第9話 職員室

 プリントの山、山、山。

 職員室のどの机の上も、だいたい所狭しとプリントやら本やらマグカップやらが置かれていた。朝のホームルームより二時間近く早めに来たというのに、何人か教師は彼らが到着したときには既に職員室の机に向かっていた。

 まったくどれだけ早く仕事を始めているのやら……

 景佑たちのクラス担任である九条も、朝早くから学校に来ていた。

「鈴宮春に関する情報かい?」

 銀縁メガネをくいと手で押し上げてから、九条は役者のように肩を竦めた。

「急にいなくなった友達の心配をする君たちの行動は、とても立派で称賛に値するよ。美しい友情に免じて、正門が開く前にこっそり職員専用の裏門から学校に侵入したことは不問にしてあげよう。でも、それはそれ。これはこれ。僕から君たちに話せることは何もないよ」

 九条は眉を上げて景佑たちの反応を見た。

 この教師の動きはいつも妙に芝居がかっている。ある意味洗練されているとすら言える立ち居振る舞いは遠くで見ている分には優雅で良いものに思えるが、いざこうして面と向かって話し合うとバカにされているようで余計に腹立たしく感じられる。昨日の夕方に春の弟たちから連絡を受けて、一晩中春を探し回った徒労のせいもあるかもしれない。

 通学路、駅前の繁華街、学校、スーパー、コンビニ、八百屋……春の行きそうな場所をくまなく探したが、彼女の姿どころか目撃情報すら出てこなかった。

 もちろん、警察にも捜索願いを届け出た。しかし、今すぐ捜査が始まるわけではなく、まずは専任の捜査担当者の配置やら何やらから始まるらしく、話を聞いていた警察官は「まあ、捜査担当者が動き出す前に、家出人がひょっこり出てくることもあるから、気を落とさずにいてください」と声を掛けてくれたが、要するにすぐには動けないらしい。

 組織が大きくなると動きが鈍くなるのはある程度は仕方がない。

 ただし、だからと言って安心できるはずもない。

 千里は目の下に出来たクマを擦ってから尋ねた。

「警察から、何か情報を伝えられましたか?」

「ノーコメント」

「春……鈴宮が下校した時刻を教えてください」

「ノーコメント」

「彼女の目撃情報はあったんですか?」

「しつこいね、神楽坂クン」

 九条は目を閉じて深々と溜息を吐いた。

 いちいちリアクションがオーバーでこちらの心を逆撫でする。この九条という男はいずれ誰かの恨みを買って、ヒドイめに遭うだろう。きっとロクな死に方をしないはずだ。景佑がそんなことを考えていると、隣りの千里は目を大きく見開いて怒りをあらわにしていた。

 ――ああ、これはダメだ。

 そっと肩を叩いて千里をなだめてやりつつ、景佑は彼女の前に進み出た。

「先生から、何か質問は?」

「質問?」

「俺と千里はよく春と一緒にいたので、彼女の行動範囲も知っています」

「なるほど。僕に質問させることによって、こっちがどこまで情報を掴んでいるか、逆に探りを入れようってワケかい? なかなか賢いじゃないか。気に入ったよ」

 景佑は吐き気を覚えた。

 べつにこんな気障な男に好かれたくて喋っていたわけではない。

 むしろできるだけ距離を取りたいくらいだが、九条はにやにや笑いながら言った。

「それじゃあ、君には特別に質問してあげよう」

 湯気を立てるコーヒーを啜ってから、椅子の上でくるりと回った。

「君にとって、〈神〉とは何だい?」

「はぁ?」

 質問の意図が分からなかった。

 ――急に何を言い出すんだこのクソ野郎は……

 景佑が困惑していると、涼しげな顔をしたまま九条が口を開いた。

「神醒術科の生徒なんだから、一度くらいは考えたことがあるだろう?」

「それと今回の事件に何の関係が?」

「推測するのは水館クンの仕事だろう」

 背後で千里がブチ切れている気配を感じた。

 ああもう。後ろも前も面倒くさい。

「さあ。質問に答えてくれないかな? 君にとって〈神〉とは何だい?」

「……〈神〉……」

 忌まわしい存在。

 消したくても消えてくれない。不気味で、恐ろしく、理解不能な高次の存在。目を伏せた景佑の肩を、千里が掴んでグイと後ろに引き下げた。

「〈神〉なんてどうでも良いです! 景佑も真面目に悩まないでよ! バカ!」

 相当頭に来ているらしい。

 景佑に八つ当たりしてから、千里はギロリと丸メガネを光らせた。

「先生! そんなことより、今は春について教えてください!」

「神楽坂クン、君は神を恐れていないみたいだね?」

「私は見たことも会ったこともないものに怯えるほど臆病じゃありません! さあ、答えましたよ! 今度は先生が教える番です! さあ、早く話してください! 調査はどこまで進んでいるんですか! 教えてください!」

「おやおや。君は僕の話を――」

「九条先生ッ!!」

 千里の怒声によって、水を打ったように職員室が静まり返った。

 他の机で作業していた先生方も何事かとちらちらこちらの様子を窺っている。ぐるりと首を回して周囲を確認した九条は苦笑しながら立ち上がった。

「呆れるほどの傲慢さだね。感心するよ」

「どこへ行くんですか!」

「君たちから逃げるために、準備室にでも行こうかな。ここでは他の先生方に迷惑が掛かる。ああ、もちろん生徒は入室禁止だからね。君たちは入って来ちゃダメだよ。もしもこれ以上駄々をこねて僕の業務を妨害するようなら、警備員を呼んで、生活指導の岩本先生に引き渡してもらうからね」

 ちっちっち。

 指を振りながらウィンクして、九条は職員室から出ていった。

 千里は顔を真っ赤にしてぶるぶる拳を震わせていた。気持ちは分かる。しかし、一方で景佑はそれほど素直に怒りを抱けないでいた。捜査中の事件について、警察から何かしらの情報を知らされていたとしても、口止めくらいはされているはずだ。理屈で言えば、教えろ教えろとせがむこちらのほうが無理な注文をしていることになる。

 しかし、あの質問にはどんな意味があったのだろうか……


「あれがクラス担任だと、君たちも大変だね」

「はぁ」

 千里に同情したのか、近くで九条とのやりとりを聞いていた他の教師が話しかけてきた。

 白髪に立派な顎髭まで生やしているこの教師は来年で定年になるらしい。たしか現代文の教師だったはずだ。景佑のクラスの授業を直接受け持ったことはないが、放っておけなかったのだろう。

 現代文の教師は急須でお茶を入れながら喋った。

「彼を擁護するつもりはないけど、教師という立場はいろいろ面倒なんだよ」

「ご苦労様です」

「ありがとう。もちろん、彼の人を舐めきった態度は許されざるものだと思うけどね。同じ内容を伝えるにしても、伝え方を少し変えるだけで円滑にコミュニケーションを行えるようになる。彼はその努力を怠っている……どうにかしてもらいたいものだよ」

「あの、職員室でそんなこと言って大丈夫なんですか?」

「ははっ。君は気が利く子だね。将来出世しそうだ」

 現代文の教師がお茶の入った湯飲みをふたつ差し出してきた。

 景佑は湯飲みを渡すついでに横目でちらと千里の顔色を伺った。彼女の胸中ではまだ怒りの嵐が吹き荒れているらしく、こちらの会話に入っていく気はさらさらないようだ。緑茶を飲みながら、景佑は窓の外に目を移した。

「先生にとって、〈神〉とは何ですか?」

「それは、君たちが呼び出す神格のことではないのかな?」

 定年間近の教師の目は笑っていた。

 どうやらこれは彼なりの冗談らしい。

 景佑も愛想笑いを浮かべながら、溜息を吐くように言った。

「神格は意思のない人形に過ぎませんよ」

「それは君の言う〈神〉とはどう違うのかな?」

「〈神〉はもっと扱い難くて、面倒くさい……って、先生。質問したのはこっちですよ」

「あはははは。バレちゃったか」

 頭をぺちんと叩いてから、現代文の教師は声を立てて笑った。

 どうも人を食ったような性格をしている。景佑はお茶を啜りながら答えを待った。ひとしきり笑ってから、現代文の教師は机に凭れ掛かった。

「私は、〈神〉なんてものは信じちゃいないよ」

「え?」

「唯物論とか無神論とか、まあ、言い方はいろいろあるよ。今の子たちにとっては珍しい考え方かも知れないけど、昔はそう考えているひともたくさんいたんだ。だって、世界はこうも混沌としているからね」

 羊のように温厚な瞳が淋しげに揺れた。

 このひとは、どれだけ神に裏切られ続けたのだろうか……? 期待するのも馬鹿らしくなって、神そのものの存在を否定する。真面目に生きてきて、たどり着く終着点がここではあまりに悲しい。

 ――いや。そう思えたほうがマシか。

 景佑はちらと背後を振り返り、溜息を吐いた。

「やっぱり、今の子たちには分かりにくい話だったかな?」

「……はい」

「ははははは。それだけ時代が良くなったってことなんだろう。そのうち、私のような考えを持つ老人たちは消えていき、君たちのような神を信じる者たちが世界を動かすようになる。善悪はさて置き、それはそれで大変そうだ。ひょっとすると、人類の行き着く先は古代エジプトのような神託政治になるかも知れないね」

 すごい世界になったもんだ。

 現代文の教師はお茶を飲み干すと、自分の机に戻っていってしまった。

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