おっしゃる通りだと思いました。ファンタジーとゲームファンタジーはまったく別物ですよね。
ゲームファンタジーはRPG、オンラインその他ゲームの概念を前提に持ってきているので、「武器屋」「イベント」「チート」などという言葉が当たり前に使われて当たり前に理解されています。
一方、ファンタジーはファンタジーというそれだけで、あとは物語を作る方の知識や経験に基づく想像力なのかなと思いました。
それによりどこまでも幻想的だったり、あり得なかったり、逆にリアリティを感じさせる世界を作れるのでしょう。
どちらが良い悪いというわけではなく、ただ「ゲームファンタジー」は「ファンタジー」ジャンルの一要素ではあるけれど、その逆では決してないのですね。
個人的には、よりリアルな世界観を基盤にしたファンタジーが好みではありますが…!
昨今流行り「異世界もの」とトールキンなどに代表される「古典ファンタジー」の比較なのかと期待して読んでみたら、方向性のよく見えない批評だった。
ファンタジーの話をしているはずなのに、「歴史では」「実際には」「現実的には」と言われても、「え、何を言ってるの?」としか思えない。
作者氏の中では「ファンタジー」=「現実の中世ヨーロッパ」か何かなのだろうかと勘繰りたくもなろうというものである。
勿論、リアリティを出すために歴史や現実を反映させるのは間違っていない。しかし、それに捕らわれるのであれば、ファンタジーである必要はない。14世紀フランスを舞台にした作品でも書いていればよいのだ。
寧ろ、ウソにどれだけのリアリティを持たせられるかが書き手の腕の見せどころだろう。
そもそも、魔法や魔物が存在して神と悪魔が戦ってるような世界を、現実と同じルールで考察している時点で、前提が間違っているとしか思えない。
例えば本文中に出てくる武器屋の話一つにしても、街から街へと何日もかけて旅をする人を相手に、魔物やその他の危険から身を守るための武器や防具を売る人がいても不思議ではないと私は思う。
確かに山奥の小さな村で魔法の剣が売っていたらおかしいとは思うが、人の集まる大都市や商業都市、その周辺の街道沿いの街などならば、存在して然るべきだろう。
まさか馬車に積み荷を乗せて運ぶ商隊が、魔物や盗賊の襲撃を想定せずに丸腰で何日も旅をするとは思えない。当然それの護衛を生業とする人もいるだろうし、彼らを相手に武具を売る人がいると考えるのは「現実的」ではないのだろうか?
シナリオや演出に重きを置いた日本産コンピュータRPG(海外ではJRPGと呼称されるらしい)しか知らず、それに影響を受けた世代や作品にもの申したくなる気持ちはよくわかるのだが、どうにも論点がずれている(若しくは意図的にずらしている)ように思えた。
(ちなみに私は、本文中にも出てきた『Dungeons & Dragons』を赤箱と呼ばれる版で嗜んだ年寄りである)
気になった点を最後にもう一つ。
タイトルにも書かれ、本文中にもこれでもかと言わんばかりに出てくる「ゲームファンタジー」という言葉だが、これは一般的に使われている言葉なのだろうか?
このエッセイの根幹を成す言葉でありながら、どこにも「これこれこういう言葉ですよ」という説明や定義立てがされていないということは、そういった必要のない、読み手が共通認識として持っている言葉と思ってよいのだろうか?
残念ながら私はこの言葉を寡聞にして知らないので、おそらくこういう意味なのだろう」と類推しながら読んだので、作者氏の意図した意味と私の想像の間に乖離があったとすれば、このレビューも的外れなただのイチャモンでしかなくなってしまう。
その場合は無知無学な年寄りの戯言として容赦していただければ幸いである。
ファンタジーとゲームファンタジーを比較するのでもなく、不特定多数の作者の表現力が欠乏しているのではないかと批判を述べる作品です。私はこれを小説と言いたくもありません。
現在のファンタジー"カテゴリ"は読者の共通認識があり、その上でどのような設定を付けることが出来るか、そういった場となっています。自由に、滅多矢鱈に、独自の名称や概念を製造するものはファンタジー(カテゴリ)に含まれません。
この方の言うファンタジーとは既存の概念を全て捨てたものであり、完全オリジナルな分野になります。そのような読者への配慮も何もなく、読ませようという努力も微塵に感じない作品はそもそも人に読まれる機会もなく、広く伝わることはありません。
何せこの作品はファンタジーの基礎的な設定も明確に述べず、既存の概念を捨てろ用いるなとしか語られていません。そうすると、舞台に登場する人物や生物は独自の呼称があり、独自の生態、独自の容貌となります。少なくとも"文字"だけでは表すことは限りなく不可能に近いです。その段階でこの媒体で新たにまとめあげるものとして相応しくない歪な発想だと思います。そんなもの、あなたが脳内で好き勝手妄想すればよろしい。
何より、そのような広大な世界を一から緻密に構成し書き上げられる人、そのような面白味もなくただただ膨大な設定集を把握できる人がどれだけ居るのでしょうか。疑問に思います。
現在の在り方に疑問を呈するだけに終わり、具体的な改善策を上げることもしない不完全な批判などチラシの裏にでも書いておけ、少なくとも私はそう思い、この作品のような悪意のある捉え方を否定します。
ここまで言われても読みたいと思った方は是非読んでみてください^^作者様の面白い考えに触れることができますよ^^
ミシェル・フーコーは人間という概念が、近代的エピステーメによって発明されたものであると語る。
ここでいう人間は「現実」というあるフラットな世界の中で、「自由な意志」に基づいて行動する存在だ。
そして、フーコーは「人間」という概念が終焉を迎えたともいう。
それを実現したのは、文化人類学と精神分析学の成果によるとしている。
フーコーが文化人類学と言った場合、彼が念頭においていたのはおそらくクロード・レヴィ・ストーロースであろう。
レヴィ・ストーロースは、文化人類学のフィールドワークに構造分析という数学的手法を持ち込んだことで、有名になった。
それはある意味こうとらえることも、できる。
ひとという存在の行動を規程している「構造」が実はある。
つまりひとが自身の意志をもって行動しているとしても、その行動は数学的手法によって比較分析した結果ある種の類型的構造を抽出できるということだ。
さて、ファンタジーに話をうつそう。
ファンタジーという文学はその原型を、魔法昔話にたどっていくことができる。
この魔法昔話を構造主義的分析方法を使って解析したのが、ウラジミール・プロップだ。
彼は様々な魔法昔話を分析した結果、そこにある構造類型を抽出してみせる。
それは、加入儀礼の儀式をなぞっていると、プロップは語る。
加入儀礼の儀式は、密儀の神殿において加入者が象徴的な死と再生を受けることによって、なされる。
ファンタジーにおいて、主人公は旅に出る。
そのことによって主人公は、象徴的な死者となる。
そして彼は魔法使いの手によって恐るべき体験を経て、戦いに勝利し帰還する。
これらは、象徴的な死と再生を意味しているというのだ。
「冒険者」というものについて、考えてみよう。
JRRトールキンのLOTRに登場するアラルゴンは、言うなれば「冒険者」である。
(野伏り=レンジャーが冒険者であるかについては、もちろん色々な議論もあるだろうし乱暴な定義ではある)
彼は、何らかの組織に所属せず、出自も明確にしない。
世界の中で、浮遊する存在といってもいい。
象徴的死者とは、現実的な種々のコードから一旦切断された存在だといえるだろう。
そして彼は、魔王サウロンの軍勢に対峙した後勝利し、王位につく。
トールキンは、魔法昔話の構造にそって(おそらくは意図的に)物語を構築した。
だからアラルゴンは、冒険者として物語の中に、唐突に放りこまれなければならなかった。
剣について、考えてみたい。
剣は、ファンタジーの主人公が多くの場合手にしている。
剣は、大体において呪具であると同時に、武器である。
神話において、呪具として有名なのは、日本の草薙の剣であろう。
日本は中世において、刀狩りを行っている。
それは、刀というものが単なる武器ではなく、それを帯びるものの身分を示す象徴的な呪具でもあることを示しているとも考えられる。
さてアラルゴンは、どうだったろうか。
彼は、「折れた剣」を持って登場する。
いうまでもなく、これはゲルマン神話にも登場する重要なモチーフである。
彼は、折れた剣を再生した後に、王位につく。
剣と王位の関係を、神話は象徴的にあらわすことがある。
それは、アーサー王のエクスカリバーについても同様だと思える。
神話学者であるエリアーデは、ゲルマン世界の戦争について、生贄を神に捧げる儀式と戦いが一体化していたという。
生贄を神に捧げる役割を担うのは、ワルキューレである。
おそらくは、王族もまたその役を担っていたのではないかと思う。
生贄は、ゴールデンバッフを想定すれば、「偽王=魔王」であってもよいではないだろうか。
ファンタジーが魔法昔話を出自に持ち、それをなぞるものであれば剣の持つ役割は自ずと明かになる。
ファンタジーは、コードを持つ。
いわゆるゲーム的ファンタジーにおいてそれらは脱コード化、再コード化されたものであろう。
物語は、コードを必要とする。
わたしたちは、それを選択することが可能だ。
ファンタジーというコード。
現実というコード。
そうしたものの出自を問い、それらの意味について考え選択するのは、無意味なことではないと思っている。
武器といえば剣、旅をしながら戦うのは冒険者、冒険者をまとめるのはギルド……そんな「当たり前」に切り込んだエッセイです。
定番のイベントやアイテムは、ネット小説としては便利なものです。定番になるだけの理由がありますし、そこで作品の個性を出せればそれだけで強みになります。
しかし、それだけではあまりにも浅い。昨今では、ギルドで中堅の冒険者に絡まれる、魔力計測機で主人公が特殊な結果を出す、などの展開は忌み嫌われる風潮があります(個人の感想)が、本質的には「ギルド」「イベント」「武器屋」「冒険者」などの要素自体もそれらと同じではないでしょうか。
このエッセイでは、そういう「当たり前になってしまって誰も深く考えなくなった安易な記号化」をまとめて「ゲームファンタジー」と表現しているように思います。
ゲームファンタジーは、わかりやすさ、面白さ、という圧倒的な強みがありますが、そこに歴史や背景はありません。あるのは、これはそういうものなのだ、という暗黙の了解と開き直りだけです。
このエッセイを古典ファンタジーに毒された世代の言葉だと切り捨てるのはあまりにも愚かしい。
少なくとも、この程度の「当たり前」に「なぜ」と問いかけられない人に、読者の胸を打つ物語を書けるはずがないのですから。
先日、こんな話を見かけた。
「ファンタジー世界を舞台とする物語であっても、主人公がその世界の出身である(現実世界から転生、転移などで訪れた人物ではない)場合、『異世界ファンタジー』とは呼ばない」
最初に目にした時はそれこそ「???」となったものだが、「主人公が現代人としての目線を持っているからこそ、その世界を『異世界』と呼ぶのだ」と言われれば、納得せざるを得ない。
ただ、やはりどうしても感情的に納得しづらいというか、腑に落ちない部分があった。
おそらくは、それが筆者・林檎無双氏の挙げる『ゲームファンタジーしか知らない』世代との価値観の相違なのだろう。
web小説において『異世界転生もの』や『MMORPGもの』が繁栄を極める中、転生する手段、転生先の世界観、MMORPGのゲームシステムなどは、ゲームによくあるシステムや設定を用いて形骸化されているように感じる。
林檎無双氏がこれを問題視し、警鐘を鳴らし、疑問を呼び掛けている理由は、
ひとつの異世界を表現するにはあまりに力不足である『コンピューターRPG』でファンタジー世界を表現するために生まれた数々の仕組み(イベント、武器屋、ギルドなど)を、『小説』という媒体でそのまま模倣する必要があるのか?
ということだろう。
ただ、これについては安易に肯定も否定もできない。
ひとつの物語が生まれる上での仕組みには、必ず何かしらの意味があると思うためだ。
ここからは、web小説における『異世界転生もの』を例に挙げて書いていく。
トラックに轢かれて異世界に転生する――そんな一連の様式美が何故生まれたのか?
それはおそらく「ここ(現代社会)ではないどこかで大活躍したい!」という欲求を多くの人々が抱いていたためだと思われる。
もっとも、この欲求自体は決して批判されるものではない。むしろ、娯楽作品を楽しむ上では、ごく普通の感情だろう。
なら、どうして転生先の異世界がコンピューターRPGのルールを基調として構築されているのか。
それは、分かりやすいからだ。
D&Dと、そこから派生した多くのコンピューターRPG――『ゲーム』が生まれて、もう何十年も経つ。
年月を経るごとにゲームは万人に愛されるものへと変化し、ゲームもまた万人に愛されるために様々な進化を遂げてきた。
ひとつのゲームが生み出した分かりやすいシステムが、後のゲームに引き継がれていく。そうして作り上げられたものが『よくあるゲームシステム』、つまり異世界転生ものに多用される各種の概念だ。
コンシューマーゲームやソーシャルゲーム、ブラウザゲーム。ゲームを遊ぶための媒体は多く、大きく、広い。
そんな中、誰もがゲームを楽しむために最適化されたシステムが、誰にでも分かりやすく作られているのは、至極真っ当なことだろう。
異世界ファンタジーには、『分かりづらい』という側面がある。現実世界とのルールの違いを念頭に置いて読み進めなければならないためだ。
しかし、そこに『ゲーム』で作られたルールを導入することで、理解するための難易度はぐんと下がる。
「ここ(現代社会)ではないどこかで大活躍したい!」
「現代から転移した先の異世界で、どんな風に活躍するか?」
異世界転生もののweb小説でもっとも重要視されるのは、おそらくこの2点。
だとすれば、その活躍方法をわかりやすく描くための手段が、万人に理解されやすいゲームシステムであった、ということなのだろう。
つまり、ゲームファンタジー風の異世界というのは、物語を動かすための『手段』であって、それ以上の理由は存在しないのだ。
とはいえ、林檎無双氏の「ゲームファンタジーは人間が本来持つ想像力を阻害する可能性がある」という問題提起について、私はうんうん頷きたいくらい共感できる。
やはりこれも先日の話なのだが、「異世界に行ったって太陽と月は昇るし世界は丸いんだから、いい加減に異世界転生に夢を見るのは止めろ」という旨の発言を見かけたのだった。
……えっ、世界が平らで、端っこから水が滝のようにじゃぶじゃぶ流れている異世界とか、存在しないの!?
衝撃的だった。少なくとも、私にとっては。
世界が平らであっても、何らかの理由があれば太陽と月は運行するし、夜空の星は瞬く。たとえ現実的にはあり得ない、突拍子もない理由であってもだ。
それこそがファンタジーの魅力であると、私は常々思っている。
ただ、現在流行している『異世界転生もの』を好む読者にとって、それらの要素は不要なのだろう。
転生した先がどんなファンタジー世界なのか――そういった想像は、彼らの期待する娯楽には結びつかない。
つまり、『ゲームファンタジー』を用いた小説は、林檎無双氏が想定する『ファンタジー』小説とはまったくの別物なのだ。
とはいえ、旧来の『ファンタジー』小説であっても、娯楽作品である場合は、その時代の空気を反映したり、需要に合致するものが作られていたことは間違いない。
(私は『スペルシンガー・サーガ』のドラッグ描写と敵の昆虫がどうしても受け付けず、読了できなかった人間だ)
願わくば、林檎無双氏の文章に込められた問題提起が、ゲームファンタジーを含めたあらゆる『ファンタジー』を愛する人々にとって、意味あるものになりますよう。
長文失礼いたしました。