翼ある蛇の姫
サウレは疲れ果てていた。
東の王国の軍人として戦いに出て以来、もう何日もまともに眠っていなかった。
対するは、妖魔に愛でられし南の王国。妖しげな術を操る女王に率いられた人の子とも魔ともつかぬ化け物達が、昼夜を問わず戦いを仕掛けてくる。
戦場で迎える八度目の夜。サウレは戦いの
絶望に駆られたサウレは、森の奥深くへと身を隠した。
見えぬ目で森の中を
心の奥底を震わせるような不思議な歌声。
その声がする方へと歩みを進めていたサウレが、太い木の幹のようなものに足をとられて地面に倒れ込んだ。
歌声がはたと止み、清らかな乙女の声がサウレに優しく語りかけた。
『これは戦士殿、お怪我はございませんか?』
その声は甘く心地よく、サウレはいつまでも聞いていたいと思った。
「娘さん、私は東の王国の軍人でサウレと申します。目が見えぬゆえ、あなたの姿は見えませんが、その美しい声に導かれてここまで参りました」
サウレは娘が少し微笑んだように感じた。
『サウレ様、私はこの森の精霊でメフメネと申します。お怪我をされているようですので、手当てをして差し上げましょう』
そう言うと、娘はサウレの残っている方の腕をとり、先ほど足をとられた太い幹の上にゆっくりと座らせた。
そこは不思議と温かくて柔らかく、サウレは疲れ果てた身体を横たえると見えぬ目を閉じた。
娘がまた歌い出し、まるで赤子をあやすかのようにサウレの痛む身体をゆっくりと撫で続けた。
子守唄のような優しい歌声にサウレはまどろみ、眠りに落ちた。
森の木々に見守られながら、新月の夜を迎えるまで、娘はサウレと共にいた。サウレの身体の傷は娘の優しい手で癒された。
月が丸みを帯びる頃には、二人は離れ難くなっていた。サウレの心の傷は娘への愛で満たされた。
二度目の新月の夜、燃え上がる情欲の炎に身を沈め、二人は結ばれた。
サウレには国に残してきた許嫁がいた。エムリスというその高貴な姫君は、戦が終わっても帰らぬ人を探して二人の戦士と共に森の中を彷徨った。
新月を迎えたばかりの朝、エムリスは青白く光る鱗に覆われた魔物に抱かれて眠るサウレを見つけた。
「ああ、なんということでしょう。愛しいサウレ様、目を覚まして下さい。魔物が眠っている間に逃げましょう。さあ、早く!」
その声に、サウレとメフメネが目を覚ました。
「目が見えぬゆえ、あなたの姿は見えませんが、もしや私の許嫁だったエムリス殿ですか?」
エムリスは連れの戦士に剣を抜くよう命令した。
「哀れなサウレ様。目が見えぬゆえ、そのような醜い姿の魔物に
エムリスの声は悪意に満ちていて、サウレの心を凍えさせた。
「メフメネを醜いなどと思ったことは一度もありません。この人の美しい声が、その魂の美しさの
エムリスはサウレの利き腕がない事に気がつくと、顔を歪めた。
「ああ、なんということでしょう。目も見えず、剣を持つこともままならぬ哀れなお姿になってしまわれたとは」
落胆の色で塗りつぶされたエムリスの声に、サウレは穏やかな微笑みで応えた。
「剣を持つ腕は奪われましたが、愛する者を想う心までは奪われておりません。エムリス殿、戦士達に剣を収めるよう命じて下さい」
剣を構えた二人の戦士は、じりじりとサウレの隣にいるメフメネに近づいて今にも斬りかかろうと女主人の命令を待っていた。
メフメネは愛する男を守ろうとして、鱗に覆われた温かく柔らかい身体をサウレにくるりと巻き付けた。サウレがそれを愛しそうに撫でるのを見て、嫉妬にかられたエムリスの美しい顔が醜く歪んだ。
「ああ、なんということでしょう。こんなにも醜い魔物に心を奪われるとは……そのおぞましい蛇を斬り殺しておしまい!」
戦士は虹色に輝くメフメネの美しい身体を切り刻むと、森の中に投げ捨てた。
「ああ、愛しいメフメネ、私の優しく清らかな人! あなたに比べれば、目の前にいる人間の方が醜くおぞましい」
サウレは投げ捨てられたメフメネの身体を一つ一つ大切に拾い集めると、天に向かって祈りを捧げた。
「天竜よ、どうか私を、この心優しい娘の元に行かせて下さい。地上は魔物よりも恐ろしい心を持つ人間にこそ
それを聞いた天竜がメフメネの切り刻まれた身体に息を吹きかけると、虹色の鱗に覆われた美しい姿が蘇った。
次に天竜はサウレの両眼に息を吹きかけた。
『人の子よ、メフメネを見るがよい』
サウレは光を取り戻した瞳で、青白く光る鱗を持つ蛇の娘をじっと見つめると、震える声で告げた。
「あなたの歌声は、あなたの魂の美しさ。あなたの手の温もりは、私の心の癒し。目が見えようが見えまいが、それは変わらない。愛しいメフメネ、あなたの温かく柔らかな身体にもう一度触れさせて下さい。その蜜のような甘い唇をもう一度奪わせて下さい」
サウレはメフメネをしっかりと抱きしめ、二度と離さなかった。
天竜は、愚かな人間が美しい蛇の娘に二度と手出し出来ぬよう、虹色の翼を与えた。
***
紅玉のような美しい瞳に涙を浮かべながら、小さな娘は尋ねた。
「二人は共に幸せになったのね?」
妹を膝の上に抱いていた兄が、月色の髪を優しく撫で、頬に流れる涙をそっと指で拭った。
パルヴィーズはそんな二人を見つめながら語り続けた。
「『
少女がこくり、と頷いた。その様子を見て、兄が優しく微笑んだ。
「罪戯れ」と呼ばれる娘の美しい異形の瞳を見つめながら、パルヴィーズは諭すようにささやいた。
「その瞳を恥じることはありませんよ。妖魔と人間との間に生まれた……ただそれだけの理由で、
娘は、パルヴィーズの空色の左目に、自分と同じく『獣の瞳』と忌み嫌われる縦長の瞳孔が浮いていることに気がついた。
「あなたは、あなたのメフメネを見つけたのね」
パルヴィーズは何も言わずに微笑んだ。
「いつの日か、私にも、私のサウレは現れるのかしら。こんな私でも、愛する人と共に生きたいと願う事は許されるのかしら……」
うつ向く娘の顔に月色の髪が、さらりと零れ落ちた。
「兄上はどう思う?」
さあな、と素っ気なく答えた兄が、娘の髪を優しく掻き上げて薔薇色の頬にそっと口づけた。くすぐったそうに娘が笑い声を上げる。
「兄上が居てくれれば、私はそれで良いのだけれど」
娘がそう言うと、「俺もお前が居れば、それで良い」と静かに答えて娘を抱きしめる。娘は少し眠たそうに、温かい兄の腕に身体を預けた。
いつの日か、「罪戯れ」と忌み嫌われ心を閉ざしてしまった小さな月色の娘を、心から
パルヴィーズはそうあって欲しいと願いながら、夜明け前のアンパヴァールの街を後にした。
「罪戯れ」など、人の世の愚かしい戯れ言に過ぎない。異形の者を愛したことが罪になるなど、人の世の
たとえどんな姿であろうとも、愛しい気持ちは決して変わらない。
それが真実の愛。
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