【最終章】百夜白夜の消失
百夜白夜はもういない
ミステリィツアー中に、その主催者である百夜白夜が本当に殺害されてしまうという驚愕の事件が起きたとあって、一時はどうなることかと騒がれはしたが、瀬戸家の明晰な推理によって無事解決となり、僕達は予定通り、その日の午後八時に、主を失った百夜邸を後にし、クルーザーで逢ノ島から本土への帰途に就いた。
その舵を握るのは、あの後無事意識を取り戻すことになった妻鳥である。
その彼女によると、謎解きにおいての犯人役やトリックは知らされておらず、それは『開かずの間』に身を隠している予定でいた百夜自身から明かされることになっていたらしい。
ただ、その百夜亡き後、どういう回答が用意されていたかは知ることができなくなってしまった。
僕らが見た鏡像の動画は、DVDディスクに保存されていたものを妻鳥が再生させたらしく、それは、犯人が邸を離れる際に持ち去るか海に放るでもしたのか、邸内のどこにも残ってはいなかった。
だが、そうだとしても、瀬戸家の推理には、どこにも落ち度がないように思え、それが真実を言い当てているのだろうとされた。
その犯人と目されている脱獄犯についてだが、その名を騙られていたとされる新羅黎明本人に連絡を取ってみたところ、彼は、締め切りに追われホテルで缶詰状態になっており、そんな催しが行われていることさえ知らないでいたらしい。担当編集者やホテルの従業員らからもそれを裏づける証言が得られていて、あの新羅がその脱獄犯が扮した人物だったのも間違いないだろうとされている。
そうして、その脱獄犯の犯行に間違いないとされ、僕達は、疑いをそれ以上向けられることもなく、そこそこに事情聴取を受けるだけして、その後の鑑識捜査などを続ける刑事らと別れて逢ノ島を後にしたというわけだ。
*
船内から甲板に出ると、昨日と同じように、手摺りの前に瀬戸家が一人で立っていた。
「瀬戸家さん」
とその横に立つ。
「……晴原君か」
と瀬戸家が、夜空の星々を眺めていたその物憂げな顔を僕へと向ける。
「今回の事件、やっぱり記事にするんですか?」
「ええ、ありのままに世間に伝えるつもり。脱獄犯の復讐計画に嵌められて亡くなってしまった百夜氏にとっては、屈辱的とも言えるかもしれないけれど、それが私の仕事だからね」
瀬戸家は応えてから、再び顔を前へと向けると、
「シリウスが見えているわね」
「ええ」
と彼女と同じように、一際の輝きを見せながら浮かぶその星に目をやる。
「氏はもう、あのシリウスを眺めることはできないのね……」
吹く風に靡く、この夜の闇で紡がれたかのような艶やかな黒髪を手で押さえながら、切なく嘆くように瀬戸家が呟いた。
「いえ、それは違うでしょう」
「……どういう意味?」
と瀬戸家が怪訝にその柳眉を顰めた顔を、再び僕へと向ける。
「こういうことですよ」
僕は顔をきりりと引き締め、
「瀬戸家さん、あなたこそが百夜白夜その人だ」
と某有名ミステリィアニメの少年探偵のように、びしりと指を突きつけた。
「…………」
瀬戸家は表情こそ変えないものの、その口は固く結んだままだ。
何も返してこないとみて、先を続けた。
「著作の扉頁に白い仮面を嵌めて写るあなたは男物のタキシード姿でしたし、それと気づくまでは、男性だとばかり思っていましたけどね。髪の色が違うのは、百夜白夜を演じる際は白髪の鬘をつけていたということでしょう」
「……私が百夜白夜か……面白い冗談ね」
と瀬戸家がふっと小さく冷笑を洩らす。
「おかしいと思っていたんです」
僕はかまわず毅然として続けた。
「氏の自室が、陽当たりの良い南側だけ陽の光が差し込まないような造りで、なによりあれだと、氏が最も愛しているシリウスがこうして冬の南の空に浮かぶのを自室から眺めるのに不適当だ」
「…………」
瀬戸家は難しい顔をするだけだ。
「だけど、こう考えると納得が行く。全ては、あの時のために用意されていたものだったと。
氏が死んだことになって、有耶無耶になってしまった氏の記念すべき百作目ですが、その百作目は、実は百夜白夜本人であるあなたの裡にだけあった。それはまだ明かされていない今回のミステリィツアーの真相の全てを綴ったもの。その記念すべき百作目を題するとしたら、《百夜白夜の消失》、と言ったところでしょうか」
氏の著作には、その巻数を示す数字が必ず入れられている。それに倣えば、そういうことになるだろう。
「たかがそれだけのために、億単位の孤島を買い取り、それに誂えた邸を立てる、か……」
さもおかしげだとばかりに呟くと、
「まあいいわ。それでは晴原君、君が辿り着いたという真相を示してみなさい」
挑戦的な言葉と共に、びしりと指を突き返された僕は、長年崇拝してきた氏本人を前にしていることもあって、その緊張を紛らすためにこほんと咳払いを一つ吐いてから、
「あなたは昨晩、僕の悲鳴を聞いて現場に駆けつけたように見せていた」
「それを否定しようというの?」
「ええ。あの時あなたは、実は、そのまだ破られていない密室の中にいたんです。百夜白夜であるあなたなら、その本来の自室に入るのは、特に難しいことじゃなかった」
「密室の中に、か。それで?」
「そして、僕が扉をこじ開けて、妻鳥さんと室内に踏み込んだのと入れ替わるように、扉を塞いでいた箪笥の裏側に身を隠していたあなたは、もう一方の扉を静かに開けて室外へと出て再びその扉を閉めたんです。僕達の意識は人形の首吊り死体にばかり向いていたから、そのことには全く気づかなかった。そしてあなたは、その後僕の悲鳴を聞き付けてやって来たように振る舞った」
「だけど、その扉は、君が言ったように、箪笥で塞がれていたはずでしょう?」
「そうです。普通に考えると、その扉は開きません。ですが、それはただの思い込みによる錯覚でしかなかった。邸のどの部屋も、押して開けるタイプの観音開きの扉だったから、てっきりそうだとばかり思っていましたが、僕がこじ開けたのと反対側の扉は、実は逆に開くように細工が施されていた」
「左右の開き方が真逆だったってこと?」
「ええ。僕は今朝、それを確かめるために、刑事達が到着する前にその扉を外して確かめてみたんです。あなたによって、夜の内にこっそりと元の状態に戻されていたようでしたが、その蝶番を外してみたところ、ネジ止めする穴は縦に三つしか空いていないのに、側板には、縦に二列間を空けて六つの穴が空いていた。つまり反対側に開くように蝶番が逆に取りつけられていたことがあったという証拠です。その扉には、隠し蝶番が使われていたから、見た目ではそうと気づけなかった。昨日この甲板であなたは僕に、押しの一手だけじゃなくて、時には一歩身を引くことも必要だ、なんていう恋愛論を語っていましたよね」
「『押してだめなら引いてみろ』か……。あの言葉から、そういう推理を導き出すとはね」 瀬戸家は半ば呆れたように言ってから、
「そうやって押し戸が開かないとしても、それは箪笥が塞いでいるためだと考えられる――だけど、その扉が逆に引かれてしまう危険性もなかったわけじゃない」
「ええ、開けようというつもりがなくても、何かの拍子でそうなる危険性は確かにありました。ですがその危険は、扉を塞がせていた箪笥の裏に隠れていた扉の取っ手を内側から手で引っ張っておく事で解消することができた」
「うん、確かにそうすることもできるわね」
と瀬戸家が肯く。
「そして、皆が寝静まっている夜更けの内にこっそりとその扉を元の状態に戻したあなたは、事前に採取しておいた自分の血を、半分程に割った白い仮面に付着させて崖下の出っ張りに落とし、氏が本当に死んでしまったかのように思わせ、新羅さんの名を騙っていた脱獄犯が復讐のために彼を殺害したのだという偽りの推理を披露してみせた。その推理で犯人とされた逃亡中の脱獄犯ですが、その事を本人が知ったとしても、所在が明るみになって逮捕されない限り、それが虚偽だということを証言できない。仮にそうなって証言されることになったとしても、誰も脱獄犯の言う事なんか信じないでしょうからね」
「中々に興味深い推理だけど、一つ難点があるようにも思えるわね。あえてそんな危険を冒さなくても、もっと安全な方法があったはず」
「それについては、憶測するしかないですけど、こう考えるしかないですね。あなたは現実に自分が仕組んだ謎において、危険を孕んだ中での緊張やスリルを愉しもうとした」
「刺激を得たいがため、か……。それで、脱獄犯ではないとすると、あの新羅さんは一体誰が演じていたの?」
「それはもちろんあなたですよ。到着後しばらくは自室のベランダで景色を眺めていたというのは嘘で、その新羅さんはあなたが演じていたんです」
「つまり私は、氏と、新羅さんに扮した脱獄犯を含めた、一人三役を熟していたってこと?」
「ええ。あなたの部屋と、氏や新羅さんの部屋とはベランダで繋がっていたから、僕が部屋にいない時を見計らってそこを通って扮装したり出入りしたりすれば、誰に怪しまれる心配もない。風邪で喉を痛めているという新羅さんが、声を出せずに妻鳥さんと携帯に文字を打つ事で会話していたというのもそれを裏付けていますね。覆面作家として妻鳥さんとのやり取りも声でばれる事がないよう全てメールで行い、彼女の前に百夜白夜として姿を現すことはなかったはずです。脱獄犯の最大の特徴である左手の大きな痣は、シールやメイクでそう見せていただけだった」
「難しそうだけど、やれないことはなさそうね」
「それと、その瀬戸家イリスという名前も偽名ですね?」
「なぜそう考えるの?」
「瀬戸家イリス。苗字をイニシャルのS、下の名前をアルファベットで表記して、それらをアナグラムで並べ替えると、『Sirius』になる。ダイイングメッセージで使われていたアナグラムが、あなたの偽名でも使われていたというわけです。あと、あのダイイングメッセージが示していたのが、その偽名だということも分かっています」
「『rain』、だったわよね」
「ええ。そのダイイングメッセージは、それだけで完成というわけじゃなかった。あの殺害現場に赤いペンと一緒に落ちていたボウガンの弓。あれについては誰も触れようとせず、事件との関連性なしと見られて捨て置かれていたようですけど、実はあの弓はそのダイイングメッセージに関係していた」
「どういう風に関係していたの?」
「弓は英語で、『bow』――『rain』と繋げると、『Rainbow』――『虹』という英単語になる。『イリス』という名前は、ドイツ人女性の名前であると同時に、ギリシア神話における虹の女神でもあります。あなたは全てを仕組んだのが自分であるということを、そうやって暗に示していたというわけです」
「なるほどね、よくできているわ」
瀬戸屋は納得してから、
「でも、もう一つ大きな疑問が残るわね。そんな手の込んだ大掛かりなやり方をしてまで、自分が死んだことにしようとした理由は?」
「これも憶測でしかないですけど、自分の考えたトリックを現実に試してみたかったっていう以前に、何と制約の多い推理作家を続けるのに嫌気が差したからなんじゃないかと僕は考えています。あなたはデビュー前の気軽に物書きをしていた頃に戻りたかった」
返答はなく、しばらくクルーザーが波をかき分ける音だけがその場に静かに鳴っていた。
しばらく僕達はそのまま向かい合っていたが、ふと瀬戸家が海原へと遠い目を向けながら、
「……百夜白夜は死んだの。もう、どこにもいない」
「それは、推理作家としてのあなたが死んだ、というだけの意味ですよね」
「…………」
瀬戸家は、僕を一瞥しただけで、何も返そうとはしない。
「でもあなたがそう主張したいのであれば、それについてはもう触れないようにします」
「そう。だけど礼は言わないわよ。それは事実とは違うんだからね」
瀬戸家がくすりと不敵に笑みながら言う。この後に及んでまだ認めようとしないとは、彼女も中々に強情だ。
「君の話は、面白い推理として、胸に刻ませてもらうわ。よく推理したものね。それが真実かどうかは抜きにして、称賛されるべきよ」
「僕は生粋の百夜フリークなんですよ? 氏の作品を穴が開く程何度も読み返してきた僕ならば、その真相に一人辿り着いたとしても不思議じゃない――としたいところですが、そうではないでしょうね。あなたは、それができるように、あえて色々な手掛かりが残されていた。推理できない謎を残すことは、推理作家としてのあなたの矜恃が許さなかった。だから僕なんかでも、ちゃんと筋道を立てて推理しさえすれば、その真相に辿り着くことができた」
「考えすぎだし、謙遜ね。あなたは十分に名探偵の器よ」
瀬戸家はそう称えてから、
「あなたは、旧くはヴァイオレット・ストレンジ、新しくはコーデリア・グレイにもひけをとらない名探偵よ。自信を持っていいわ」
「そんな……」
希代の名探偵らと並べられて、気恥ずかしく感じながら、はたとあることに気がついた。
瀬戸家が挙げたのは、両者とも、女性の名探偵だ。なぜ瀬戸家は、あえてその二人の名を挙げたのか……もしかすると……。
「あの……どうして二人とも女探偵何ですか?」
怪訝に思いながら、恐る恐る尋ねた。
「そんなの決まっているじゃない。君が、彼女達に引けを取らない女名探偵だからよ」
さも当然というように答えられた。
「え……? な、なんで……」
激しい動揺に言葉を詰まらせて狼狽える僕に、瀬戸家は、
「君が男の子ではなく女の子であることは、自明。他の皆は気付かないでいたみたいだけどね」
「……ど、どうして……」
「見た目だけで言うなら、君は、幾分中性的とも思えるけれど、その変装のまま街を歩きでもしたら、何も知らずに出会った十人中十人全てが、男の子ということに疑いを懐くことなく、すんなりと受け入れるでしょうね。声も男の子にしては若干高めだけど、特に違和感があるわけでもない」
「……そ、それなら……なんで……」
「けれど、だからって、誰もが騙されるというわけではないってこと。男女どちらにも使われる『そよぎ』っていう名前、それだけお洒落をしているのに、ピアスを外していること、暖房が良く利いた部屋でどれだけ蒸し暑い思いをしても、喉仏を隠すために、決してその厚手のマフラーを外そうとしなかったこと、穗村さんと円谷さんが一緒にお風呂に入ろうと誘ったのを風邪気味だからと断ったこと――色々あるけれど、一番の理由は、君の会員番号ね」
「……会員番号……?」
「気づかなかった? 百夜ファンクラブの会員番号は、男は奇数に、女は偶数に割り振られているの。私は、居もしない三人の女友達を挙げてまで、そのことを最初に示していたはずだったんだけどね。邸での部屋の割り振りも、男性が一階で、女性が二階になっていたでしょう?」
「そ、そんな……」
愕然としながら、
「ずるい! そんなの卑怯です!」
必至に抗議するも、
「そう言われても、別に、こうなると分かって仕組んでいたものじゃないからね」
と瀬戸家は、肩を竦めながら苦笑するだけ。
僕はこれまでに、高校、大学の文化祭等、他でも男装をした経験が数回あるが、いずれの時も、見知らぬ相手に、実は女性だとばれたことは一度たりともなかった。
短髪にして化粧をせず、胸の膨らみもそれ程ないので、ゆったりとした上着を着て、マフラーなんかで喉仏を隠しさえすれば、ば見た目でばれることはなく、声も男性としては若干高めのハスキーボイスとしか受け取られなかった。
『僕』という一人称は、別に演技という訳でもなく、上と下に男が二人ずつの兄弟がいる中で育った環境で自然と培われただけにすぎないので、それで違和感を感じさせることもなかった。
それに、男装しないでも、女子と間違われることも度々ある程なのだ。
その僕が、完璧だと自負していた男装を見破ることができる人物が現れ、それがまさか、崇拝する百夜白夜になるとは、思ってもみなかった。
だが、それを暴かれるきっかけとなった、会員番号や邸での部屋の割り振りについてを明るみにしたことで、瀬戸家が、百夜白夜であることの確証ともなったわけである。
僕は一人だけ、その正体を見破ったのだ。
百夜に挑戦するつもりで、今回のミステリィツアーに男装して挑んだものの、見事見抜かれてしまった訳だが、相手が、会員番号で最初から気付いていたというチート紛いの行為に及んでいたこともあるわけで、結果は、勝敗つかずのイーブンというところだろうか。
崇拝する百夜と互角に渡り合えたということで、これまで決して超えられない壁が立ちはだかっていると考えていた百夜との間の距離が少しばかり近づき、より身近な存在に感じられるようになっていた。そう考えると、得も云えぬ満足感や充実感に浸ることができた。
百夜フリークとして、氏の――彼女の著作に、これまで長らく浸り切ってきた僕だが、これ程までに感慨深い思いが得られたのは、これが初めてかもしれない。
やはり百夜は、素晴らしい推理作家だった。
空想の世界においても、そして、この現実の世界においても。
そう、改めて感じていた。
「エンデ・グート、アレス・グート」
瀬戸家が横で、また外国の言葉を呟いた。
ドイツ語だろうし、その意味はまったく分からないが、それも気にはならない。
僕の心は、この星々が輝く夜空のように、澄み切っている。
それからの本土までの短い船路の中、吹く潮風が、やけに爽やかに感じられた。
(了)
百夜白夜の消失 雨想 奏 @usoukanade
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