囚われの姫と嵐の王
お願い、誰でも良いから私の命を奪って。
愛する男を想いながら、シアーファは格子窓から天を見上げて祈った。
あなたなしで、私に生きろというの?
愛してもいない男の妻になって、あなたでない男に身を任せて、心を殺したままその男の血筋を残すためだけの道具になれと?
シアーファの心が、また悲痛な叫び声を上げた。
西の砦の姫として生を受けた瞬間から、シアーファは他国に嫁ぐ運命を背負っていた。
「『嫁ぐ』のではなくて、この砦を守るための
十八度目の春を迎えたその年、東の大国の年若き将軍に嫁ぐことが決まった姫は、動揺する心を抑えられずにいた。
「姫様、共に逃げましょう。あなたが他の男に抱かれるなど、考えただけで気が狂いそうだ! どうか、このまま私にあなたを
物心ついた頃から護衛として常にそばに居てくれたトゥルムといつしか愛し合うようになり、シアーファは西の砦の姫としての運命をどれだけ悔やんだことか。
「ええ、トゥルム。ずっと一緒に」
運命は、二人を見逃してはくれず。
密かに手を取り合って砦を抜け出した先の森で、あっという間に追っ手に捕らえられた。
「トゥルムよ、悪く思うなよ、姫様を連れ去ったお前を見逃す訳にはいかぬのだ」
父の護衛の一人が愛する男を斬り捨て、もう一人が首を
「私の首も刎ねよ! 私がトゥルムを
シアーファは外衣を血塗れにしながら愛する男の斬られた首を護衛の手から奪い取り、冷たくなった男の唇を温めようと何度も柔らかい唇を重ね、頬ずりした。
「ああ、トゥルム……ずっと一緒にと誓ったのに」
それから嫁ぐ日まで、砦の領主は娘を高い塔の牢に幽閉し続けた。
まるで魂をどこかに置き忘れたかのように、シアーファは言葉を紡ぐことをやめ、塔の小さな格子窓のそばに腰掛けて天を見上げ、来る日も来る日も、愛する者を奪った世界を呪い続けた。
『つまらぬ人の世など、いくら呪ったところで「果ての世界」に旅立った魂は戻っては来ぬぞ』
嵐の夜、聴き慣れぬ声に驚いてシアーファが振り向くと、いつの間にか見知らぬ長身の男が背後に立っていた。ふわりと風になびくたび宝玉のような輝きが
……誰なの?
いったいどうやって中へ?
護衛達はどうしたの?
『外の護衛にはしばらくの間、眠ってもらうことにした。案ずるな、命まで奪ってはおらぬよ』
女かと見紛う程に美しく妖艶な顔で、男は氷のように冷たく微笑むと、シアーファの腕をがっしりと掴んだ。鋭い爪の先が腕に喰い込むのを感じて、娘は小さな
『声まで失ったわけではないのだな』
闇夜に輝く星のように冷たく青い瞳で、男はシアーファを見つめた。
『お前が愛した男の魂は「果ての世界」で浄化され、すぐに新たな命を得るだろう。砦の娘よ、お前のことなどきれいさっぱり忘れてな』
男の瞳が妖しい光を増した。シアーファはその瞳孔が獣のそれのように縦長なのに気がついた。
ああ、妖魔だわ……
恐れる素振りも見せず、シアーファは青い獣の瞳を真っ直ぐ見つめ返した。
『闇の果てまで響き渡っていた叫び声を、夜風に乗って追っていたのだが……どうやら我は、お前の魂の呼び声に惹かれて
妖魔は柔らかな頬を傷つけまいとするかのように、大きな両手でシアーファの顔を優しく包み込んだ。
『娘よ、それ程に死に魅入られたか。ならば、我にその命を差し出す覚悟はあるか?』
娘はゆっくりと
『では、取引といこう。娘よ、お前の命ある限り、使い魔として片時も離れず守ってやろう。但し、命尽きたならば、お前の魂を我に寄越せ……それだけだ。良いな?」
娘は、ぞくり、と身震いすると、もう一度ゆっくりと頷いた。
「
その年の秋、豊穣の祭が行われる中、シアーファは東の大国に嫁いで行った。
夫となった男は初夜の床にも現れず、花嫁の衣装を身に着けたまま娘は夜明けを迎えた。
『お前の夫は他の女の腕の中で眠っておるぞ、シアーファ』
それで良いのよ、ヴァルグ。私を愛していない男になど、抱かれたくないわ。
『そういう訳にも行くまい。子を成さねば正妻としての立場もなかろう』
子を作るくらい、他の
シアーファは心の中でそうつぶやくと、大きな漆黒の翼に抱かれて目を閉じた。
年若い将軍は、西の砦から嫁いだ花嫁に良からぬ噂があることを耳にしていた。
「他の男の手がついた女など、誰が妻に欲すると思う? 王命でなければさっさと国に送り返しているものを」
自分との婚姻前に純潔を失った節操のない女など、汚らわしい。そんな女を正妻としてそばに置き続けるなど、耐え難い屈辱だ。東の大国の戦士として、屈辱を受け入れることなど決して出来ぬ……いや、受け入れてはならぬのだ。
将軍の心の中に、少しずつ闇が広がっていった。
夜ごと、言葉を紡がぬはずの花嫁の部屋から聴こえてくる声が将軍のものではないという噂は、やがて国王の知ることとなった。
「将軍、夫を裏切り不貞を働く妻など許すべきではない。ましてや、お前の妻は西の砦の姫であろう? 我が国に対する不貞行為とみなして首を刎ねるが良い。王命とあらば、砦の領主も文句は言えまい」
嵐の夜、シアーファは夫の手で捕らえられた。
冷たい雨が吹きすさぶ中、王城の処刑台にくくりつけられた娘は、夜明けと共に執り行われる処刑を待つ身となった。
若き将軍は、一度も顧みなかった妻の細い首を斬り落とすための長剣を手にすると、その美しく澄んだ瞳を覗き込んだ。
「瞳は魂の輝きを映すと言うが……汚れた花嫁であるはずのお前の瞳がそんなにも澄み切っているのは、何故だ?」
さあ、何故かしら?
愛する者を目の前で奪われた私を汚れた花嫁と呼ぶあなたに、分かるわけがないわ。
愛してもいない女達と床を共にすることが出来るあなたに、だれかを想う心などあるはずがないもの。
可哀想な人。
言葉を紡がぬはずの娘の瞳は、目の前にいる夫を通り越して、その背後の闇に浮かぶ黒い影を見つめていた。
「ヴァルグ、夜明けと共に、私の魂はあなたのもの。ずっと一緒に」
優しい
将軍は驚きを隠せぬまま、娘が見つめる方を振り向いた。嵐の中、悠然と漆黒の翼を広げて
『その剣はお前の妻の首を刎ねるためのものではなかったのか?』
将軍は獣のような呻き声を上げて闇色の妖魔を睨みつけた。
「妖魔め……
妖魔が美しく微笑むと、遠くで
『何のことだ、人の子よ? 我は使い魔として娘を守っていただけだ。夜闇を恐れる妻を一人残して、お前こそ数え切れぬ程の女どもをたぶらかしていたのであろう?』
くくっ、と妖しげな
「……使い魔だと? 妖魔を使い魔にする程の術をこの娘が扱えるなど、聞いてはおらぬぞ」
『人の子よ、我らを使い魔にするなど、そう難しいことではない。仕える者の魂を、代償に頂くだけのこと。この娘が命果てる時、我はその魂を
妖魔がもう一歩、将軍の方へ足を踏み出した。不思議なことに、漆黒の髪は風雨に
『東の将軍よ、我ら妖魔を使い魔とすれば、戦場での勝利など思いのままぞ。それどころか、王国さえも思うがままに動かせてみせようぞ……どうだ、我と取引をせぬか?』
……何を言っているの、ヴァルグ?
貴方は私の使い魔よ。高貴な貴方がこんな男に従うなど、絶対に駄目。
「王国さえも……それは本当か?」
将軍の心の中の闇が広がり、やがて漆黒の闇がその心を覆い尽くした。
「それは良いな……妖魔よ、汚れた娘の魂など美味いものではないだろう? 代わりに、わが使い魔となれ」
妖しい光を増す妖魔の瞳に魅入られて、将軍は心の奥底で沸き立つ欲望と激情を一気に吐き出した。
「一国の将軍などでは物足りぬ……そうだ、この王国をわが手に! この大陸にある
その叫び声に応えるかのように、轟音と共に稲光が夜闇を切り裂いた。
天の炎は燃え盛る火柱となって処刑台を包み込み、王城もろとも焼き尽くした。
大きく暖かいな漆黒の翼に包まれたまま、シアーファは黒煙を上げて燃える王城を天空から見つめていた。
「……何が起こったの、ヴァルグ?」
柔らかな唇が、妖魔の名を甘くささやく。
『見てのとおり、あの男の肉体が王城と共に燃え尽きた瞬間、約束通り、あの男の魂を使い魔として貪り喰ってやっただけだ』
「でも、どうしてそんな……?」
『ずっと一緒にと、お前が願ったから』
「それは……使い魔として、貴方が側にいて守ってくれると言ってくれたから」
ずっと一緒にと、あなたが誓ってくれたから。
『あの夜。嵐の中、嘆きに満ちた魂の声に導かれて、お前を見つけた。お前の瞳の美しい輝きを、ずっと見つめていたいと願った。だが、使い魔のままでは、我はお前の魂を喰わねばならぬのでな……あの男に、お前との魂の契約を肩代わりさせた』
嵐の中、大きな翼を羽ばたかせながら「
『愛しい娘よ、ずっと一緒に』
***
「違う……私が知るシアーファ姫の物語では、姫はトゥルムと共に捕らえられた後、首を刎ねられた。掟を破った者への見せしめとして」
長い金髪を緩やかに肩に流して、古い書物が並ぶ広間の長椅子に腰掛けたまま物語に聴き入っていた少女は、自分と同じような黄金の髪の語り部を不満そうに見つめた。
「昔語りなど、どうにでも書き変えられるものだ。見せしめとして首を刎ねておいた方が、後世への教訓にもなるだろうからな」
少女によく似た面立ちの年上の従兄が、葡萄酒の杯を掲げながら興味なさげにつぶやいた。
「語る者、聴く者が変われば、物語もその姿を変えて紡がれていきます。決められた道筋を辿らずとも、新しい道を自ら切り開いて行く事も出来るのですよ、領主殿」
黄金の髪の語り部が、
「残酷さで知られる『火竜』である事を自ら封印し、命を奪わずに戦う
幼い領主の娘は剣を握る拳に力を込めると、心に秘めていた思いを言葉にした。
「……私の代で、悪習を断ち切る事も出来るという事か? 砦の姫として生まれたからといって、望まぬ婚姻に縛られる事なく生きて行けるように」
語り部は優しく微笑むと、静かに立ち上がって旅装束を整えた。
「そろそろ行くとしましょう。私の護衛が旅支度を済ませた頃でしょうから」
少女は長椅子から立ち上がって手にしていた金色の指輪を語り部に渡すと、優雅にお辞儀をしながら、少し恥ずかしそうにささやいた。
「スェヴェリスのラウィネの子、『永遠の王』よ……帰って来てください、パルヴィーズ殿。いつまでも待っています」
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