愛玩生体人形『片眼のリンネ』(2)

 コギトの仕事は、黒メイドを売ることだった。かれの持つ狭い店にはいつだって、十体は下らない黒メイドが陳列されている。そのどれもが、絶世の美少女ばかりだ。客の欲望をみたすのに、じゅうぶんなほどの。

 そのなかにあって、片眼のリンネは、どうしたって見劣りした。ほかの黒メイドたちが美しく瑞々しい色香を放っているのに比し、リンネは痩せこけ、表情も陰気で、なにより片方の眼には不吉な雰囲気を醸す眼帯を巻いている。

 中古の傷物――この手のB級品には本来、まともな値段はもうつかない。黒メイドは所有者の独占欲を満たすべき存在だからだ。

 黒メイドという呼称はいまでは一般的になっているものの、その語源は定かではない。身につけているメイド服の色が黒いからなのか、登場当時の呼称であった複製処女clone maidenが略されたのか、それとも、男たちの黒い欲望の捌け口となる存在だからなのか――いずれにせよ、黒メイドの登場は、十年前に遡る。

 当時、フェミニスト団体の猛烈なバック・アップを受け、初めての女性首相が誕生した。彼女の名まえは子宮陽子こみや ようこ。歴史をふり返るまでもなく、オールド・ミスが政治に関わって、社会に益した試しはない。彼女らはとどのつまり、社会全体をみずからの不幸の道連れにすることしか考えてはいないのだから。

 子宮女史も例外ではなく、就任早々、国を揺るがすような大胆な政策を打ち出した。性売買根絶特別法――性の売り買いを女性への冒涜と位置づけ、男性の圧制に屈する哀れな性奴隷たちを解放することなくして先進国への礎なしと、セックス産業を含む売買春の徹底根絶に乗り出したのである。これまで黙認されていた娼家は残らず取り締りの対象となり、おびただしい数の売春婦たちが路頭に迷うことになった。セックス産業従事者数の正確な統計というものはこれまで取られたことはないが、その年の自殺者は、七五〇〇〇人を大きく超えることになる。

 それまで淫靡さを売り物にしていた繁華街は一夜にして不健全な清潔感に塗り潰された。一方で、その路地裏では強姦や婦女暴行などの性犯罪が軒並み増加し、治安は大いに悪化した。国民たちの不満と不安が爆発し、政府は新たな対策を練るほかない状況にと追いやられたのである。

 世界は奴隷ぬきでは一秒たりとも成立しない――奴隷の解放は、新たな奴隷を生むだけだ。苦肉の策として開発されたのが、のちに黒メイドと呼ばれる人造少女たちだった。当世を代表するアイドルやファッション・モデルから細胞を抽出し、クローニングによりまったく同一の美貌を持つ複製を大量生産、それらを製品化して一般家庭用に売り出したのである。むろん、クローンが人間そのままでは倫理上問題があるため、黒メイドたちの遺伝子には若干の修正が加えられた。彼女たちはいわば遺伝子工学的なロボトミーにより大脳機能の殆どを生来失っており、ひたすら従順で穏やかな性質を付与された――言い換えれば、人工の白痴である。学習により簡単な給仕はかろうじてこなせるが、人語は理解できないし、原始的な三大欲求があるだけで、知性や人格などは持ち得ない――開発者たちは、得意げにそう説明した。だからあくまでこれは人間ではなく、給仕用の愛玩動物、あるいは観賞用の生体人形である、と――もちろんそれはいつの時代にもある行政特有の建前で、実質の用途はこの世でもっとも精巧な生きたダッチ・ワイフであったことはいうまでもない。

「リンネ、しんきくさい顔はやめて、すこし笑えないかね? 笑えばおまえもかわいいと思うんだがな」

 コギトはリンネの背後に立ち、精密な手つきでシザーを操りながらそういった。かれが素早く指先を動かすたび、リンネの黒髪が宙を舞う。リンネはその間、震える眼差しを、虚空に向け続けるだけだ。リンネに限らず、黒メイドはきまって鋭く光るシザーに怯えて髪を切られるのを嫌がりはするが、手枷足枷をつけられた状態では、逃げることさえも叶わない。

 コギトはシザーをロールブラシに持ち替え、カットしたリンネの髪を繊細な手つきで内巻きに仕上げ、満足げに「よし」と頷く。

「綺麗だ――おまえはとっても美人だよ、リンネ。自信を持てよ。じぶんもきっと売れるってさ。ほら……」

 リンネの髪にフリルのついたカチューシャを飾り、仕上がりを手鏡でみせながら、コギトはそう呼びかけた。

 しかし、黒メイドは憐れみを誘う片眼の視線のほかには、なにも答えない。いや、答えられない。

 コギトの言葉は慰めではないし、気休めでもない。リンネだって、十年前、人気の絶頂にあった映画女優、有栖川マリーの細胞から量産された黒メイドなのだ。もともとは愛らしく、明朗な性格なのである。現に発売当時は大勢の金持ちどもが好んでリンネを買い漁った。正規品はあまりにも高額であるために、正規品の細胞からさらにコピーされた海賊版が闇市場に大量に出回り、大勢の独身男性を満足させた。黒メイドに人格はなかったが、それについての不満はひとつも聞かれなかった。女というものにはもともと人格などないに等しく、あったとしても、むしろないほうがいいような人格ばかりだったからである。

 ただ、黒メイドはこの上なく刺激が強い商品であるがゆえに、消費者から飽きられるのもまた、早かった。新たな型の黒メイドが発売されるにつれ、数年後には何千体ものリンネが中古市場に流出することになる。

 しかし、幸いにも彼女らの不幸も長くは続かなかった。黒メイドは成人体細胞の核から作られるため、正常生殖から生まれる同年齢の人間よりも染色体末端部のテロメアが短く、細胞分裂できる回数が少ない。また、量産の過程で脳下垂体を刺激して不自然な速度の成長を促すことやヒトクローン技術がまだ不安定なこともあり、遺伝子上の欠陥エラーが多く、耐用年数――すなわち寿命はわずか五年ほどなのである。

 片眼のリンネに至っては、正規品ではないので、あとどれぐらい生きられるのか、黒メイド売りであるコギトにさえ、見当もつかない。クローンのクローンとなれば、寿命は当然、さらに短くなる。

「さっさと金に換わってくれねえと、大損だぜ。これまでの餌代もばかにならねえんだ。よう、高く売れてくれよ、リンネ。うんと高くだ」

 コギトはやさしくそう囁きながら、リンネのメイクに作業を移した。リンネの肌色に合わせて特別に調合したコンシーラで、眼の下のくまを手品のように隠していく。アイシャドーブラシの扱いに至っては、もはや人体をキャンバスにした芸術家の如き手並みである。

 黒メイドを美しく魅せるのは、コギトの仕事のなかで最も重要なもののひとつだ。コギトは美容師の免許も持っているし、メイクに関する修行もひととおり積んだ。洋裁についても同様で、じっさい、メイド服はすべてかれがデザインと縫製を手がけている。すべては黒メイドを高く売るために身につけた技術だ。コギトが相場よりも高い値段で黒メイド売りの商売を続けられる理由はそこにあった。けっきょくのところ、美しさだけが、この世の正義なのだから。

 繊細なマスカラによる仕上げで、リンネの右眼はみるみる美しさを増していく。しかし、右眼が美しさを増すごとに、皮肉なことに左眼の傷のその悲しさもまた、さらに色濃く際立っていく。

 コギトは憂鬱の溜息を吐いた。黒メイド売りのコギトにとって、もっとも悲しいのは、どうしてもそのなかで売れ残りが出てくることだ。客のだれもが、もっとも美しくもっとも健康な黒メイドを買いたがる。だから、選りすぐりの美少女たちのクローンである黒メイドたちのなかでさえ、どうしたって人気の格差が生まれる。だれからも愛され、だれからも望まれる黒メイドたちがいる一方で、その格差を眼の当たりにするだけの売れ残る黒メイドたちがいる。生まれながらのロボトミーで知性を奪われているとはいえ、売れ残った黒メイドたちは、あきらかに寂しげな表情を浮かべている。おそらく、それは本能なのだ。じぶんが選ばれなかったことに、じぶんがだれかにとって特別な存在でないことに絶望を覚えるのは、生物の、もっとも根源的な、悲しい本能。

 センチな気持ちになるべきではない。黒メイドは、おれにとってあくまで商品だ。コギトはじぶんにそういい聞かせてきた。しかしそれでも、どうしたっていい気分はしなかった。売れなかった黒メイドたちが、だれからも愛される経験を持たないまま、孤独にその短い花を散らしていくさまを眼の当たりにするのは。――

 そのときだった。

 店のドアが軋む音がした。

 リンネがびくりとその身を竦ませた。

 薄暗く黴臭い店内に、押し入るように明るい陽射しが差しこんだ。

 舞い上がる埃が、きらきらとそれに応える。

 コギトは光を厭いながら、顔を上げた。

 客がひとり、そこに立っている。

 初めてみる客だった。いつもやって来るのはブランド品で着飾ったいやみな金持ちだけだったが――その客が身に着けているのは、すり切れた上着にぼろぼろの靴、シャツに至っては、もう何日も洗っていないようにみえる。なにより、その容貌は、醜かった。血走った両眼は濁り、狂気すら帯びているようだ。こけた頬にはまるで黴のような髭がびっしりとひしめき、白髪まじりの薄い髪は、脂にまみれて額にへばりついている。

 まるで砂漠の遭難者のような風貌――しかし、醜さのなか、どこか気品と知性が覗くその眼に、コギトは見覚えがあるような気がした。

「リンネ……という黒メイドを探している」客はそういった。「十年前の黒メイドだ。最初期型の」

 しばしの沈黙ののち、コギトはふんと鼻で嗤った。

「探しものがあんたの眼の前にあるってことにも気づかないかい? この娘がリンネだぜ、旦那」

 その言葉に、客は表情をこわばらせた。力なく歩み寄り、顔を近づけ、メイクを終えたばかりのリンネの顔をまじまじと眺める。そして、リンネの頬に、その汚れた指先でそっと触れた。

「これが……リンネか。この娘が……」

 客の指はリンネの頬を這うように撫でる。まるでリンネの存在を確かめるように。まるで、なにかの幻影を前にしているかのように。

「おいおい。レディーに対して失礼だぜ。ま、だいぶ変わり果てているから、わからないのも無理はないが」

 コギトが不愉快そうに咎めると、客はわれに返ったようにリンネから手を離した。

「百万ある」

 客はそう口走り、懐からすり切れた札束を出すと、それを床に投げてよこした。白い埃が、濛々と店に舞い上がる。

「この黒メイドを、わたしに売ってくれ」

「冗談だろう」コギトはその金を拾わずに答えた。「百万じゃあぜんぜん足りない。あんた、この娘の値札がみえないのか?」

「これがわたしの全財産だ。頼む、この娘の手枷足枷をはずしてやってくれ。痛がっているじゃないか。これは虐待だ。法律で決まっているはずだ――黒メイドを不当に拘束してはならないと」

「法律なんて知らんよ」コギトはくっく、と小さく笑った。「もともと黒メイドの非正規品の商売は、法の外の仕事なんだ。あんたもそれを買おうってからには、法の外の人間なんだぜ」

「法に従わないというのなら」客は決然といった。「良心に従え」

 コギトは笑みを崩し、眉間に皺を寄せる。

 客の右手には、古ぼけた小型の自動拳銃が握られていた。寸詰まりのデザインはまるで玩具のようにみえるが、その鈍く光る短い銃身は、まぎれもない本物の重量感を湛えていた。人を殺せる道具だけが持つ、悪意を閉じこめたかのような特有の重み。

「ワルサーPPKか」コギトは忌々しげにそう呼んだ。「驚いたな、そんな骨董品で、いったいなにをする気だい?」

「メンテナンスは万全だ。引き金を引けば、もう減らず口も叩けない」

 銃を構え、客は凄んだ。ハゲタカのようなその眼は、血走りながら、爛々と光っている。

「やれやれ、良心に従うのはあんたのほうだ。強盗だぜ、それは」

 コギトはあきらめたように両手を挙げた。

 客は銃を構えたままコギトに詰め寄る。

「あんたがやってるのは法の外の商売なんだろう? それならば、法の外で殺されるのも、覚悟の上のはずだ」

「たしかに覚悟はしてたがね、それでもいざその当日となると、あんまりいい気分はしないもんだよ、旦那」

 客は厳しい表情を、微塵も崩そうとはしない。

「わたしとて、手荒なまねはしたくはない。おとなしく百万でその黒メイドを売ってくれ。それでも相場よりは、はるかに高い値段のはずだ。さあ、その娘を早く鎖から解放してやるんだ。そんな痛ましい姿は、みていられない」

 客はゆっくりとコギトの頭部に狙いを定めた。

「ああ、ああ、わかった。わかったよ。くそが、きょうは厄日だね。まいにち似たようなもんだけどよ」

 コギトはきこえよがしに溜息を漏らした。かれがリンネを解放すべく手枷の革ベルトに手をかけると、ようやく客は満足げに笑った。

 コギトは、客の笑みを睨みつけながら、ぼそりと言葉を吐き出した。

「あんたは、なにもわかっちゃいない」

「なんだと?」

 続けてなにかいいかけた客は「うっ」と声を漏らして口をつぐんだ。

 革ベルトから解き放たれたリンネの細い左手首に、深く、大きな切り傷をみつけたからである。まるで虎目のレス・ポールのように、赤く鋭い線がいくつも並んで刻みつけられている。傷が治癒する前に、さらにその上を切ったのであろう、もはや傷口はどろどろのケロイド状となり、その白い柔肌に刻まれた傷跡は、生涯消えることはないだろうと思われた。

「これは……いったい?」

 痛みに顔を歪ませながら、客はコギトに問う。

「この娘はな、ほうっておくと、すぐにじぶんの手首に傷をつけるんだ。だからおれだって、したくもない拘束をしなけりゃならねえ。もし野放しにしていたら、どうなると思う? この娘はじぶんの手首が切断されるまで、じぶんを傷つけ続けるだろうぜ」

 顔を蒼くしながら、客はなにも答えなかった。いや、なにもいえなかったのにちがいない。

 コギトはふうと息をつき、客の顔を見上げた。そして感情を押し殺すような声で、そっと言葉をついだ。

「旦那。あんたにこの娘の眼帯の下を覗く勇気があるかね?」

 コギトはリンネの左眼を覆う白い眼帯に、そっと手をかけた。

 リンネは顔を蒼くした。しかし、彼女の口を塞ぐボールギャグは、怯えの悲鳴すらも許さない。

「……いったい、なんだというんだ?」

 客はごくりと唾をのんだ。

 コギトはにやりと不敵に嗤った。

「どんな主人であれ、売れないよりは幸せだったかもしれん……。だれにも愛されず、必要とされないよりは。この娘の以前の主人はな、富豪の四つ子だった。かれらは四兄弟で、子ども向けの大手玩具会社を経営していた。ひとりが社長。ひとりが副社長。ひとりが会計士を務め、もうひとりが弁護士さ。ふつう、兄弟で役職がちがえば、いざこざも起きるだろう。しかし、かれらはそうじゃなかった。互いの絆と信頼を深め合うためのがあったからさ」

「儀式だと……?」

「絆を深め合うのにいちばん手っとり早い方法はなんだと思うね?」コギトは客にひとさし指を突きつけた。「だよ。かれらには共通の異常な性癖があったんだ――四人で同時にひとりの女を犯す、というね」

 客は不快そうに顔を歪ませた。コギトは、構うことなく言葉をつぐ。

「セックスで恋人同士の絆が深まるというのなら、ひとりの黒メイドを兄弟で犯すというのもまた然り、じゃないかね? それは秘密の共有であり、互いへの愛情と信頼の証明さ。しかしね、ひとりの黒メイドが四人の相手を同時にできると思うかね? 膣、口、アナル――同時に受け入れられるのは三本までさ、ふつうはな。。いったいどうしたと思うね?」

 客は答えなかった。ただ、顔を蒼白にしながら震えていた。

 答えがわかりつつも、

 客の理解を助けてやるために、コギトはリンネの眼帯をそっとめくった。ボールギャグの隙間から、悲痛に響く嗚咽が漏れ響く。

 客は片眼をきつく閉じた。リンネの眼帯の下――眼をそむけたくなるような、深く大きな傷が、そこにあった。鋭く大きな刃物でつけられた、惨たらしい傷痕。美しく愛らしい少女の顔に刻まれた、生涯消えぬ穢らわしい陵辱の烙印。

そこに眼球はなかった。ただ、痛々しくぽっかりと開いた眼窩のなかに、赤くひくひくと充血した粘膜が蠢いているだけだった。

――これがこの娘の、だ」

 客は銃を構えながら、呼吸を乱し、歯を食いしばっていた。

 コギトは理不尽への怒りに顔を歪め、声を一段、さらに荒げる。

「何度も何度もくりかえしくりかえし、この娘は犯された。四つの穴を、同時にね。その儀式が続けられている以上、四つ子の会社の利益も上がり続けた。そして会社が玩具業界シェア一位の座を獲得する頃、この娘は捨てられた。すんでのところで廃棄処分になるところを、おれが店に引きとったというわけだ」

 コギトは小さく息をつき、そして客を睨みつけた。それは銃の威力にもまさる、凄みを持った眼光だった。

「あんたにあるのか。無垢だった躰を何度も穢され、美しい顔に醜い傷をつけられたこの娘を引きとる覚悟が。この娘は主人どもの気まぐれで傷つけられてきた――ずっと。だけど、この娘は主人が悪いってことさえ理解できない。こんな痛みに晒されるのは、じぶんがなにか悪いことをしたから罰を受けているのだとしか考えられない。だから、いまになっても自傷行為が治まらないんだ。いまも彼女は、じぶん自身を罰し続けているんだ。この娘は手がかかる。いつだってそばにいて、気にかけてやらなければならない。そうしなければ、この娘は過去の痛みを思い出すたびに、じぶんを傷つけ続けるだろう。そのたびに、何度だっていってやらなくちゃならん。きみは悪くないんだと。なにも悪くないんだと! おれは二度と、この娘に悲しい思いはさせたくない。残り少ない寿命を、やさしい主人に愛されながら迎えさせてやりたい。この値札が暴利だと? これはこの娘を引きとる覚悟の値段だ! 傷物だからって安く買われて、安く扱われてたまるものか! いいか、おれは、この娘を悲しい思いのまんま死なせる気だけは毛頭ない。あんたに、その覚悟があるってのか!」

 すべてを吐き出したコギトは、客を睨みつけたまま、ふうふうと息を乱していた。柄にもなくむきになって、心臓が激しく脈打っている。かれはそんなみっともないじぶんの姿を恥じた。だけど、これは、かかなければならない類の恥だ――そう思った。

 沈黙が生ぬるい風のように流れた。睨み合っていた客が、そっと視線を下げた。そして、それを追うように、かれが持つワルサーPPKの銃口も下がった。

 コギトは眼を見開いた――、

 客が、泣いていたのだ。

 狂気を湛えていた濁った両の眼から大粒の涙を流し、嗚咽を漏らしながら、かれは、たしかに、泣いていたのである。

「――妻が死んだんだ」

 客は銃を床に落とし、噛みしめるように、そういった。

「妻の名は――有栖川マリー」

「有栖川……マリーだって?」コギトはその名をくり返した。「まさか、それは……」

「そう」答える客の躰は震えていた。「リンネの原型となった女だ」

 客はそっと顔を上げた。そして、涙を手の甲で拭い、ゆっくりと、かれのその呪われた身の上を語り始めた。(続く)

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