第3話 校舎裏


 結論から言って、上級生に関する情報収集は割に合わない仕事だった。

 ヌーの名前を出した途端、豹変して半ギレになった先輩方に頭を小突き回されながら与えられた情報は、大して役に立たなそうなものばかりだった。やはり自分がこちらを引き受けてよかったと景佑は安堵したものの、それでストレスが消えるわけではない。

「……あー、クソッ! 胃が焼ける!」

 景佑は頭を冷やすために買った缶コーヒーを一気に飲み干してから、ゴミ箱に投げ捨てた。

 苦労して手に入れた情報は噂の裏付け程度の役にしか立たないものばかり。向こうの言い分を素直に信じるなら、先に手を出したのはヌーのほうだったらしい。廊下の曲がり角でたまたま肩がぶつかって、上級生が呼び止めようとしたところで、いきなりヌーが殴りかかった、と。信じがたい話ではあったが、目撃者が多くいたため、信憑性はかなり高い。ついでに言えば、二人の間には因縁めいたものはなく、まったくの初対面だったらしい。

「はぁー。さっぱり分からん」

 絡まっていた糸くずがさらにグチャグチャになってしまった。

 グラウンドの脇を歩いていると、見知った友人に声を掛けられた。

「あっ、おい! 水館!」

「おう?」

 景佑は振り返って足を止めた。

 半袖短パンの体操服姿で走り込みをしていた男子卓球部の友人、田代である。今ではあまり顔を会わせる機会もなく、少し疎遠になっていたが、一年前はクラスが同じで席も近かったため、こうして呼び止められることも稀にある。

 ――そーいや、ヌーも田代と同じ卓球部だったな。

 景佑はいまいちパッとしない友人の顔を眺めた。

「あぁー、このタイミングで声を掛けるってことは、千里が何か迷惑でもかけちまったのか?」

「えっ? いや、べつに神楽坂さんには会ってないけど……でも、そう訊いてくるってことは、やっぱり景佑も立花のことを調べてくれてるんだよね? うん。呼び止めて正解だったなぁ。そのことについて、僕からも話があるんだけど、聞いてくれないかな?」

「お、おう……」

 ぐいぐい話を進められて、景佑は少し戸惑った。

 しばらく会わないうちにコイツもキャラが変わったな。まさか彼女でもできたのか?

 校舎の裏側へ突き進む友人の背中を眺めながら、景佑は後ろをついて行った。日の当たらない校舎の蔭は、運動部の掛け声がうるさいグラウンド側とは対照的に陰湿でひと気がなく、物静かだった。

「何だよ、わざわざこんなところにこそこそ隠れなきゃできない話なのか?」

「どうなんだろうね。僕にも分からないよ」

「念のためってことか」

 いちおう、景佑はそれで納得しておいた。

「立花の件について、何か変わったことがあったのか?」

「先生たちにも同じことを聞かれたよ」

「それで?」

「どう答えていいか分からなかったから『何もありませんでした』って答えたよ」

「何があったんだ?」

 田代はスポーツ刈りの頭を掻きながら、困ったような顔を見せた。

「あるっちゃある。いや、なくはないってカンジかなぁ。ただ、でも、まあ、僕の勘違いってこともあるし、あんまりアテにはしてほしくないんだけど……それでも聞きたい?」

 奥歯に物が挟まっているような、ハッキリしない喋り方が気持ち悪い。

 そもそも声を掛けてきたのはそちらなのだから、ここまで来て煩わしい前置きなど必要ないと思えるのだが、それだけ本人にとっても繊細な話なのだろう。おそらく、そういうところにこそ事件の真相に迫る鍵が隠されているのだ。

 景佑は迷いなく頭を下げた。

「頼む」

 それで田代は決心がついたのか、すぐに喋り出した。

「何て言うかさー。立花っていつもは大人しくて、草食動物みたいじゃん? でも、ここ三、四日はね……うーん、何て言うかさー、こう……ちょっといつも通りじゃなくて……全然おどおどしてないって言うかさー……」

「肉食系にクラスチェンジしていたのか?」

「いやいやいや! それはナイよ! ナイナイ!」

「じゃあ、草食のままか」

「それがそうでもなかったんだよ!」

 草食でも肉食でもない。

 いったいどんな感じだったのだろうか。

 校舎の裏に沈黙が降りた。

 確かにこんな話は教師や警察相手には言いづらい。人によっては「馬鹿にするな!」と怒鳴りかねないほど曖昧で難しく、分かりにくい。長い沈黙の後に、田代は言った。

「あいつ、何かおかしかったんだよ」

「目が血走っていたとか、手が震えていたとか?」

「そーゆージャンキーな感じじゃなくて……そう! むしろ逆だよ! 逆だったんだよ! 立花がいると場が暗くなるっていうか、いや、ちがうなぁ……うん! クリア、透明! 妙に静かで、近づきがたい感じになるんだよ!」

「クリアで静かで近づきがたい、か……」

 幼少期の記憶がフラッシュバックした。

 何でもできた。万能ゆえに無個性にして無知であった少年。どれだけのミスを犯しても、あとで帳尻を合わせることも容易だったし、そもそも自分の意にそぐわない事象はその場で捻じ曲げてしまえた。それがどれだけ危ういことか、今なら分かる。当時、自分の周りにいた人々も本能的に察していたのだろう。

 人混みのなかにいても、孤独――

 皆と会話しているときでさえ、一人浮いているような感覚――

「まさか、な」

 景佑の呟きをどう捉えたのか、田代は申し訳なさそうに眉を寄せた。

「あ、やっぱりよく分からない? まあ、僕自身もちゃんと理解できてるわけじゃないから、景佑にとっては余計にちんぷんかんぷんな話だったよね? ごめんね。こんなあやふやな話しかできなくて」

「いやいや。とても有意義な情報だったぞ」

「それは良かった」

 田代はほっと溜息を吐いた。

 少し憑き物が落ちたような友人の表情を見るに、もしかしたら彼は誰にもヌーの話を伝えられない罪悪感に苛まれていたのかも知れない。飄々とした田代にしては珍しく強引だったのも、そのせいだったのだろうか。

 ――それにしても

「肉食でも草食でもなく、近づきがたい……か」

 謎を解くつもりが、新たな謎に遭遇してしまった。

 一歩進んで二歩下がる。

 この調子では、たぶん試験期間一週間前までに調査を終わらせられないだろう。景佑にとって謎だの事件だのは正直どうでもよかった。神楽坂千里さえ満足してくれればそれでいい。だから、今から三日後にあのわがまま娘を納得させられるうまい言い訳を考えておかなければ……

 友人に別れを告げてから、景佑は再び部室に向かった。

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