贄(にえ)の姫と竜の石

 愚かしい。こんな馬鹿げた因習など間違っている。



 白い衣に身を包んだ娘は、夕闇に包まれた山の頂で、怒りに震える手をぎゅっと握ったまま、その時を待っていた。

 神託のお告げによれば、その年、オトゥール山の天竜に捧げられる「聖女」は、貧しい術師の一人娘であるウシュリアだった。


 誰もが、ウシュリアは生贄として天竜に喰われるのだと知っていた。

 それは百年前からずっと、この国で行われてきた悪しき伝統。そうすることで、山の魔物の怒りを鎮め、その年を無事に過ごすことが出来ると信じられていた。

 術師であった父は、眠るようにして命を終わらせるための秘薬を娘に与えた。

 神殿の巫女は、魂が迷わず「安息の地」へ向かうための祝福を娘に与えた。

 そんなものが自分を救うなどと、賢いウシュリアは思わなかった。 


 山のふもとの森に、一人の女術師が棲んでいた。ウシュリアの名付け親であるこの女術師は、哀れな娘が魔と対峙できるよう、護符を練りこんだ短剣を与えた。

 夜の闇に包まれた山の頂きで、ウシュリアは怒りに震える手でその短剣を握っていた。



 ばさり、ばさりと遠くから何か大きなものが夜の静けさの中を羽ばたいている。

 闇の中に、ひとつ、またひとつ、まるで灯りがともるように、獣達の燃える目が浮かび、少しずつウシュリアの方へと近づいている。

 その中で、ひときわ大きく輝く血のように赤い二つの目が娘を見据えた。暗闇の中でも、黄色く光る長い牙の生えた大きな赤い口がはっきりと見えた。ウシュリアは破魔の剣を握りしめ、切先を赤い目の獣に向けた。

『なんだ、悲鳴も上げぬのか、面白くないのう』

 ウシュリアの頭の中に太く低い声が響いた。

『今までの娘達は、恐怖に震え、泣き叫び、命だけは助けてくれと我に乞うたのに』

 ウシュリアは真っ直ぐおもてをあげて、目の前の妖獣を見つめた。

「あなた様は間違っていらっしゃる」

 妖獣はぬめぬめとよだれで光る大きな口を開けたまま、娘を睨んでいる。

『ほお? 何を言い出すかと思えば……言ってみよ、何が間違っている?』

「地上では我ら人間はあなた様を神と崇め、神殿を造り、供物を捧げ、日夜祈りを捧げているというのに、その見返りに人間の娘を喰らうとは」

『我は見返りなど求めた覚えはないぞ』

「今までこの山頂に置き去りにされ、あなた様に喰われた哀れな聖女達をよもやお忘れか?」


 妖獣はウシュリアの前から一歩も動こうとしない。相変わらず口をだらしなく開け、よだれをだらだらと垂れ流している。

『あの娘達は自らの手で運命を変えようとはしなかった。誰かに与えられた役割を受け入れ、それから逃れるために足掻くこともせず、ただ流れにまかせて身を滅ぼした。神に祈りさえすれば救われると信じてな。人間の言う神とは、すなわち我のことだと言うに……愚かなこと』

「国を思ってのことだ。聖女が生贄としてあなた様に喰われなければ、あなた様が我らの国に災いをもたらすから。百年も前から繰り返されてきたことを、ぬけぬけと」

『……ほお? どのような災いだ?』

 妖獣がぶるり、と身を震わせた。

「大切な娘を聖女として差し出さなかった母親は、代わりに妖獣の森に置き去りにされ、生きながらその身を喰われた。山から命からがら逃げ延びた聖女を追って、多くの妖獣が街になだれ込み、その街を喰いつくした。もっと知りたいか?」

『ふむ……哀れなことだ。しかし、娘よ、それらの災いに我は関与しておらぬではないか。全ては人間と、森の妖獣の手でなされたこと』

「あなた様がけしかけたのだろう? 人間も、妖獣も!」


 ばさり、ばさり、と大きな黒い影が夜空から舞い降り、怒りに燃えるウシュリアの目の前に立った。青白く光るそれは、翼の生えた美しい竜の姿をしていた。

 ウシュリアを囲んでいた妖獣達が、うやうやしくこうべを垂れて地面にひれ伏した。先ほどまでウシュリアの目の前でよだれを垂らしていた赤い口の妖獣も、しかり。

『天が定めた掟では、我ら聖魔は人の世に関わってはならぬのだ。それは、我が弟竜レンオアムがお前たち人間によって翼をもがれ、炎に焼かれた時からの決まり事だ』

 弟竜を失った悲しみで、天竜の魂は覆い尽くされていた。

 ウシュリアは驚いて、美しい天竜を見つめた。

『我は生贄など欲したことはない。愚かな神官どもが私利私欲のために作り上げた愚かな因習など、知ったことか。だが……』

 天竜はその鉤爪でがっしとウシュリアを掴むと、ふわりと夜空へ舞い上がった。

『娘、お前は面白い。与えられた運命に逆らい、その小さな身体に怒りを込めて我に立ち向かうとは……お前は分かっておるのだな。神などおらぬ、運命など、自らの手で切り開いていくべきだと。では、己自身の運命を、我の側で切り開くが良い』



 

 夜明けとともにオトゥール山にやって来た神殿の巫女達は、多くの妖獣の足跡で埋め尽くされた山の頂きで、哀れな生贄の娘の魂が「安息の地」に辿り着くようにと祈りを捧げた。


 天竜の宮殿からその様子を見ていたウシュリアは、そんな祈りなど役に立たないことを身を以て知った。

 愚かしい。こんな馬鹿げた因習など間違っている。

 なぜ人間は同じ間違いを何度も繰り返すのか。

 天竜に与えられた美しく輝く青い衣に身を包んだ娘は、怒りに震える手で地上を見下ろしていた。

 その強い心の美しさに天竜ラスエルは心惹かれ、娘を側に置き続けた。

 その美しい瞳に宿る悲しみにウシュリアは心奪われ、天竜の側に居続けた。




 何十年、何百年も、人間達は哀れな生贄をオトゥール山に置き去りにした。

 置き去りにされた娘達は、運命にあらがうことなく、泣き叫び、悲鳴をあげながら山の妖獣達の餌食となった。

 何も変わらない。人間達が自らその手で変えようとしない限り。

 聖魔は神ではないのだから。


 何十年、何百年も、人間達は聖魔である天竜に祈り続けた。どうか、この国にご加護を、と。

 王族をもしのぐ権力を手にいれた神官たちは己の欲望に身を任せて、より多くの供物を強要し、より多くの娘が聖女として神殿に捧げられるようになった。

 何も変わらない。人間達が自らの手で運命を切り開かない限り。


 天竜に愛されたウシュリアは、天竜の神官達の傲慢ごうまんさに怒り震えた。

 このままでは、愛しい天竜ラスエルは人間を喰う魔物として恐れられるだけ。

 こんなにも美しい生きものが、愚かな人間の憎悪にさらされるのを見てはいられなかった。

「愛するあなた様、どうか私を地上にお戻し下さい。もうこれ以上、哀れな民が愚かな神官達に導かれ悲しい運命を辿たどるのを、黙って見過ごすわけには参りません」

『愛しいウシュリアよ、お前とて人間ぞ。その小さな身体で何が出来るというのだ? 我の側に居れば、幾百幾千の夜を共に過ごすことが出来るのに』

「それでも行かねばなりません。地上が、私が居るべき場所なのですから」

 その強い心の美しさを愛していた天竜は、娘を止めなかった。



 ばさり、ばさり、と娘を背に乗せて夜空を羽ばたき、娘と初めて出会ったオトゥール山の頂きに降り立った。

 別れの際に、天竜は自分の胸の青い鱗を一枚引き抜いて、娘に渡した。

『これを我と思って身につけよ。必ずお前を守るだろう』

 娘が手に取ると、その鱗は美しく輝く青い石となった。

「愛しい天竜ラスエル様、私は地上からあなたを想い続けましょう。弱き心の闇に支配されず、聖魔の慈悲に依存せずとも、自らの意志で運命を切り開いていけるよう、民を導きましょう」

『愛する娘よ、我は天上からお前を想い続けよう。如何なる悪意も、我が魂の伴侶であるお前につながる者に手出し出来ぬよう、ここから永遠に見守ろう』



***



「天竜さまは、今でもその女性ひとを愛しているのかしら」 


 くるくるとよく動く青灰色の瞳を輝かせながら、赤い巻き毛をふわりと揺らして、少女は身を乗り出した。少女が動くたび、甘い花の香りが辺りに漂った。


 聞けば、母親が天竜の神殿に仕える巫女だったと言う。神に捧げられるはずの純潔を、人間の兵士によって散らされるという禁忌から生まれ出た娘。そんな出生の意味の重さなど気にもせず、夢見るようにつぶやいた。

「素敵ね、たった一人をずっと想い続けるなんて……」

 からり、と少女の左腕で銀色の腕輪が音を立てた。そこに輝く青い石から、ゆらゆらと光のもやが立ち昇り、まるで竜の鱗のようにきらきらと輝きながら少女の身体をすっぽりと覆っている。

 少女の頬がばら色に染まるのを見て、パルヴィーズは優しく微笑んだ。

「そうですね。今もこれからも、大切に想い続け、守り続けていくのでしょうね」


 遠くで兵士見習いの少年が、少女の名前を呼んで手招きしている。

 兄さま、とつぶやいて少女は立ち上がった。

「語り部さま、お話をありがとう。ごめんなさい、これしかあげられるものが無くて……」

 そう言って、パルヴィーズに甘い香りのする花束を手渡した。

「マトリカの花。お茶にすると、ぐっすり眠れるわ。語り部さまに良い夢を」


 また、少女の兄が名前を呼んだ。

 もう行かなきゃ、と言って、ぱたぱたと兄の元に走る後ろ姿を見つめながら、パルヴィーズはささやいた。


「天竜の石の加護が、あなただけを心からいつくしみ守り続ける者へと導きますように」

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