冷たい夜の獣の王国

 冷たい夜に、熱い指先を想って、アシュビシスは瞳を閉じた。



 いつでも私に差し伸べられていた、あの人の大きな手。その手を取って、あの人の胸に飛び込んで、情欲の海に二人で溺れてしまえたら……そんな儚い戯言たわごとを夢見た夜も確かにあるけれど、同時に、幸せになる権利など私には無いのだと思い知る。

 あの人の命を奪った、この私に。

「そう思うだろう、ラーガ」





 かつて、大陸は常世の闇に覆われていた。

 妖魔や妖獣がうごめく世界で怯え震える人の子を哀れに思った天竜が、夜闇を照らす炎を地上にもたらしたと言う。


『天竜の加護を得た人の子こそ大陸を支配すべき』


 そのおごりが、大陸を混乱の渦に陥し入れ、血塗られた七王国時代が幕を開ける。



「戦士どもが武力に任せてこの大陸を血に染め、人の子と術師、『魔の系譜』の間で保たれていた大陸の秩序までも戦火に呑み込んでいく……奴らを掃討せねば。我が王国が愚か者の手に墜ちてしまう前に」

 物見の塔から闇夜に赤々と燃え上がる地平線を見つめながら、唇を噛み締め、アシュビシスは白い息と共に女王の威厳に満ちた声を絞り出した。

「だが、女王よ、我らの軍事力は他国と比べて余りにも脆弱ぜいじゃくだ。術師を多く生み出す国であるが故のひずみは埋めようがない……戦士達も皆、度重なる戦いで疲れ切っている」

 背後から諭すように声を掛けたイングヴァルは毛皮の外衣を脱ぐと、まだ何も知らぬ少年の頃から護衛として守り続けて来たあるじの華奢な身体を包み込んだ。

 

 アシュビシスは幼い頃から慣れ親しんだ大きな手の温もりを毛皮越しに感じて、心が温まるのを感じながら、幼馴染の長身の戦士を振り返って苦々しく声を荒げた。

「……歪みだと? 我ら術師が紡ぎ上げる言葉は、自然の姿を解き放ち未知なる力へと変貌させる祈りだと言うのに? 風は術師の盾となり、我らを脅かす者をさえぎる結界となる。光は刃となって、我らにあだなす者に降り注ぐ……聖女ウシュリアの時代より、我らはそうして戦ってきたのだ。まともに結界を編むことすら叶わず、使い魔を従える力も持たぬような術師しからぬが故に、他国では軍事力に頼らざるを得ぬのであろう?」 

「女王よ、世界の秩序は変わりつつある。己の魂と引き換えに『魔の系譜』から与えられる術の力だけでは、『安息の地』と魂の復活を信じて死を恐れずに刃を振るう戦士には勝てぬ、という事だ」

 大陸随一とうたわれる女術師である女王を前にして、ひるむ素振りも見せずにイングヴァルは告げた。


 降伏してくれ、これ以上、命を無駄に散らしてくれるな。


 澄んだ青い瞳がそう言っているのを、アシュビシスは痛い程に感じ取った。だが、尊き聖魔に愛された民の王としての誇りが、血に飢えた野獣の如き戦士の王達の前に膝を折る事を許さなかった。

「ならば、その戦士の力を見せてみよ、イングヴァル。夜明け前には、地平線の彼方に見える軍勢がこの国に押し寄せるだろう。我ら術師を守り、戦い抜いてみせよ!」

 怒りに潤んだ瞳でアシュビシスはイングヴァルを真っ直ぐに見つめた。


 私のために戦え。その命掛けて、私を守れ。


 星屑きらめく夜空の如き紺碧の瞳がそう言っているのを、イングヴァルは痛い程に感じ取った。

「元より、この命はあなたに捧げている。だが、ひとつだけ……」

 大きな手がアシュビシスの冷え切った頰に触れ、熱い指先が濡れた唇の輪郭をゆっくりとなぞった。

「願わくば、今宵は我が腕の中に……あなたを想いながら『安息の地』に旅立てるように」

 青い瞳が間近に迫り、イングヴァルの温かな唇が己の唇に触れ、やがてむさぼりつくように舌をからられた。力強い腕にその身を抱き締められて、アシュビシスは幼い頃から密かに想い続けていた男の心が己のものである事を知り、喜びに打ち震えた。


「愛しい人よ、約束してほしい。決して、あの妖魔に魂を譲り渡してくれるな。あれは邪悪なるものだ。使い魔などに、あなたを奪われてなるものか」

 男の言葉に、女術師としての誇りを呼び戻されたアシュビシスはイングヴァルの腕を振りほどき、その頰をしたたかに打った。

「我はスェヴェリスのアシュビシス。術師の王国を率いる女王が、使い魔との『魂の契約』を恐れていては民に示しがつかぬ!」 

 青い瞳が悲しみに曇るのに気づき、アシュビシスは愛しい男の腕から逃れてしまった浅はかさを悔やんだ。


 もう一度……お願い、もう一度その大きな手で私に触れて。

 

 アシュビシスの願いを知りながら、イングヴァルは一歩退くと、護衛の顔を取り戻した。

「部屋に戻りましょう。夜明けまでに少しでも眠っておかねば……」




 夜明けなど、永遠に来なければ良かったのに。

 

 妖魔を従えた女王に率いられたスェヴェリス軍の前に、最期まで戦い続けた敵兵が力尽き崩れ落ちた。累々たる屍で埋め尽くされた戦場の一角に目を留めた時、アシュビシスは悲鳴を上げた。

 女王が目覚めるよりも早く敵陣に急襲を仕掛けた戦士達の中に、女王の護衛の姿もあったと言う。変わり果てたその姿を掻き抱き、身につけていた毛皮の外衣を脱いで包み込むと、アシュビシスは大切に王城に持ち帰るように使い魔に命じた。



 愛する男を焼き尽くす浄化の炎を自ら編み上げながら、アシュビシスは己の魂が引き裂かれる痛みを感じていた。


『……ならば、その戦士の力を見せてみよ、イングヴァル……我ら術師を守り、戦い抜いてみせよ!』


 イングヴァル、愛しいあなた。

 私があなたを死に追いやった。 

 あなたの居ない世界はこんなにも色褪せて見える。

 あなたを失って、私の世界は時の流れさえも失った。

 最後の夜、力尽くで私を奪ってくれれば良かったのに。

 イングヴァル、もう一度、その大きな手で私に触れて。

 

 忘れられない夜だけが、アシュビシスの心の底で冷たい炎となって燃え続けていた。



***



『護衛なしでは女王も心許こころもとなかろう。我がお前の傍らに寄り添い守ってやろう。あの戦士がいつもそうしていたように』

 イングヴァルが遺した長剣を抱えて寝台に横たわっていたアシュビシスの上を、ゆらりと漂う美しい妖魔が、ぞっとするほど艶やかな声でささやいた。

 黄金の髪の水妖フーアは逞しい肢体をしなやかに動かして、するり、と女王のすぐ傍らに舞い降りて横たわると、細くしなやかな腰に力強い腕を回し、かぐわしい唇を女王の冷たい唇に押し付けた。

 アシュビシスは凍える眼差しを使い魔に向けると、不意に起き上がって妖魔の腕から逃れた。

「その美しい容姿と甘いささやきに溺れぬ人の子などこの世にはおらぬ、とでも言いたげだな、ラーガ。そうやって愚かな術師達の魂を喰らってきたのだろうが、私には効かぬ。私がお前を必要とするのは戦場だけだ」


 ──あれは邪悪なるものだ。使い魔などに、あなたを奪われてなるものか。


 懐かしい声が聴こえたような気がして、アシュビシスは愛しさに微笑んだ。


 分かっている、イングヴァル。


「第一、イングヴァルは、お前のようにみだらな心根を持ってはいなかった」

『はて、あの夜の出来事は「淫ら」とは呼ばぬのか?』

「あの夜?」

 妖魔は美し口元を歪めて、にやり、と妖しい微笑みを浮かべた。

『あの男がお前の唇を奪い、その腕に抱こうとした……』

 アシュビシスは身体中が恥ずかしさと憤りで火照るのを感じた。

『ああ、そうか。お前が冷たくあの男を拒んだから、あの男は我の呼びかけに答えたという訳か』


 呼びかけに……答えた?


「……何の事だ、ラーガ」

『我とお前との「魂の契約」を、あの男の魂でもって肩代わりする事が可能だと教えてやった』


 アシュビシスの背筋を冷たいものが走り抜けた。

「そんな、まさか……」

『護衛が主の元を理由もなく離れるはずもなかろう? あの朝、お前が目覚めた頃、あの男の命は戦場の露と消えた。望み通り、お前を想いながら』

「……お前がけしかけたのか? イングヴァルが私を置いて敵陣を急襲などと愚かな事をするはずがないと思っていたのだ。お前が私の護衛を奪ったのか、ラーガ!」

『まさか。我は刃を振り回す男に興味はない。あの男の魂など奪ってはおらぬよ』

「だが、たった今……」

『戦士の魂ならば、戦場で命を落としたその時に奪い取る事も出来る、と教えてやったまでだ。あの男も哀れなものよ。よほど気が急いていたのであろうな……我と契約も結ばぬまま夜明けを迎え、自ら散って行ったという訳だ』

 

 ……ああ、イングヴァル!


 涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に堪えながら、アシュビシスは美しい妖魔を睨みつけた。

「なるほど、お前に堕ちぬ魂はないのだな……ましてイングヴァルは一介の戦士、契約せずともお前ならあやつの魂を奪うなど容易だったろう。ああ、ならば、我らの『契約』は既に無に帰した事になるな」

『アシュビシスよ、戯言は止せ。我はあの男をそそのかしはしたが、魂まで奪ってはおらぬぞ』

「……やはりお前がけしかけたのではないか」

 しまった、と苦笑いをして、妖魔は香しい身体をアシュビシスにり寄せ、ねっとりと甘い唇を重ねた。

『良いではないか。既に「果ての世界」に逝ってしまった男のことなど忘れさせてやろう……』

「騙されぬぞ。お前に喰われたのなら、イングヴァルの魂が旅立てるわけがないではないか」

 

 はあっ、と呆れるように大きなため息をついて、妖魔は空中に視線を漂わせた。

『頑固な女だ……それ、まだそこに、あの男の魂が漂っておるわ。「果ての世界」に旅立つこともせずに、この世界に留まるつもりか?』

 

 イングヴァル、本当に、あなたはまだ私のそばに……?


 驚愕したまま、ラーガの指さす方に視線を向けたアシュビシスの頬を、温かい空気が包み込み、唇を優しくなぞった。


 ──あなたのために戦え。この命掛けて、あなたを守れ、と。あなたがそう望んだから。


 アシュビシスはあふれ出る涙を隠そうともせず、術師の声色で言葉を綿密に織り上げると使い魔に投げつけた。

「ラーガよ、私を抱くが良い。ただし、あの人の……イングヴァルの魂の器となれるのならば、の話だがな。ああ、変幻自在に姿を変える水妖フーアのお前でも、人の子の魂の器になるなど、所詮、無理な話であったな」


 くくっと不気味な笑い声を上げて、妖魔は女王の上衣を剥ぎ取ると、涙で潤んだ紺碧の瞳をするりと覆い隠した。

『ならば、お前の望み通り、思う存分抱いてやろう……さあ、目を閉じよ、アシュビシス』 


 その瞬間、幼い頃から慣れ親しんだ大きな手が冷え切った頰に触れ、熱い指先が涙を優しく拭い、濡れた唇の輪郭をゆっくりとなぞるのを、アシュビシスは確かに感じた。

「……ああ、イングヴァル、愛しいあなた」

 こぼれる涙を、熱い指先がまた拭い取る。

「もう一度、あなたに触れて欲しいと、あの夜も、そしてあなたを失ってからも、何度も思った」


 ──知っている。だから、そばに居ると決めた。


「でも、『安息の地』に行かなければ、あなたの魂は浄化される事もなく、永遠にこの世界に縛られてしまう……それは駄目だ、イングヴァル!」


 ──何故だ? 使い魔に魂を喰われてしまっては、あなたの魂が『安息の地』に旅立つ事もない。私一人、再びこの世界に生まれ変わったところで、あなたのいない世界など色褪せて見えるだけだ。


 聴き慣れた声が耳に心地よく、アシュビシスは思わず男の身体を強く抱きしめた。

 その手を取って、あなたの胸に飛び込んで、情欲の海に二人で溺れてしまえたら……何度そう思ったか知れない。

「お願い、今度こそ離さないで。この身体も魂も、イングヴァル、私はあなたのもの」





 深く、何度も愛し合い、疲れ果てた身体を丸めて眠るアシュビシスの目を覆っていた布を解くと、妖魔は満足そうに美しい口元を歪めて微笑んだ。

『愛する男に抱かれて満足か、アシュビシス。これで、我があの男の魂を喰ってはおらぬと確信したであろう?』

「あの、大きく心地良い手。あれは……お前の獣の手とは違う。私を抱いたのは、確かにイングヴァルだった。あの人の魂は『安息の地』で私を待ち続けるだろう」

『お前の魂は我に喰われる運命にあると言うのにな。愚かな事よ』

「そう思うだろう、ラーガ」

 アシュビシスはまだ熱のこもった身体を妖魔に絡めると、唇を近づけた。ふふっ、と夢見るような笑い声を上げた紺碧の瞳の奥に、冷たい炎が揺れる。

「人は愚かだからこそ、目に見えずとも、深く結ばれた魂の絆を信じる事が出来るのだよ」


 するり、と刃が抜かれる音がして、アシュビシスが手にしていたイングヴァルの剣が、妖魔の身体を深々と貫いた。


 何が起こったのか分からぬまま、妖魔は身体に突き刺さった長剣に目をやった。獣の瞳は怒りで赤々と燃え上がり、美しい顔が醜く歪んでいる。

『愚かな術師よ。人の子を斬る刃で我ら「魔の系譜」を滅ぼせるとでも思ったか?』

 術師の顔をしたアシュビシスが、冷たく微笑んだ。

「愚かな妖魔よ。イングヴァルがただの戦士に過ぎぬとでも思ったか? スェヴェリスの術師の護衛となる者は、優れた妖獣狩人でもあると知らなかったのか?」


 術師崩れの妖獣狩人が持つ武器が「魔の系譜」さえも斬り裂く術を施されている事を思い出した妖魔は、荒ぶる獣の咆哮を上げながら何とか刃から逃れようと次から次へと姿を変えた。炎と化した妖魔が腕を焼いても、アシュビシスはその首を斬り落とすまで剣を掴んだ手を離さなかった。

 やがて、断末魔の叫びと共に、妖魔の身体は塵となり、風に乗って消え去った。

 呪いの言葉だけを残して。

 

『アシュビシスよ、お前の腹に宿った新しい命をせいぜい愛するが良い。「罪戯れ」とは言え、愛する男の魂との契りの果てに生まれ来る子だ』



 「罪戯れ」の子。

 人の女と妖魔の間に生まれ、人の子の身体に妖魔の魂を秘めた、けがれの子。


「……愛してみせよう。我はスェヴェリスのアシュビシス。術師の王国を統べる女王なれば、女としての幸せなど決して望みはせぬ。だが、我が魂の伴侶であるイングヴァルの子なれば、その魂さえもいつくしみ救ってみせよう」


 

***



 ああ、これは……

 「罪戯れ」の我が子を救う術を編み出し「いにしえの言葉」で書き記したと伝えられるスェヴェリスの伝説の女王の物語だ。

 しかし、その書物もスェヴェリス滅亡の混乱の中、失われたはず。それさえあれば、あるいは、あの人が愛した憐れな「罪戯れ」の娘を救えたかも知れぬのに。



 女術師は水鏡に映った金色の髪の語り部の姿に、もう一度目を凝らした。小さな城塞都市の片隅で物語を聞かせる語り部の、高貴な生まれを感じさせる気品ある美しさに心惹かれ、いつの間にかその声に耳を傾けていたのだ。


「ザシュア様、朝の祈りの時間でございます」

 お付きの巫女の声に、分かった、と短く答えて水鏡から離れようとした。 

 刹那、水鏡に映る語り部の視線が、真っ直ぐこちらに向けられた。澄んだ空色の瞳に浮かぶ獣の瞳孔に気づいて、女術師は思わずその場に立ちすくんだ。


 ゆらゆらと揺れる水面の向こう側で、『魔の系譜』の瞳を持つ男が、とろけるような微笑みを浮かべてゆっくりと唇を動かした。

『スェヴェリスの巫女よ。願わくば、我ら呪われた出自の者達にも、天竜の祝福があらんことを』






✳︎冬野瞠様の「140字小説 : 06」https://kakuyomu.jp/works/1177354054882345514/episodes/1177354054882345552 からの表現を素材として使わせて頂きました。感謝致します。

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夜闇(よやみ)の薄明かり 由海(ゆうみ) @ahirun

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