ですヨ」


「全身ガラスまみれにしてしまったのはわしの責任なんじゃしのう。そこまではわしがせねばならん。異論あるかの?」


「ふーむ、そこまで校長がおっしゃるなら」


 ミチザネはそうは言ったものの、どこかホッとしているように見えた。それは自らの服が、ガラスや血で汚れずに済んだことに対する安堵に他ならなかった。

 

 老人はガラスケースに相変わらず、無残に突き刺さっている青年の身体をひょいと持ち上げ、自身の右肩に上に担ぎ上げる。


「あっ、そうじゃ……ミチザネ先生、ひとつだけ」


 老人が入り口から廊下へ向かおうとしたとき、ふとその足を止めると思い出したように言った。


「……はい、なんでございましょうネェ?」


「今日の朝礼には早めにきてくれんかのう。ほれ、今日は四月一日でいろいろ変わり目じゃし。この……こやつの件もあるからのう。朝会議が少し伸びる可能性がありそうじゃ」


「はぁ……了解なのですヨ」


「クラスの舵取り、あなたにしっかりと任せましたぞ」


 そう言い残して老人が部屋を去っていくのを見届けた後、残された男は再び深いため息を漏らす。

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