第11話 隠れ家


 男は寂れた二階建てのアパートの一室に身を潜めていた。

 八幡学園都市の新規開発によって建て替えの決められたこのアパートはすでに空になっており、住民は誰もいない。出入り口にトタン板こそ張られているものの、セキュリティーと呼べる設備は何もない。絶好の隠れ家(フスク)であった。

 男は剥き出しの床の上に並べられた魔方陣と各種のデバイスを眺めた。

 床の上には何本ものケーブルが這い回り、室内には薬品の甘ったるい臭いが充満している。比較的洗脳が簡単である高校生を素材に選んだとはいえ、ある程度の知性を持った相手の性格を変更させるには神醒術だけでは足りなかった。

「薬に、機械、神醒術まで使用して、ここまで手こずるとは思いませんでしたよ」

 男は愉快そうに言った。

 回収した素材――鈴宮春――の人格を漂白する過程に、他の実験体の七倍以上もの時間と手間が掛かった。そのため、こうして日を跨いでしまった。この素材は厄介な友人が付随していたらしく、余計な面倒が起きかけている。

「これほど苦労するとは……ひょっとしたら、あなたこそ本物の神かも知れませんね」

 部屋の中央の椅子に縛り付けられた素材がピクリと動いた。

 防音性の高いヘッドフォンをつけているため、こちらの声は聞こえないはずである。顔に装着された漆黒の仮面も、身体中に巻き付けられた銀の鎖も、魔方陣の四方に突き立てられた矢も、もちろんただの拘束具ではない。それぞれ相手の精神に干渉する呪具や神具である。

 最初はただの思いつきだった。

 この世に神はいない。

 ――本当にそうなのか?

「まさか、そんなはずはない」

 人間の中には神になれる可能性を宿した者が紛れているのではないだろうか? 可能性はゼロではない。下手な鉄砲も、数を打てば当たる。常人の頭を白紙に戻して、自らを神と信じ込ませて野に放つ。洗脳を施した人間が本物の神であれば良いが、贋者の神でも構わない。贋者の存在によって本物があぶり出される場合もあり得る。神醒術士だって、大昔は贋者だらけだったのだ。

「この世界を変える。それが私の天命……」

 神格などという空虚な人形に塗れたこの狂った世界は間違っている。

 それはそうだ。

 神が眠ったままだから、正しいはずがない。

 誰かが神を目覚めさせなければならない。

 男は自己陶酔した表情でメガネのフレームを指で押し上げた。

「――ん?」



 ドアを叩く音が聞こえた。

 こんなもぬけの殻となっているアパートでノックだと? どういう意味だ? この部屋に人間が潜んでいることを知っているのか? まさか。あり得ない。ここへ来るときは細心の注意を払っていたし、計画が洩れるようなヘマはやらかしていない。

 気のせいだ。

 そう呟いた矢先に、もう一度ノックの音が鳴った。

 ――コン、コン。

「っ!?」

 男は口の端を吊り上げた。

 今度は確かに聞こえた。気のせいではない。ではどうするか? 男は耳にゲートを装着した。相手が誰であれ、神醒術で気絶させてしまえば問題ない。それから正体を確かめるなり、人格を壊すなり、実験の素材に用いるなり、どうとでも処分できる。洗脳用に違法改造したゲートを起動させ、男はドアに近づいた。

 ドア越しに天使の神格を顕現させ、相手の不意を突く。

 確かなヴィジョンを脳内で組み立て、SI因子を通して現実に落とし込む。

「薙ぎ払え! エクシア!」

 純白の輝きを放ちながら、能天使が姿を現す。

 赤と緑の衣に身を包んだ金髪の天使の刃が閃い――


「バーカ。そっちじゃねぇよ」


 室内から声が聞こえた。

 ――そんな馬鹿な!

 さきほどまで間違いなく誰もいなかった。神律で移動してきたにしても、何らかの前兆を捉えられたはずだ。しかし、何の気配も感じられなかった。

 男は振り返り、目を見開いた。

「もう終わりだよ。九条先生」

「…………水、館……景佑…………」

 九条は確かめるようにその名を唱えた。

 顔面蒼白にして額から顎にかけて汗をかいている。明らかに具合が悪そうに見える。水館景佑はそう目立った生徒ではなかった。座学の成績は中の上。神醒術のほうは下から数えたほうが早いくらいである。

 ――凡人以下。

 とても神が潜んでいるような素材とは思えなかった。

 ――だが、この違和感は何だ?

 目の前に絶壁が聳え立っているような、あるいは一寸先に暗黒が広がっているような――とてつもないイメージが頭に飛び込んでくる。不吉なイメージを払拭するべく、九条は軽く息を吐いた。

「フッ、誰かと思えば水館クンじゃないか?」

 一度喋り始められれば、いつもの感覚でスラスラ口が動いた。

「どうしたんだい? こんなところで。ここは立ち入り禁止の建物だろう?」

「ゴタクは沢山だ」

「それはどうかな。今のキミは体調が優れていないように見えるけど、大丈夫かい?」

「九条先生。アンタはやり過ぎた」

 景佑はゆらりと一歩を前に出た。

 耳にゲートを装着していない。息も乱れている。視線だって定まっていない。

 それなのに、なぜこうも恐ろしく感じられるのか……。産毛が逆立つほどの悪寒が全身を襲う。九条は今まで5つの素材を弄り倒してきた。それらに手を付けるときに感じた禁忌を犯す魂の震えとはまったく違う感覚に、胸が押し潰される。

 ――逃げるか?

 馬鹿な。

 この私が、たかが凡人以下の生徒一人に対して、逃走するなどあり得ない。

 九条は耳元のゲートに手を触れ、SI因子の結合力を高めた。正規品にはできない調整である。ここまでして、自分が負けるはずがない。

 九条はパチンと指を鳴らした。

「エクシア」

 能天使がドアを切り刻み、悠々と室内に乗り込んできた。

 神々しい白い光が景佑を照らす。

「生徒相手に本気かよ。大人気ないな」

「大人は子供ほど甘くはない。覚えておくといい」

 九条はそう言いながら、脳内でさらにもうひとつのヴィジョンを構築していた。

 自分でもここまでやる必要はないようにも思えるが、骨にまで染み込んだ寒気を振り払うには多少やり過ぎなくらいで調度良いだろう。さすがに上級神格を一人で二体同時に扱うのはキツイが、やってやれないわけではない。

 天に手を伸ばし、その名を口にする。

「来い。キュリオテテス」

 さらなる天使が舞い降りてきた。

 二体の天使を従えれば、さすがに恐ろしさは消え――

「ハハハハハ! アハハハハハハ!」

 目の前の青年の笑い声に、背筋が凍った。

「アハハハハハハ! ハハハハ! アハハハハハハ!」

 邪悪な何かが、耳の奥深く、鼓膜よりさらに脳に近い部分まで侵食してくる。九条の頬が引き攣った。何が恐ろしいのかすら分からない。原因が分からなければ、対処できない。手が震え、喉が渇く。

 水館景佑が、光の灯っていない目を向けてきた。

「九条先生。やっぱりアンタはただの役者だよ」

「な、何を言っているんだい?」

「どれだけ主役になろうとしても、どれだけ台本に逆らおうとしても、アンタはずっと舞台の上から逃れられることはない。そのくせ、自分が劇を支配できていると思い込んでいる。哀れなピエロだよ」

「エクシア! キュリオテテス!」

 恐怖に駆られ、九条は天使を動かした。

 白い翼が宙を滑り、不気味な青年を挟撃する。矛と剣が血飛沫を撒き散らし、部屋の壁に赤い斑点を描き出す。確かにそうなった。そうなったはずだった。だが、しかし――

「ケケッ、ケケケケケ」

 血だまりの中で臓腑を曝け出しながら、青年は笑っていた。

 ――バケモノ。

 コレは人間じゃない。

 人間なら、とっくに死んでいるはずだ。

「あーあー。ひでぇな、こりゃ。まともに喋れる時間が一気に短くなっちまったぞ。まあ、でも、おかげでタイムリミットができたってのは悪くないかも知れないな。アイツが完全に動き出す前に俺が死ねるなら――」

「ひ、ひぃっ! 喋るな!」

 二体の天使たちが武器を振るい、また血が飛び散る。

 口を貫いた矛が返り血でべっとり濡れた。口から零れた舌が床に落ちる。背中に宝剣を突き刺し、昆虫標本のように床に仰向けに貼り付け、天使たちに肺を踏み潰させた。だが、それでも声は止まなかった。

〈そーいや、アンタの質問にまだ答えてなかったな〉

「喋るな! 喋るな! 死ね! 死んでろ! バケモノ!」

〈神とは何か〉

「誰か! 誰か来てくれ! バケモノ! バケモノが! クソッ!」

〈その答えを見せてやるよ〉

 制服の切れ端がへばりついた赤黒い塊が上げようとした腕を四つに切り裂き、浄化の炎で消し飛ばす。

 おかしい、おかしい、おかしい。

 ここは自分の隠れ家だったはずだ。ここは安全だった。そう。安全だ。誰にも邪魔されず、天命を全うするための実験を行える聖域のはずだった。室内の環境はすべて自分が作った。だというのに、自分だけがこの空間から拒絶された、異質の存在に感じられる。

 息が苦しい。

 自分が天使を操っている感覚がない。

 ――もうダメだ。

 九条は振り返り、ドアに飛びついた。

「開け! 開けよ! クソ! 誰か! エクシア! キュリオテテス!」

 天使たちはぴくりとも動かなかった。

〈無駄だよ。アンタはもう舞台から切り離された〉

 神格はただの人形に過ぎない。

「バケモノが!」

〈本物のバケモノは俺じゃない〉

「黙れ! 黙れ! 黙れぇぇぇえええええ!」

〈神様だよ〉

 肉塊の言葉に、色がついて見えた。

 九条は目を擦ろうとして、自分の両手が無くなっていることに気付いた。

 まるで最初から何もなかったかのように、シャツの袖の内が空洞になっている。

 ――カチカチカチカチ。

 歯車の音が聞こえる。

 黄金の歯車だ。

 無数の歯車が組み合わさり、ひとつの複雑で巨大な集合体を構成している。遠近感が狂うほどの存在。音が映像化され、視覚が臭いに変わり、音が痛みを通して脳内に流れ込んでくる。

「神! 神! 神よ! 私はあなたをずっと探し求めてきた! 何年何十年と! 神よ! 今こそ我に救いを! 我を救わずして何が神か! お助けを! 慈悲を! 誰か! 誰か私を! 誰でも良い! おい! 素材! 私を助けろ! おい! 誰か! おい!」

 カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ。

 頭が割れる。

 カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ

 誰か歯車の音を止めてくれ。

 巨大な《何か》が、全方位からこちらを見つめるカチカチカチカチカチカチカチカチ黄金の歯車で構成された巨大な瞳カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチいや、あの目は何も見ていない。ただのがらんどうだ。カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチしかし歯車が回っている。カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチやめろ見るな私を見るんじゃないカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチうるさいうるさいうるさいカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ神、神、神、神カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ




 カチカチカチカチカ チカチカチカチ

 カチカチカチ カチカチカチ

 カチカチ カチ カチ


 カチ  カチ


 カ チ



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