終 章 Cry for Help from Byulis ビュリスからの悲鳴

終 章   ビュリスからの悲鳴

 帝国軍の初の集結式は、荘厳な雰囲気の中で挙行された。


 降りしきる冷たい小雨は、各国軍の甲冑や制帽をしとどに濡らして滴ったけれども、それはかえって一人ひとりの心を引き締め、皇帝のよく通るバリトンのお言葉に集中させた。

 ガラフォールの野をただよい流れる薄い霧は、見渡す者には帝国軍の隊列が果てしなくどこまでもつづいているかのような壮大な幻想を抱かせた。


 それは、しかし、各国軍の持つ個性や違いを隠し、彼らがそれぞれ抱える事情や思惑を同じ灰色の風景の中に塗り込めるものでもあった。

 今や大陸全土が〝帝国〟なのだと言えるのなら、では〝帝国〟には何があるのだという問いが当然のようにすぐ後に出てくることになる。

〝何か〟であろうとする意志を持つ者が、このどこかに点々と存在しはじめているにちがいなかった。


 集結式典翌日の記念競技会決勝は、夜半からの季節はずれの雷雨と突風のために中止となった。

 競技会場のために設営された天幕が何枚も飛ばされ、各国軍のテントもあちこちで倒された。

 明け方には雨にあられも混じり、凍えるような寒さの中にたき火の煙だけがくすぶりながら無数に立ち昇っていた。

 各競技の予選優勝者には、後日皇帝陛下から記念のメダルが送付されるという通達があり、それを合図としてどこの軍でも撤退の準備が始まった。


「大変ですよ。ガムディア軍の姿がないんです」

 雨水のしたたるテントの入口から、ラムドがずぶ濡れになって駆け込んできた。

「なんだって?」

 帰り支度にだれもが忙しい中で、まとめる荷物らしいものもなく、ただ一人のんびりと作戦卓で酒を飲んでいたウォルセンが、片方の眉をピクリと持ち上げた。


「陛下の御幸先を騒がせるわけにはいかないと固く伏せられていたらしいんですが、実は数日前にガムディアの後継者アグレリオが息を引き取っていたのだそうです」

「そうか。集結式典が終わるまではと、連中はじっと我慢していたわけだな。この嵐の中を、遺体を抱えて急いで帰国したってことか」

「それだけのことなのかもしれません。でも、マレンガ軍も、その後を追うようについさっき撤退していきました。なにやら不穏な形勢ですよ。だからいろいろ噂が飛びかっていて、わたしもそれを聞き込んだんです」


 そこに、麗々しい近衛兵の制服姿のエルンファードがやって来た。

「おお、ちょうど折よく情報通が現れたぞ。何が起こったんだ、エルンファード?」

「機密だ。すまんがしゃべるわけにはいかないのだ」

 エルンファードはめずらしく苦虫を噛みつぶしたような固い表情をして、ロッシュを呼んでくれるように頼んだ。


 ロッシュが現れるとすぐ、二人は連れ立って外に出た。

「……そうか、ガムディア軍の残留部隊が、マレンガを襲ったか」

「アグレリオは父親の名代でやって来ていた。残留部隊を率いているのはその父だ。息子が殺されたと知って怒り狂い、マレンガを犯人だと決めつけて復讐戦を仕掛けたのだ。無断でガラフォールを発ったガムディアとマレンガの派遣軍には、道中でけっして無用な接触や争いを起こさぬようにとの通達をたずさえた皇帝府の使いが、急ぎ遣わされた」


「風雲急を告げてきたな。では、私が呼ばれたのは、紛争の鎮圧部隊に参加せよということなのか?」

「いや、そうではあるまい……と思う」

 エルンファードは歯切れが悪かった。

「ベルジェンナは東部の両国とは方向違いだし、距離も離れすぎている。鎮圧部隊に指名された数か国軍の代表は、すでに本陣の天幕に集められて指示を仰いでいる最中だ。今さら小部隊のおまえたちを加える意味はないと思うが……」

 降りしきる雨の中を本陣へと急ぎ足で向かいながら、エルンファードはつぶやいた。


「悪天候で競技会の決勝戦が中止になったのは、こうなるとむしろさいわいだったな」

 ロッシュが話題を変えると、ようやくエルンファードも表情をやわらげた。


「ああ。だが、おまえには残念なことをした。帝国軍にロッシュあり、というのを見せつけてやれるところだったのに」

「そうでもないさ。あまり目立ちすぎると、また眼の敵にされる」

「十分目立っているさ。ベルジェンナ軍の活躍は群を抜いている。おれもようやく気づかされたよ。おまえがあのおかしな取り合わせの連中を集めたのには、こういう意図があったのだな」

「おかしな、はひどいな。彼らが聞いたら怒るぞ」

 ロッシュは苦笑しながら言った。


「だれが見たってそう思うさ。おまけに、オリアス将軍の娘までかっさらって、帝国初の女騎士にしてしまったそうだな。近衛軍でもその話題でもちきりだ。衆目を集めただけでなく、これでブロークフェンもベルジェンナをおろそかにはできまい。おまえのやることはいちいちそつがない」

「偶然の産物だが、活気づいたことはたしかだ。ベルジェンナのような小国は、そういうことを一つひとつ大切にしていかないといけないのさ」


 皇帝が、なぜロッシュを遅れて召喚したのか?

 アグレリオの暗殺事件は、たまたまロッシュが現場近くに居合わせて巻き込まれたというだけのことで、さまざまな波乱の可能性をはらんだ要素のひとつの現われでしかないように思われた。

 ロッシュは、あの事件の裏にもっと底深い陰謀が隠されている気配を感じ取っていたが、だからといってロッシュ自身に直接関わってくることとは思えなかった。

 鎮圧部隊に加わることにでもなれば、ロッシュが握っている事実がカギとなるかもしれない。

 しかし、エルンファードが言うとおり、ベルジェンナが参加要請されるとは考えにくかった。


 何か、自分の運命にとって決定的な転機となるようなことが待っている――

 遠い、牧歌的で穏やかなベルジェンナの田園風景の中で、ロッシュはそう夢想した。

 さまざまな現実を目撃したキールを通過してからも、その予感は強まりこそすれ、けっして妄想のたぐいではない気がしていた。


 ベルジェンナは、いまだに国の整備も軍の強化もはるかな途上にあり、冷静に判断すれば、今何かに巻き込まれることは困難しかもたらさないことはわかりきっている。

 だが、ロッシュは、実は自分がそうなることを心の底で抑えがたく希求していることもまた、疑いようのない事実であることを知っていた。


 本陣の天幕は戦時の簡素なものとまったく異なり、本格的に建造された建物のような威容を誇っていた。

 内部にはビロードの幕が何重にも掛けめぐらされ、外気の冷たさをほとんど感じさせない。

 通路は万一の侵入者にそなえて数度折れ曲り、その角々ごとに明々とした照明とものものしく剣を帯びた警備の近衛兵が配置されている。

 ようやくたどり着いた広々とした主室は、ひときわ高く取られた天井が印象的で、無数のロウソクがともされ、ブランカの〝謁見の間〟を思わせるような荘厳さが漂っていた。


 エルンファードにともなわれてロッシュが入っていくと、大きな作戦卓を囲んで立っている一〇人ほどの軍服の男たちが、会話をピタリとやめてふり返った。

 それぞれが色とデザイン違いの服装をしている。

 各国軍の代表者が、ガムディア・マレンガ紛争の鎮圧についての方針の確認をしていたにちがいない。


 それがちょうど終わったところらしく、ただちに準備にかからなければならない二、三人が、胸に片手を当てる新式の礼をして先に主室から下がった。

 それと入れ替わりに、ロッシュは同じ礼をして御前に進み出た。

「ベルジェンナ辺境伯領のロッシュを召喚いたしました」

 エルンファードが歯切れのいい声で言うと、皇帝が重々しくうなずき返した。


 その名前を聞いて、残りの男たちの半分ほどがあらためてふり返り、もの珍しそうに注目した。

 なにかと噂にのぼるロッシュの名を聞き知ってはいても、姿を見るのは初めての壮年の者たちだった。

 彼らが思わず眼をみはったのは、あまりに若々しい風貌とスピリチュアルらしくない痩身の颯爽とした姿に驚いたからだった。


「一度会ったことがあったな。ブランカで……そう、三年前のことだ」

 総司令官然として作戦卓にむかっていた皇帝が、おもむろに口を開いた。

「余の飛空艦を勝手に使いおった。そうか、そこにいるエルンファードも一味だったのか。なんと無謀なことをやらかす若僧たちだと、あきれたものだった」

 皇帝は、娘を失うことになった追跡劇を、そういう言葉でわざとらしい苦笑まじりにふり返った。


 ロッシュは無言のままつぎの言葉を待った。

「ガムディア伯も同じだな。まだ先代の第二師団の猛将モルヴァン将軍のつもりでおる。息子が狙撃されたと聞いただけで、年甲斐もなく陣頭に立って出兵する気だったにちがいない。さもなければ、こんなに早く戦端が開かれるはずがないからな。余が直接出向くことにさえすれば、あっさり解決するだろうに……」

 それが皇帝の本音だろうと思われた。

 皇帝の権威を保って貴族制の頂点に君臨するなどということより、勇将皇帝オルダインには、戦争の陣頭に立って全軍を叱咤することこそ似つかわしかった。


「まあ、最初から余がしゃしゃり出るわけにはいくまいな。悪い前例をつくっては、もめごとがあるたびに頼られることになってしまう。今回はそのほうたちにまかせるしかない。うまく収めてくれ。それに……もめごとはこれひとつではないのだ。会議の途中でランダールから緊急の通信が入った」

 皇帝は、後ろにひかえるマドランに、通信文を渡すようにうながした。


 三年前までは、帝都アンジェリクとブランカの間にしか常設の通信経路は開かれていなかった。

 あとは戦地の最前線に臨時の通信基地が配置されるのみだったが、新制度になって迅速な情報交換の必要性が増し、連絡網がつぎつぎ整備されていった。

 混乱や悪用を防ぐために、通信基地は皇帝府から派遣された近衛兵によって厳しく管理運営されている。

 貴族同士の内密の連絡などにはほとんど使えない。

 ガムディアの動向がたちまち伝わってきたのは、現地の基地が通報してきたためだった。


 マドランから受け取った通信文にあらためて眼を通し、オルダインは顔をしかめた。

「北方王国との国境にあるザールトの街が占領された」

「北方軍の侵攻でしょうか?」

 ロッシュは眉をピクリと動かしてたずねた。

「おそらく、な。ランダールの残留部隊が救援に向かっているが、派遣隊を早急にもどしてくれるようにとの連絡だ。ランダール軍を率いてきた軍司令のヴァンスは、ほんの今しがた、そのほうと入れ違いに急いで出ていったところだ。すぐにも出立するだろう」

「では……」

 帝国軍はどうするのか、と聞きかけて、ロッシュは口をつぐんだ。

 その点にこそ、ロッシュが召喚された意味があるにちがいなかった。


「問題なのは、侵攻した北方王国の軍勢が一〇〇人そこそこらしいことなのだ。ザールトが難攻不落の要害の地なのは有名なことだから、よくそのていどの人数で陥落させたものだと驚くが、国境侵犯には問えても、すぐに大軍を派遣することははばかられる。察しのいいそのほうなら理由はわかるな?」

 皇帝にも、ブランカの居室に押しかけたときのロッシュの記憶がよみがえってきたらしく、ロッシュを試すように問いかけた。


「全面戦争を誘発する危険があるからですね。貴重な塩の産地だからといって、わずか一〇〇人の敵に対して大軍勢で奪還しようとすれば、同胞の救出を口実に、北方軍が大挙して帝国領になだれ込んでくる可能性があります。しかも、うかつに近衛大隊を出そうものなら、確実に帝国対北方王国の衝突という構図になってしまいます。むこうが一〇〇人しか送り込んできていないのは、おそらく誘いをかけているのでしょう」

 本質的に軍人である皇帝は、ロッシュの立て板に水を流すような明晰な返答に、いかにも嬉しそうに何度もうなずいた。


「そのとおりだ。密偵の報告では、王国軍全体にはそのような動きは見られないとのことだったが、戦いが徐々に拡大していけば、様相は一挙に変わってしまう。精強で鳴る騎馬軍団なら、一昼夜で山脈を駆け抜けてしまうかもしれぬ」

「そうなることを画策している勢力が王国内部に存在して、今回の侵攻を独断で仕掛けたとも考えられますね。ここは慎重に対処する必要がありましょう」

「しかし、ぐずぐずしていては、むこうに防御の態勢を固められてしまうのも事実だ。ロッシュ、そのほうはどうするのが最善だと思うか?」

 皇帝はロッシュのほうに椅子を回し、興味深げにさらに質問した。


「北方王国に口実をあたえなければよいのです。しかるべき役目の人間が任務を遂行し、早急に解決してしまうことです。破られた国境は近衛の管轄ですが、堅牢で聞こえたザールトの城門の警備は領国のランダールのはずです。ランダール軍が鎮圧するのなら筋は通ります。残留部隊に、さらにサー・ヴァンスが率いる派遣軍が合流すれば、総勢二〇〇〇にはなるでしょう。攻城戦には十分な数かと思います」

「うむ……たしかにな。数もそのとおりだ。だが、領主はそう思っておらぬようだ」

「足りないというのですか? ボルフィン公が学問一筋の方でいらっしゃるのは存じております。軍事面に関しては不慣れでしょうし、主力の派遣軍の不在でさぞ不安に感じておられることでしょうが……」


「これを見るがいい。ランダールからの、ベルジェンナ軍あての通信だ」

「わが軍に……?」

 ロッシュは、エルンファードの手を介して皇帝から通信文の一枚を受け取った。

 そこには思いがけないことが書かれていた。

 ランダールは、ベルジェンナをはっきりと名指しして、救援に駆けつけてくれるようにと要請していた。

 ガムディア紛争の鎮圧軍の面々は、とくべつ不審そうな表情もせず、ロッシュの反応を興味深げに見守っている。

 すでに通信の内容を聞かされているにちがいない。


「ベルジェンナなら小部隊だ。ランダール軍に混じっても問題あるまい。ビュリスまでの遠征費用は皇帝府が負担しよう。どうだ、行ってくれるか?」

「しかし、なぜわが軍が……? ベルジェンナは大陸南端の僻遠の地にあり、北方王国と国境を接する最北のランダールとはもっとも無縁な国です。ボルフィン公とは、こちらがお顔を見知っているていどの関係にすぎませんが……」

 話の流れから、もしやザールトの奪還を命じられるのではないかとは感じていたが、それがランダールからの直接の要請だというのが、まったく信じられなかった。


「さすがのロッシュも驚いたようだな。余らも同じだ。だが、余らを驚かせたのはその点だけではない。それに先立つ通信文がある」

 皇帝は、芝居がかった仕草でその紙をかかげ、面白そうに文面を眼で追った。

「ランダール公ボルフィンは、ザールト陥落の急報を受け、ただちに残留部隊を率いてビュリスを進発しようとしたが、その際に不慮の事故に遭って急逝した、とある。……つまり、そのほうの手元にある通信を発したのは、爵位継承者だった一人娘ということになる」


 ロッシュは大きく眼をむき、もう一度通信文を見直した。文の末尾には、発信人の名が『ランダール公爵』と記されている。

「新制度になってまだ三年足らずだ。できたばかりの貴族制を堅持するという建前からすれば、たとえ女であろうと、正式な継承者の身分は確実に保証されねばならん。ボルフィンが亡くなったその瞬間に、ユングリット公爵が誕生したのだ――」

 皇帝が、主室じゅうに宣言するように言い放った。


 すると、その場の空気が奇妙な具合に揺らいだ。

 ロッシュは、いくつもの眼差しが自分のほうに意味ありげな色を帯びて向けられるのを感じた。

「帝国初の女騎士に迫られたと思えば、こんどは帝国初の女貴族からのお召しか。ユングリットといえば、おぬしらの若い世代をこぞって夢中にさせた有名な美女ではないか。色男というのは大変だな」

 ガムディア派遣軍の司令官格とおぼしい東の大国オルラントのハロビス侯が、その空気を代弁するようにあけすけに言うと、周囲の男たちも下卑たしのび笑いや皮肉まじりの好奇の表情をつぎつぎとあらわにした。


 その中で一人だけ、冷ややかな憎悪を秘めた眼差しでロッシュを見つめている者がいた。

 暗緑色の制服に紫色のスカーフが、自信に満ちた若い相貌にいかにも似つかわしい。

 その男が同席していることには、ロッシュは入ってきてすぐに気づいていた。

 カナリエルの捜索隊にロッシュが集めた二〇人ほどの若者の中でも、選ぶのに一瞬も迷わなかったうちの一人である。

 しかし、両者の間に親しげな表情がかわされることはなかった。


 北方の伝説的な大都カルバラートに次ぐ南部最大の都市フェルバーンを擁する中部の大国、クリスタンの後継者アントワン――


 その刺すような視線を横顔に感じながら、ロッシュは皇帝にむかって言った。

「承知いたしました。ベルジェンナ軍は、ランダール公レディ・ユングリットの要請に応え、ザールトの救援に向かうことといたします――」



                [揺籃篇] 完

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純真なマチウ3[揺籃篇] 松枝蔵人 @kurohdomatsugae

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