第10話 屋上



 その日の授業を二人はすべてサボった。

 職員室から引き上げた千里は荒れに荒れていた。しばらく景佑に八つ当たりしまくってから、やがて電池が切れたようにばったり倒れた。今、千里はソファで眠りこけている。しかし、景佑は眠れなかった。

 とても眠ってなんかいられない。

 頭の中でこれまでの情報がぐるぐるとまわり続けている。ヌーの喧嘩、謎の巨漢、春の失踪。そしてそれらを取り囲むように散りばめられた、神、神、神。どうも偶然とは思えない。まるで誰かの意図によって仕組まれたかのような……

「……考え過ぎか?」

 部室の窓枠に寄りかかって外の景色を眺めた。

 準備体操の掛け声が聞こえる。

 どこでレールを履き違えてしまったのだろうか。普通の生活を送ろうと心掛けて生きているつもりなのに、いつも事件の中にいる……。いつの間にかソファで眠りこけている千里の寝顔を見つめていた自分に気付いて、景佑は慌てて目を逸らした。

「黒幕、か」

 千里の言うとおり黒幕なる人間がいたとして、そいつの狙いは何だ?

 まず間違いなく神絡みの何かだろう。

 だが、鈴宮春を攫った理由が分からない。春の神醒術の腕前は平々凡々であり、才能だけなら千里のほうが上である。それに、よく分からないのは巨漢の挙動も同じであった。神、神、連呼しておいて、実力は学生に毛が生えた程度でしかなかった。あの程度の力で自分を神だと思い込めるほうがどうかしている。

「刷り込み……洗脳?」

 そういえば、ヌーも喧嘩騒動を起こす前に性格が変わっていたらしい。

 ヌーもどこかのタイミングで黒幕に連れ去られ、洗脳を施されていたのだろうか。

 だが、何のために?

「……景佑」

「ん?」

 いつの間にか千里が目を覚ましていた。

 シワだらけになっていたワイシャツを手で伸ばして直そうとしていたが、すぐにあきらめて起き上がった。ライオンのような大きな欠伸をひとつかましてから、トレードマークでもある丸メガネを鼻の上に載せた。

「ちゃんと寝た?」

「ああ」

「何か分かった?」

「いや」

「ウソばっかり」

 千里はぼさぼさになった前髪を手で梳きながら言った。

 まさか景佑の独り言を聞いていたわけではないだろう。無駄に勘の良いやつだ。景佑はティーカップに水を入れて渡してやった。

「さっき考えてみたんだが、黒幕とやらの狙いは、ひょとしたら洗脳なんじゃないか?」

「洗脳?」

 千里はカップに口をつけながら聞き返した。

「言っておくが、何の証拠も確信もないぞ」

「いいから話して」

「ヌーの喧嘩から事件が始まったとして、一連の事件の共通点を探してみたんだ。そうしたら、どうも神という言葉がキーワードになっているような気がしてな。もちろん、全部ただの気のせいかも知れないが、どうも黒幕は学生を攫って『お前は神だ』と洗脳していると考えると、今までの事件がひとつに繋がる……」

 ここで一旦言葉を切って、景佑は相手の反応を窺った。

 千里は顎に手を当てて考え込んでいる。

 こういう作業は景佑より圧倒的に千里のほうが得意である。景佑は早々に考えることを千里に任せて、本棚に並べられた本の中からゲーテの詩集『神と世界』を手に取った。片鱗でもいいから、九条の問いに対する一般人の模範解答を知っておきたかった。

 しばらくして、千里が声を出した。

「……春は帰ってくる……けど……」

 千里の唇がヒクついて、なかなか次の言葉が出てこなかった。

 本を置いて、背中を擦ってやった。

 それで少し落ち着いたのか、千里は再び口を開いた。

「……でも、それじゃ……遅過ぎる……」

「どういう意味だ?」

「今まで洗脳されてした人たちは、その後、自由に行動していた。ということは、春もたぶんすぐに解放されると思うけど……だけど……そのときには、春は……もう……」

 春が解放されるとしたら、洗脳された後だ。

 そのときにはもう手の施しようのない、巨漢のような狂った状態になっているだろう。ヌーは未だに目を覚まさない。春も同じように眠り続ける可能性が高い。もしかしたら、二度と目を覚まさないかも知れない。

 制服の袖を千里に掴まれた。

「かっ、景佑、どうしよう?」

 千里の目は涙で濡れていた。

 手が震えている。余程悔しいのだろう。何もできない自分が許せないのだろう。遅々として進まない事態に苛立っているのだろう。きっと千里が景佑の能力を持っていれば、もう迷わず使っているはずだ。

 ――やるか。

 景佑の中でスイッチが入った。

 このままドン底の状況が続くくらいなら、世界ごと滅びてしまっても構わないだろう。

「わーかったよ。しょーがない」

 景佑は腹を括った。

 もうここまで来たらどうにでもなれ、だ。

 素人の学生にはここが限界だ。警察や学校にはもう頼った。でもダメだった。ここから先は超常的な力に頼らなければ、ここから先にハッピーエンドは訪れない。この世界に生きる人々には誠に申し訳ないが、非常事態だから仕方あるまい。

「世界が裏返っても知らないぞ」

「……ふぇ?」

「冗談だ。まあ、なんとかするから、見つけてくれよ」

 景佑は千里の手を引き剥がして立ち上がった。

 相手が呆然としているうちに、逃げ出す心構えをしておく。

「え? 何を?」

「見つけたら、ぶん殴ってもいいし、蹴り飛ばしてくれて構わない。俺は自分を見失う。だから、お前は必ず俺を連れ戻してくれ。でないと、たぶん俺は消えちまう。お前が俺をこの世界に押し止めているピンなんだよ。言っておくが、これは冗談じゃないぞ」

「どういう、こと?」

 説明できることじゃない。

 目に見えるものでもないし、口で言って理解してもらえるような事象でもないし、何より千里にはいつまでも知らないでいてほしい。景佑は何も説明せずにさっと身を引いた。部室のドアまであと一歩。背中の後ろでドアノブを捻った。

「頼んだぞ」

「あっ、ちょっ、ちょっとぉ! 待ってよ! 景佑!」

 ドアを閉め、思い切り蹴り飛ばした。

 これでドアの鉄が歪んでしまえば、しばらくは開けられないだろう。階段を上へ上へと駆け上がり、封鎖された屋上への扉に手を触れた。合鍵なんて持っていない。だが、しかし、力を使えばどうとでもなる。

 脳内で瞬時にイメージを構築して、現象をイメージに引き合わせる。

 こめかみに軽く痛みが走った。温度感が消え失せる。

 脳裏に黄金の歯車がチラつく。

「チッ、ゲートもナシでこれをやると、流石にヤバいか」

 ――カチャン。

 一人でにドアの鍵が開いた。

 弾かれたように景佑は無人の屋上に飛び出した。本当はもっとひと気ない場所で呼び出したかったが、思い立ったら仕方ない。アイツを呼び出すためには、術式も、ゲートもいらない。何かを念じることすら必要ない。

「今日の占いでも見ておくんだったな」

 景佑は自嘲的な笑みを浮かべた。


 まあいいか。

 運勢ぐらい捻じ曲げてやるよ。


 ひとつひとつ、身体から力を抜いていく。手、肩、背中、腰、脚、つま先……自と他を境を取り払い、個を消す。感情の糸を一本一本切り離していき、身も心もからっぽの状態へと近づけていく。

「十、九、八、七、六」

 しかし、脱力した景佑の身体は倒れない。

 操り人形のように、〈何か〉に上から吊り上げられ、倒れることを許されない。雲の切れ間から、黄金の歯車が覗き見えた。穢れを纏わぬ、磨き抜かれた金色の輝き。大小無数の歯車が幾重にも組み合わさり、重なり合って巨大な何かを構築している。

「五……四……三……」

 ――ああ。

 歯車の回る音が聞こえる。

 カチカチカチカチ

 自分が透明(クリア)になっていく。

 部室棟の二階から聞こえていた千里が暴れ回っている音も、もう景佑の耳には届かない。自分が世界から切り離されていく感覚すら、徐々に薄まっていく。目に映る景色はどれも冷え冷えと青く染まり、映像としての意味を失っていく。

「……鈴宮、春の……居場所を……」

 脳内で情報が爆発する。

 文字や数字が行き乱れ、直線や曲線が交差する。認識が追い付かない。意味など分かるはずもない。頭が割れるように痛むが、その痛みすら別世界の出来事のように感じられる。いや、徐々に痛いという事実すら認識できなくなっていく。

 カチカチカチカチカチカチカチカチ

「……そ、こか」

 もう自分の声すら聞こえない。

 過程をすっ飛ばして、結論だけが叩き出される。しかも、その結論を自分で確かめることすらかなわない。何のための問いで、何のための答えか。個が消え、より大きな〈何か〉がその巨大な頭角を現していく。

「……連れ、て……け……ゼウス・エクセ・マキー……ネ」

 眩い光が降り注ぎ、八幡学園の校舎を、校庭を、部室棟を黄金に染め上げた。

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