第六章 7 城門炎上

 酒場の中はたちまち騒然となった。


 銃声は一発では終わらず、花火が弾けるようにたてつづけに聞こえた。

 非番でゆっくりくつろいでいた警備兵たちが、血相を変えてつぎつぎ立ち上がる。

 労働者たちも、酒杯や料理が並んだテーブルから思わず顔を上げた。


「敵襲だ!」

 だれか上官格の男が怒鳴ると、警備兵は城門にもどるために出口にむかって殺到した。

 状況を知りたい者や好奇心を抑えられない者たちも、その後につづいてぞろぞろと出ていこうとしている。


 ステファンはもうスツールから立ち上がっていたが、外には盗賊のダブリードがいるはずだ。

 どうしていいかわからず、その場に呆然と立ちつくしてしていた。


 給仕の女の子たちは抱き合って恐ろしそうに震えている。

 襲ってきたのが盗賊なのか北方王国軍なのかと声高に議論している者もいれば、家族が心配だとあわてて帰り支度をしている者もいる。

 客の半分以上が出ていったはずなのに、満員のときよりすごい大騒ぎになっていた。


「ステファン、逃げよう。お願い、いっしょに逃げて!」

 メルバという女の子がステファンの手を握って、哀願するようにささやいた。

「で、でも、逃げるったって、いったいどこへ――」

「森の中にきまってるじゃない。できるだけ遠くまで逃げて、見つからないように隠れていましょう」

 メルバは、公都ビュリス近くの農村から一人で働きに来ているしっかり者の子だ。

 頼れる者はなく、とっさにステファンのことを思いついたのだろう。


「森は昼でも道に迷うほど危険だっていうじゃないか。見つからないためには明かりをともすこともできないし……」

「木こりの人たちがそっちに逃げるはずよ。今のうちなら、きっとまだ足音や声も聞こえるわ。それを追っかけていけばいいのよ」

「そうか――」

 ステファンはメルバの手を取り、足元のツィターにハッと気づいた。

 あわてて拾い上げて小脇に抱えると、開けっぱなしになっている戸口から外の通りへ出た。


 すぐ眼の前の船着場には、いつ流れ弾が飛んでこないともかぎらないのに鈴なりの人だかりがしていた。

 城門のやぐらの上には、河口にむかって並んで応戦している兵士たちの後ろ姿が見える。

 敵の侵入をはばむ格子が急いで降ろされていくところで、そのむこうには攻撃をしかけてきた渡し舟らしい船影がかろうじて見えた。


 だが、どれだけの軍勢が攻め寄せていて、戦いの形勢がどうなっているのかはさっぱりわからない。

 ザールトの鉄壁の守りを承知のうえで侵攻してきたからには、そうとうの大軍勢で攻城用の武器も豊富にたずさえているにちがいない。


 それだけをさっと見届けると、ステファンはザールト川の上流のほうへ足を向けた。

 川ぞいの通りには、新たに様子を見に駆けつける者と家や宿舎に逃げもどろうとする者などがあわただしく交錯していたが、街を半分も過ぎないうちに人影はまばらになった。

 家並みのむこうに、いくつかのタイマツが揺れているのが見える。

 メルバが言ったとおり、森に向かう木こりたちにちがいない。敵が街になだれ込まないうちならと、火をかかげているのだ。


 どうやら見失う恐れはなさそうだとわかって、ステファンはいくらかホッとした。

(やれやれ、また女連れで逃げることになっちゃった……)

 気持ちにゆとりが生まれると、自然にまた三年前の逃避行のことが思い浮かんだ。

 夫のゲオルを失って力なく泣きくずれるフィオナを励まし、盗賊やスピリチュアルの追跡におびえながら必死に北方山脈を越えたのだった。


 どんな場合だろうと、ステファンは若くて可愛い女の子の手を引いて歩くのを嫌がるような人間ではなかったが、さすがにあのときは浮き立つような気分にはぜんぜんなれなかった。

 酒場で働くメルバはそれなりに可愛く、よく似合った化粧もしていて十分魅力的ではあったが、やっぱりあのときと同じことになりそうだった。


(そういえば、フィオナもきっと酒場で働いているんだな)

 あの日、フィオナは村の小さな酒場で雇ってもらえるかどうか頼んでみると言って出かけていった。

 そこはステファンがゲオルと初めて出会い、意気投合した酒場のはずだった。

 窓のずっとむこうに、抑えきれない笑顔を浮かべてもどってくるフィオナの姿が見えたとき、ステファンは自分が何をしようとしているのかもよく自覚しないまま、急いで上着を羽織り、肩かけカバンを引っつかんで裏口から抜け出していた。

 背後の揺りかごの赤ん坊が上げた泣き声が、ステファンの行動を非難しているかのようだった。


 カナリエルと所帯を持って、マチウを育てようと希望に燃えていたはずなのに……。

 だが、それだからよけいにその代わりになるものなどないと感じたのかもしれない。


 ステファンはずっと、家族の優しさや家庭の温もりを知らずに育った。

 父親は、一人息子のステファンなど最初からいないかのように振る舞い、広い屋敷のどこかにいてもめったに顔を合わそうとしなかった。

 ステファンは早く大人になって家業の隊商の一員となり、家を出て広い空の下で暮らすことばかり夢想して成長した。

 だが、その隊商を率いる母の弟のおじさんも、他人より冷たい眼差しでしかステファンを見てくれなかった。


 母親はステファンを産んだときに亡くなった。

 まるでその責任がステファンにあるかのように、家族は彼を置き去りにした。

 乳母や家庭教師やたくさんの使用人に囲まれ、なんの不自由も感じず、けっして一人ぼっちだったわけではなかったが……。


 ステファンがもの想いにふけっているうちに、家並みは途切れ、ザールト川の対岸にかかる吊り橋にさしかかった。

 向かいの山の中腹にある塩田から、袋づめした岩塩を運んでくるための細い橋である。


 こんな緊急の場合だからこそ、だれでも気が動転して奇妙なことを始めてしまうのはよくあることだ。

 ステファンだって、昔はいっときも離さず抱えていたとはいえ、森の中で役に立つはずもないツィターなんか持ってきてしまっている。

 だが、橋の上にいる二つの人影がやっていることは、まったくわけがわからなかった。


 長身のほうの男が、けんめいに川の中に伸びるひものようなものをたぐり寄せている。

 そして、もう一人の背の低い男がクロスボウか何かをかまえ、川面に浮かんでいるものをつぎつぎ狙い撃ちしているのだった。

(あの二人は――)

 城門のかがり火は遠く、淡い月の光しかなかったが、その背格好とゆったりした北方風の服装から判断すれば、出る結論は一つしかない。

 怪しい人影は、まちがいなくダブリードとその相棒だった。


 ステファンは、とっさにメルバを引っぱって横の繁みに身を隠した。

「ど、どうしたっていうの?」

「……やつら、きっと襲撃してきた連中の仲間だよ」

「えっ!」

「シッ。声を立てちゃだめだ」

 ステファンはあわててメルバの口を手でふさいだ。


(いったい何をしてるんだ……?)

 あれがダブリードならよけいにすぐに逃げなければ、と気持ちがあせるのだが、人一倍強い生来の好奇心も同様に抑えられそうになかった。

 やつらがしようとしていることの一部始終を見届けることが、ほかならぬ自分に課せられた大きな義務ででもあるかのようにステファンの心を占領しはじめた。


「あれが最後の袋だ。……よし、行くぞ、パコ」

 ダブリードが謎めいたことを言い、今まで引っぱっていたひもを惜しげもなく川に投げ捨てると、相棒をうながして街のほうへもどっていく。

 ダブリードたちが眼の前を通り過ぎると、ステファンはメルバに一人で木こりたちの後について行くように言い聞かせ、自分は足を忍ばせて怪しい二人組を追った。


〝袋〟とダブリードは言っていた。

 たしかに、急ぎ足で彼らを追うステファンの横手に皮袋らしいものがいくつか、ゆっくりと流れている。

 だいぶひしゃげて平べったくなっているものもあるところからすれば、相棒がクロスボウで穴を開けたのにちがいない。


 ダブリードが合図するように前方に手を振った。

 大砲の音なども混じって戦いはいよいよ激しさを増し、船着場のやじ馬は流れ弾を恐れてほとんど姿を消している。

 残ったまばらな人影は、しかし、警備兵とも見えないのに明らかに武装しているように見えた。

 ダブリードに応えて手を上げたのは、大きな戦場剣とかごのようなものを背負った巨大な体躯の男だった。

 大男は、かかげていたタイマツをむぞうさに川の真ん中めがけて投げ込んだ。


 そのとたん――

 川が燃え上がった。

 タイマツが落下した地点を中心にして、青と黄色と赤がせめぎ合うように入り混じったまぶしい炎のほとばしりが、いびつな円形をなして川面に広がっていく。

 船着場につながれた渡し舟や何艘かの小舟、そして入り江に片寄せられていた何十本という木材が、たちまち炎の波の中に包み込まれていった。


 ステファンはすぐに思い当たった。

 ダブリードたちが破っていた袋の中身は、大量の油だったのだ。

 それがちょうど船着場のあたりまで流れ着いたところで、待ちかまえていた者たちによって火を放たれ、激しく燃え上がることになった。

 川一面をおおう炎から吹きつける熱風で、ステファンの長髪がふわりと浮き上がったくらいだった。


 爆発音こそしなかったものの、城外の敵にすっかり注意を引きつけられていた城門の警備兵たちも、すぐにその異変に気づいた。

 炎の波頭が流れに乗って城門に届き、その先端が門の下を通過したからだ。

 ギョッとしてその流れを眼でさかのぼると、背後の湾内が火山の火口のように灼熱した炎で埋めつくされていた。


「火を放たれた。敵は街の中にもいるぞ!」

 上官が怒鳴り、ただちに兵の一部を割いて階段の下へと差し向けた。

 だが、内側の敵は城門の出口を狙うのにもっとも効果的な場所を確保していた。

 飛来する矢と銃弾にくぎづけにされ、兵士たちは門から降りることすらできない。


 そのうちに炎の波は城門を通過していき、川の中の敵も火の流れを避けて岸壁のほうへ寄ったから、戦いは一時小康状態となった。

 城内にわずかに安堵の空気が流れた。


 ところが、恐るべき事態になったのはその直後からだった。

 炎の波は通過しながら太く堅牢な木製の支柱にからみつき、焼きこがした。

 しかし、それだけならさほどの被害でもなかったことだろう。

 内部に入り込んだ敵は、木材が流れ出さないように結び合わせてあったロープを、あらかじめきれいに切り離していたにちがいなかった。

 油にひたされ、すっかり炎の塊と化した木材が、追い立てられた家畜の群れのようにつぎつぎと城門へと殺到した。

 落とされた格子は、水面にただよう炎は通過させるが、押し寄せる木材はことごとくせき止めてしまう。

 城門の真下は、まさに盛大なたき火を始めたような状態になった。


「火が燃え移るぞ。格子を上げるんだ!」

 言われなくてもだれもがわかっている。

 だが、警備兵たちのあわてぶりをあざ笑うかのように、こんどは巻上げ機に取りつこうとする者をめがけて矢と銃弾が集中する。

 外側にだけ敵を想定した構造は、内側からの攻撃には意外なほどに弱体だった。

 格子はビクとも動かず、そうしているうちにも密集した木材から上がる炎は格子を火の幕に変え、支柱の上に載る城門本体へと容赦なくはい登っていった。


「敵襲! さらに敵襲です!」

 悲鳴のように見張りが叫ぶ。

 今やそれ自体が巨大なかがり火と化しつつある城門の炎の光を受け、グランディル川との合流地点をさかのぼってくるものが見えた。

 森から切り出した多数の丸太にすがり、さらに一〇〇人ほどの敵が攻め寄せてこようとしている。


 しかし、もはや、外敵からザールトを守る、どころではなかった。

 難攻不落のはずの大城門が危機にさらされていた。

 これ以上城門にとどまることはできないとみて、だれか一人が川へ飛び込むと、それはとどめようのない連鎖を引き起こした。

 泳げないはずのスピリチュアルの騎士までが、死の恐怖に背中を押されるままに宙に身を躍らせた。


(なんてことだ……)

 炎上する城門から真昼のような光と熱気を浴びながら、ステファンはツィターを小脇にして呆然と立ちつくしていた。


 湖沼地帯にあるゲオルたちの故郷の村を出て以来、ステファンは北方王国の街を転々と放浪し、王都カルバラートへも行った。

 だが、南部の生粋の都会っ子である彼は北方風の生活にはどうしてもなじめず、この一年ほどは山脈の南側へもどり、グランディル川ぞいのランダールや近隣の貴族領をうろつき回って暮らしてきた。


 知らずに通り過ぎてしまったザールトのことは、偶然知り合った旅芸人から耳にした。

「何もない、小さくて退屈な街だけどな」

 だが、好きな歌とツィターの演奏で生活でき、とりあえず寝るところと食べるものにありつけるのならと、ステファンはやって来た。

 難攻不落の平和な街としか聞いていなかったが、住みついてみて、これは自分にとって理想郷のような場所だと気づいた。


 塩は街の管理の下に生産され、帝国じゅうに安定供給する必要から、高額ではないがつねに一定の収入が関係者に保証される仕組みになっている。

 だから街を牛耳るボスのような者はいず、貧富の差は少なく、一攫千金を狙う怪しげな連中が入ってくることもない。

 労働者はほとんどが若い出稼ぎで、人口の半分以上を占めている。

 つらい肉体労働に従事するだけあって、真面目で堅実な人間が多い。

 林業にたずさわる者にはすこし荒っぽい連中もいるが、やっぱり気のいい若者たちである。

 すぐにステファンを仲間のようにあつかってくれた。

 フィジカルの兵士たちも同様に気安かった。

 他の住人はそういう連中を相手に商売をしている家族たちだ。

 よそ者を白い眼で見て差別するようなことはないし、少々はめをはずして騒いだり遊んだりするのに理解があるのは当然だった。


 若くて活気があり、そのうえ難攻不落の城門で守られて安全な街――

 カナリエルを失ってからずっと沈みがちだったステファンにとって、これほどささくれた心を癒すのに最適な場所はなかった。

 毎日が適度に面白おかしく、将来のこととか身分とか、切実な何かに迫られるようなことがない。

 好きな歌と演奏を披露すれば、やんやの喝采や心づけさえもらえるのだ。


 しばらくはここに住みつこう。いや、何年かいてもいいな……

 そんなことを考えている矢先に起こったのがこの大事件だった。

 ステファンが、楽園が崩壊していくような気持ちになったのは無理もない。


 船着場には、街に潜入してきたダブリードたち敵の尖兵が集結し、ごうごうと燃え盛る城門を見上げている。

 わずか七人ほどしかいない。

 たったそれだけの人数で、ザールトが誇る鉄壁の城門があっさりと陥落させられてしまったのだ。

 袋のネズミになるこちら側に逃げてこようとする警備兵がいるはずはなく、もはや抵抗する者などいないと信じきっている余裕の風情だ。


 占領された街に取り残された自分は、いったいどうなるのか……

 ステファンは、ダブリードに気づかれる危険も忘れ、道の上に呆然としてたたずんでいた。


 そのとき、ふと気がついた。

 大男が背負うかごの中から小さな顔がのぞき、こちらをじっと見つめている。

(なぜ……兵士が子どもなんか連れているんだ?)

 その疑問に、不思議な既視感めいたものがからみついてくる。

 子どもを入れた荷を背負う大男――


(ま、まさか、あいつは……!)

 盗賊団の首領の弟だったダブリードがそのすぐ横に並んでいるのだから、理性的に考えればそんなことはけっしてありえない。

 だが、ダブリードが相棒然とした様子でその男に何か話しかけると、男がそちらに重々しくうなずき返し、チラリとその横顔が見えた。


 まちがいなかった。

 見上げるほどの体躯、重そうな戦場剣、そして背中の子ども……。

 それは、カナリエルと三人で逃避行をともにしたゴドフロアだった。


 三年前のケルベルクの草原での光景が、感傷の霧などいっさいかからず、まるでついきのうの出来事のようにありありとステファンの脳裏によみがえってくる。

 カナリエルの婚約者だったロッシュは、その遺体の横に立ち、カプセルから生まれ出たばかりの子どもを抱えたゴドフロアにむかって宣言するように言ったのだ。

「――行け。けっしてだれにも渡すな」と。


 高々とそびえ立つような城門の炎を背景にして、小さな子どもはつぶらな瞳を大きく見開き、まっすぐステファンを見ていかにも不思議そうな顔をして首をかしげた。

(じゃあ、あの子は……)

「マチウ」

 ステファンは思わずその名をつぶやいていた――。

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