第六章 6 静かなる侵攻
その日の午後遅くのことだった。
国境の検問所前を、こんどは三〇頭の北方産の駿馬を引いた七人の男たちが通過した。
見るからによく手入れされた馬は、南部の二つの国から注文されたものだった。
軍馬は北方王国の重要な輸出品であるだけでなく、自国との軍事バランスにも関係するだけに、その輸出は王国の慎重で厳重な管理のもとで行われている。
男たちは北方軍が発行した正式な証明書を所持していたから、何の問題もなく通過を許された。
「それにしても、この二、三日北方から来る者が多いな」
「山が本格的な雪になる前に荷を運んでおこうというんだろう。帰りは身軽になるから、雪道を越えていくのもそう大変じゃない」
「なるほど、そういうことか」
皇帝府直属の警備兵たちはそんな会話をして、さほど不審にも思わなかった。
男たちは、そのままなにくわぬ顔で渡し舟の船着き場も通り過ぎると、道の前後に人影がないのを確かめてから街道わきの森の中に分け入った。
彼らを待ち受けていたのは、警備兵たちが話していたこの数日のうちに検問所を通過していった者たち――つまり、ガロウの三十騎隊の面々だった。
「ダブリードとパコは予定どおり川を渡ったんだな?」
ゴドフロアが、不慣れなターバンをじゃまくさそうに脱ぎながらたずねた。
ガロウはうなずいて言った。
「おれたちのほうの準備も万端だ。おまえに言われたとおりにやっておいた。これで本当にうまく行くのか?」
「なにしろ綱渡りのような計画だ。手順が一つでも狂えば水の泡になる。うまく行くかどうかは、これからのおれたちの行動にかかっている。覚悟はいいな?」
細かい作戦などいかにも苦手そうなガロウの配下たちも、ディアギールたちといっしょにゴドフロアの言葉におずおずとうなずき返した。
彼らは民族服を脱ぎ捨てて戦闘用の姿になり、森から切り出した丸太を数本束ねた小さないかだを引きずって街道にもどった。
偽装用の馬は森の中につないだままである。
ガロウの案内で川岸に降りていき、水際の草の間に大きく膨れた皮袋が一〇個以上も浮かんでいるのを確認した。
ゴドフロアが早朝の闇にまぎれてちょうど検問所付近を通過するように見当をつけ、上流から流させたものだ。
それを先に着いたガロウたちが回収し、街道から見えないように隠しておいたのだ。
国境を越える際に携帯できなかった各自の武器も、袋の一つにまとめてまぎれこませてあった。
「お、うまいこと川霧が立ちはじめたぞ。これなら城門の見張りに見つからずに接近できそうだ」
ゴールトが無精ヒゲをしごきながら嬉しそうに言った。
「だが、パコが投げ込んだはずの目印も見つけにくくなる。だから日没前のまだ明るいこの刻限を選んだんだ。けっして見逃すなよ。ガロウ、おまえたちは渡し舟を押さえて待て。そしてマチウ、流されないようにしっかりつかまっているんだぞ」
ゴドフロアは念を押し、マチウ一人をいかだの上に乗せると、それを押して先頭になって川に踏み込んでいった。
いかだの左右には泳ぎのできる四人の傭兵たちがつかまった。
後ろに延ばしたロープには、膨らんだ皮袋が一列につないでくくりつけてある。
その奇妙な格好で、ゴドフロアたちは大河をゆっくりと渡りはじめた。
水は凍えるように冷たかったが、だれもそんなことに文句は言わない。
命がけの戦いを間近にひかえて戦士の血がたぎっているのだ。
流れの速いところで皮袋が先に押し流されてあわてたりもしたが、五人が呼吸を合わせてけんめいに漕ぐことでなんとか体勢を立て直し、ほぼ目算どおりにザールト川との合流地点に達した。
「みんな、そろそろだ。よく見て目印を探せ。通り過ぎてしまったらもう引き返せん」
ゴドフロアの声にも危機感が混じる。
「こりゃ、まずいぜ……」
ディアギールが口の中で小さくつぶやく。
男たちはキョロキョロと四方を見回したが、薄くもやった川面は視界が限られ、よけいに焦りをかきたてた。
「あっ。あれ――」
マチウがゴドフロアの頭ごしに指さした。
ほんのちっぽけなものだが、探す者にははっきりそれと見分けがつく黄色い浮きが波間を漂っている。
パコが渡し舟からこっそり落としていったひもの先端部だ。
「ディアギール、ランペル、行け!」
ゴドフロアが言うより先に、二人はそっちにむかって抜き手を切っていた。
皮袋を結びつけたいかだを流されないためには、全員が離れるわけにはいかない。
ディアギールたちは、それぞれがいかだにつないだひもの端を握っている。
最低どちらかが浮きまでたどり着き、それに手カギを引っかける必要があるのだ。
しかし、彼らの必死さの割には浮きに近づけない。
流れの中にいるとわかりにくいが、グランディル川ほどの速さではなくても、彼らは確実に押し流されているのだった。
そのときだった。
マチウがいかだの上にすっくと立ち上がったと思うと、小さな身体をいきなり川に投げ出した。
「なに……」
ゴドフロアは驚きのあまり声を失った。
マチウが泳げるかどうかどころか、水遊びをしているところさえ見た憶えがなかった。
マチウは浮かんでこない。
残りの二人の傭兵は、何が起こったのかもわからず、いかだの上にマチウがいないのに気づいてようやく異常な事態を知った。
と――
遅れてディアギールを追っていたランペルの姿が、急に手をバタバタさせて水中に消えた。ふたたび浮かび上がったとき、なんとその背中にはマチウがしがみついていた。
(そうか……)
マチウは、ランペルが引くひもをたぐってそこまでたどり着いたのだ。
だが、ゴドフロアにも、いったいマチウが何をする気なのか見当もつかない。
「えっ?」
つぎの瞬間、いかだの傭兵たちはだれもがわが眼を疑った。
マチウはランペルの背中をはい登り、たくましいその肩を踏み台にすると、ちょっと勢いをつけただけで思いもよらないほど高々と跳躍したのだ。
ひらひらとその後を追っているのは、マチウがランペルの手から引ったくったひもだった。
その先にはディアギールがいた。
夢中で泳いでいて、背後の驚くべき出来事にもまったく気づいていない。
マチウが着地したのは、まさにその頭のてっぺんだった。
踏みつけられた勢いでディアギールの頭は水の中に没したが、マチウはその反動を利用してさらに前方へと飛翔してから着水した。
ハッとゴドフロアが気がつくと、周囲の水がグンと重い抵抗感をともなっていかだに押し寄せてきていた。
つまり、流されていたいかだが固定したものに結びつけられ、水流に逆らって浮かんでいる形になったのである。
マチウは流れに乗り、意外なほど近くに頭を現した。
ゴドフロアは片手を差しのばして難なくマチウの身体をすくい上げた。
ランペルとディアギールも、あいついでいかだにたどり着いた。
「じゃ、マチウが浮きに手カギを引っかけたのか?」
頭からずぶ濡れになったディアギールが、大きな眼をさらに驚きに見開いてたずねた。
ディアギールは、マチウがどうやって自分に追いついたか想像もつかなかったのはもちろん、自分から浮きまでまだ五メートル以上も距離があり、それが絶望的な遠さであることをいちばん実感していた人間だったのだ。
スピリチュアル兵と戦ったことのあるランペルが言った。
「あいつらの曲芸まがいの動きは知ってるけどよ、あんなことまでできるとはな。子どもだからよけい身軽なんだろうが……」
「いや、子どもだからよけい驚くじゃねえか。とっさに思いつくだけでもすげえのに、もののみごとにやってのけるなんてさ」
「だよな。セザーンたちに襲われたときやネイダー砦でだってそうだった……」
ディアギールやゴールトがさかんに驚きを口にしたが、マチウは、そんなことにはまったく関心なく、いかだの上からゴドフロアが浮きに結びつけられたひもを引くのを興味深げにのぞき込んでいた。
浮きを固定していた重しをはずすとひもがピンと張り、城門のむこうへと伸びていることがわかった。
川霧のせいであやうく浮きを逃してしまうところだったが、こうなると逆にその視界の悪さがゴドフロアたちに味方した。
用心のために目立ついかだは予定どおり切り離して流してしまったが、皮袋を結んだひもにすがって泳ぐことで、城門のかなり近くまで楽に接近することができた。
見張りは、わざわざ泳いで接近してくる敵など想定していない。
しかもわずか数人に過ぎないゴドフロアたちは、まったく気づかれることなく城門わきの死角になった岩場にたどり着いてはい上がった。
日はすぐに暮れた。やがて、流れの中に残してきた皮袋が、まるで水棲動物の群れのように一列になって暗い水面をしずしずとさかのぼっていくのが見えた。
皮袋がすべて城門のむこうに消えると、ゴドフロアがつぶやいた。
「どうやらダブリードたちは怪しまれなかったようだ。残るはガロウたちだが……」
たがいに合図を送り合うようなことはできない。
遅滞なく、正確に自分の役割を果たし、仲間の行動が予定どおりうまく行くことを願って待つしかなかった。
そのときがついにやって来た。
城門の上のかがり火で、ザールト川の河口に渡し舟の姿が現れたのがかろうじて見分けられた。
渡し舟は街の重要な交通機関であるから、つねにそれなりの人数が乗れるように両岸に二艘ずつが用意されている。
それは西街道側の二艘だった。
舟の上には漕ぎ手と船頭以外にまったく人影らしきものは見えなかったが、それは偽装だった。
むっくりと身体を起こし、銃らしきものを構えた者がいる。
パァン――
せせらぎ以外何も聞こえない静寂の中に、その銃声はいんいんと響きわたった。
城門の上に立っていた見張りが身体を二つに折り、ゆっくりと川面に転落していった。
それを合図に、舟底に身をひそめていたガロウたちがいっせいに起き上がり、城門にむかってつぎつぎ火矢と銃を撃ち放した。
城門が怒鳴り声と多くの足音でにわかに騒がしくなり、タイマツの光がいくつも右往左往しはじめた。
「いよいよ始まったぞ。戦闘開始だ!」
マチウが背中のかごに飛び込むと、ゴドフロアは躊躇なく岩肌をすべり降りた。
ディアギールたちがすぐその後を追う。
城門の上から迎撃の銃声が聞こえ、装備された大砲の発射音も轟いた。
ゴドフロアの指示にちゃんと従っているなら、たとえ舟が直撃されても、ガロウたちは先制攻撃の後すぐに水に飛び込んで難を逃れているはずだった。
ガロウたちの役割は、警備兵全員の眼をそちらにくぎづけにすることなのだ。
ゴドフロアたち傭兵はその騒ぎにまぎれ、城門の端をつたってザールト側にまんまと入り込むことに成功した。
そのとき、彼らの背後で、巨大な吊り格子が川幅いっぱいをふさぐようにきしみながらゆっくりと降りてきて、川面に深々と突き立った。
それはもちろん、急襲してきた外敵を阻むザールトの鉄壁の守りの象徴だったが、その内側から脱出することもまた同時に不可能にするものだった。
閉じ込められたのは、ゴドフロアたちなのか、それとも警備兵や街の住民たちなのか、いや、それとも……。
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