実験室の悪夢

 火葬場の炉のように暗く狭い密室のなか、ふたりはいた。背後で鉄製の扉が閉まり、淀んだ空気が熱病やみのように震える。

 へやの両脇には鉄製のケージが並べられ、夥しい数の獣たちが、口々に唸りをあげている。かれらの姿は闇にまぎれみえない。ただ、無数の眼が、星のように爛々と光っている。実験台として殺されるためだけに繁殖させられた、犬、猫、猿、兎、ラット――むだな足掻きと知りながらケージに爪をたて、痛ましい金属音を鳴らしつづけるその憐れなさまは、さながら中世の精神病院のようだ。

 旭日あさひさくらは、おそるおそる歩を進める。雨にしけた靴音が床に響いた。むせ返るような悪臭に、思わず旭日は童顔をゆがめる。

「ひどい臭いですね。ここの実験動物たち、どうやら糞尿の始末さえしてもらってないらしい」

「それだけじゃねえな」

 旭日の後方に陣どる強面、南部なんぶ謙十郎けんじゅうろうは注意深く辺りを見まわし、ゆっくりと鼻を鳴らす。

「こいつは屍臭だ……実験動物の屍骸が、そのまま捨て置かれているらしい」

「屍臭……」

 旭日は嘔気を覚えた。だけど、いくら新米とはいえ、これしきのことで逃げ腰になっていてはこの仕事は勤まらない。

 脂汗を手の甲で拭い、壁をそっと手でさぐる。

「早く灯りをつけろ。暗くてかなわねえ」

「そいつがですねえ」スイッチを何度も鳴らしながら、旭日は舌打ちする。「つきゃしませんね、どうも。照明が、いかれちまってるらしい」

 ふん――と南部は鼻を鳴らした。

「ここの管理人と、おなじってわけだ」


 ――なんの用だ……?


 しわがれた声が、室の奥から答えた。

 旭日は闇のなか、必死に眼を凝らす。

 ケージのなかの猿が、人間そっくりの悲鳴を上げた。ラットたちが狂ったように駆けまわり、でたらめな合奏のような金属音が室に鳴り響く。

「ぼくらは警察の者です」旭日は闇のなか警察手帳を掲げ――その滑稽さに咳ばらいをした。「鉤十字かぎじゅうじ博士に、会いに来ました」


 ――鉤十字は、わたしだ。


 闇に潜む、その姿はみえない。咽喉のどを病んだような妙な声だが、歳は若いはずである。

 鉤十字四郎かぎじゅうじ しろう、二十八歳。T大学病院院長を父に持ち、生体臓器移植に関する研究論文で医学博士号を取得。若くして、外科執刀医としての国際的評価も高い。エブスタイン奇形など数種の先天性心臓疾患を併発したコソボの戦災孤児を日本に迎え入れ無償で治療を提供したことがマスコミに報じられ、一躍、その名を知らしめた。

「悪魔が仕掛けた知恵の輪」とまで呼ばれた高難度の手術を、みごとやり遂げたにも拘わらず、驕ることもなく見返りも求めない奥ゆかしい人柄は、視聴者から絶大な支持を得た。一介の医師でありながら、熱烈な女性ファンも数多い。むろん、その繊細美麗、気品に満ちた風貌によるところも大きいだろうが。

 旭日は溜息をついた。ここまで完璧な人間を前にすると、もはや僻む気にもなれない。

「鉤十字先生よ」

 南部が一歩、前に出た。頼もしげな背中が、視界を乱暴に遮る。

「マスコミにゃ好意的に取りあげられてるが、近所での評判はよくねえようだな。苦情が出てますよ……動物たちが劣悪な環境で飼育されていて可哀想だってね。それに近所の人間、みんな怖がってるようなんだ――あんたがなにやら得体の知れない研究をしている、というんだよ。先生、教えてくれないか……、あんた、いったい、なんの研究をやってるんだ?」

 闇に隔てられた先、鉤十字博士は抑揚のない口調で答える。

 

 ――動物実験室というのはたいてい近隣住民から気味悪がられ、勝手な噂をたてられるもの。動物が可哀想だって? 結構、立派な心がけだ。では、新薬をいきなり人間で試すかね? 現実的な問題として、医薬品開発、先端医療研究は動物実験なしには成立しない。無知で身勝手な大衆は、手を汚す仕事は研究者に押しつけ、その恩恵だけを平気でさらっていく。感情論で研究者を悪と定め、それを糾弾するじぶんたちは善という、単純な二元論でしか物事を捉えられないのだ。まさしく低劣、低能、愚の極み……。


 奇妙な話し方だった。言葉は諧謔的だが、そのしわがれ声は、いっさい感情を含んでいない。

 憤りもない。不機嫌さもない。言葉と声とが、まったく剥離している。

 やはりそうだ――旭日はじぶんの違和感が正しかったことを理解した。テレビで観た鉤十字博士の対応は、奥ゆかしいというより、人間的な感情が感じられない、というのが旭日の印象だった。人ひとりを救ったのだ、だのにちらとも笑顔をみせないその態度は、高潔というよりもむしろ薄気味が悪かった。なにを企んでいる? なにを考えている? 真意がまったく読みとれない。それをテレビや新聞が好意的に曲解して報道するのも、どうにも釈然としなかった――映像や記事を売るには、そのほうが都合がよかったのだろうが。


 ――いずれにせよ――だ。現行の動物愛護法に実験動物の飼育に関する規定はない。何人たりと、わたしの実験を止める権利などないのだ。違法性がないのに、わざわざ刑事がふたりも来るまい? ――そうだな? 


「こりゃ手ごわい」南部は短く刈った頭をぴしゃりと叩いた。「これだからインテリを相手にするのは嫌なんだ」

 南部の「代われ」という合図に、旭日はおずおずと話を引きとる。

友田安音ゆうだ あんねさんを、ご存知ですね?」

 博士は答えない。闇のなか、白衣だけが、揺れるようにうっすら青白く光っている。

「この大学病院に入院していた患者さんです――昨夜、亡くなられました」

 博士は鼻を鳴らした。


 ――なにかのまちがいだろう。元気だよ、彼女はね。たしかに、彼女は胃癌を患っていた。だが、きょう明日に死ぬという容態ではなかった。


「いえ、たいへん申し上げにくいのですが」

 旭日はごくりと唾を呑む。

「他殺なんです。安音さんはいったん退院し、自宅療養することになっていた。淡々と手続きを済ませたそうです。ほどなくご両親が迎えにやってきた。しかし病室にはすでに安音さんの姿はない。行きちがいになったのか? 病院内にまだいるのか? ちょっとした騒ぎになったそうですが、彼女は癌患者です、体力も衰えている。そうそう病院から遠出できるわけないだろう――だれもがそう考えていた矢先、彼女は死体でみつかった。病院の外で。無惨な死体でした。なんと申し上げればいいのか――」

 ふいにケージのなかの猿たちが、狂ったように自分の躰を掻き毟った。皮膚が裂け血が飛び散る音が、闇のなかに不気味に響いた。

暗黒のなか、黒猫が啼く。なにかの痛みに堪えているかのような、悲痛な声だった。

 窓を叩く雨音は、しだいに激しさを増している。だが、この実験室にいるよりは土砂降りの雨のなかのほうが、かれらにとっていくらか住みよいように思われた。


 ――無惨な死体……というと?


 答えづらそうな旭日を見かね、南部がふたたび割って入った。

「全身をバラバラにされてな、ポリ袋に入れられて捨てられていたんだ。全部で二十四箇所に解体されていた。監察医がホトケさんをプラモデルみたいに組み立てていたよ。綺麗に切断されていたから組み立てるのには苦労はなかったそうだ、ただねえ――」

 実験室を埋め尽くす動物たちも、まるで話にきき入るように、一斉に声を潜める。

 南部は自分の頭をこつこつと指で叩いた。

「首だけがみつからなかったんだ」


 ――首……。


「むろん、死体発見現場付近はくまなく捜索した。だけど被害者(ガイシャ)の頭部だけ、どうしてもみつからない……犯人が持ち去ったとしか、考えられないわけだ。死体は綺麗に洗浄されていた。手がかりになるような付着物も残されていなかった。DNA鑑定の結果、死体が安音さんのものであることだけははっきりしているが――」

 ふいに、窓の外が刺すように光った。

 青い稲妻が、轟音とともに、実験室の闇を切り裂く。

 旭日は首をかしげた――眼のまえに浮かび上がった奇妙な光景――それがなんなのか、すぐにはわからなかった。

 実験台の中央――指紋にまみれたアクリル・ケースが置かれている。

 そのなかに、握りこぶしほどの肉塊が転がっていた。

 なんだ――これは?

 本能的な、嫌な雰囲気を感じとった。

 青灰色の毛に覆われたそれには、電極やチューブが、何本も挿しこまれていた。肉塊の裂け目には、なにか白いものが光っている。

 裂け目?――

 だ――。

 旭日はひっ――と声を上げた。心臓を、掴まれた気分だった。

 ――

 おそらくまだ仔猫であろう、。震えるように、痙攣するように、痛み、苦しみ、悶えるように。

 虚ろな表情だった。口吻からは涎が垂れている。その眼をまばたきさせながら。稲光に反応し、緑色の瞳孔が狭く閉じていくのがわかった。

 そして猫の生首は顔を歪め、と声を振り絞って力のかぎり啼いた。

 ふたたび闇が実験室を呑みこむ――この世ならぬ、一瞬の悪夢に幕が下りた。

 震えた声は、もはやだれのものともわからない。呼吸がどんどん荒く乱れる。

旭日は新米警官である。刑事課に配属されてから、二年も経っていない。その短い期間ですら、正視できないような凄惨な現場に幾度となく遭遇してきた。公営住宅の一室を埋め尽くした子どもの死体の山――教師・生徒、そのすべてが惨たらしく殺され地獄絵図と化した盲学校。

 しかし、いまかれが感じているのは、初めて感じる種類の禍々しさだった。どんな非人間的な事件であれ、犯罪現場には、悪意や憎悪といったものがかならず遺される。それはどんなに凶悪であれ、人間らしい感情、理解しうる激情だ。人間の体温といい換えてもいい。

 だが、かれがいま目の当たりにした仔猫の生首とそれをとり囲む厳粛な祭壇のような実験装置には、人間らしい感情が、温もりが、完膚なきまでに排除されていた。無機質であるがゆえに、それだけ奇怪なおぞましさがあった。

「いまのは、いったい――?」

 旭日の声は、ふるえていた。

 闇のなか、鉤十字博士が答える。


 ――動物が頭部だけでどれぐらい生存可能かを実験しているのさ。むろん頭部は人工心肺に繋ぎ生命維持は図っているがね。わたしはこの方法で最高三時間十六分もの間、猫を生存させることに成功した。猿で実験した際には残念ながら二時間を経過したところで脳に障害が残ったが……。兎で実験した際には生首の状態で一時間置き、それをふたたび胴体に接合する実験までもを行った。非常に難度の高い実験だったよ、こんなことができるのは、おそらく日本でもわたしぐらいのものだろう……。


「反吐が出る」

 南部が話を遮った。その野太い声は、本能的な怒りに震えている。

「こんなものは、実験じゃない。虐待だ。拷問だ。生命を玩具にする、狂人の遊びじゃないか。ケージのなかの獣どもがなぜ怯えているのか、ようやくわかったぜ。こんな実験に科学的な価値はない。倫理的にみても、度が過ぎる」


 ――口を慎みたまえ。何度もいうが、無知な素人にこの崇高な実験の価値など理解できない。


「たしかにおれは、医学に関しちゃ素人だ。だがな、事件の捜査に関しちゃ、おれのほうが専門なんだぜ」


 ――どういう意味だ?


「看護婦から裏をとってある。あんた、動物実験に飽きたらず、人体実験に移りたいと漏らしていたそうだな」

「先輩、先走りすぎでは」

「おまえは黙っていろ」南部は一喝し、なおも続ける。「いいか、先生、おれの推理を教えてやろう。あんたは人体実験の材料を探していた。白羽の矢が立ったのが、入院病棟の友田安音だ。彼女はまだ二十歳にもならないのに癌を患い、余命いくばくもなかった。どうせ死ぬなら実験材料として利用したほうが有益だ、合理的でお利口なあんたはそう考えたんだ」


 ――妄言だな。なんの証拠もない。


「いいや、あるね」

 南部は息巻いた。かれはベテランの警官だ。増えつづける奇怪な犯罪、残酷な猟奇事件を、数え切れないほど受け持ってきた。そのかれが、冷静さを欠いている。憎しみも悪意もなく仔猫を生首にしてしまう鉤十字博士の異常性が、ふだん冷静で慎重なかれを、わずかに動揺させていたのだろう。

「二十四箇所に解体された被害者の死体、それこそが証拠さ。切断面の組織の損傷が少なく、非常に綺麗だった。犯人は、友田安音の関節部分を的確に捉えて切断していたんだ。死体の解体は大掛かりな作業だと思われがちだが、靭帯だけで繋がれた関節部分ならじつは容易に切断できる。しかも今回のケースでは切断面のほかにはまったく外傷がなく、付着物も残っていなかった。これは解体に関する知識があること、その手際のよさを示している。人間の解体に慣れた人物なんてそうそういるもんじゃない、医療関係者、それも外科医の線が濃い。また、バラバラ殺人というのは死体の身許、それに繋がる人間関係から自分の存在を辿られることを恐れての行動だ。つまり顔見知りの犯行である可能性が高い。友田安音が入院していた病院の医師をまっさきに当たるのは、必定ってもんだろう。そして、猫の生首で遊んでるあんたがいまここにいる。どうだ? 疑うなってほうがむりな話だぜ。この実験室を探せば、友田安音の生首も、出てくるんじゃあないのかい」

 捲し立てる先輩刑事に、旭日は言葉を挟めなかった。

 そう、情況証拠は揃っている。申し分がないほどだ。

 しかし、なにかが奇妙だった。説明はできない。ただ、旭日には、そんな簡単な事件であるようには思えなかった。


 ――何度もいうが、彼女は死んでなどいない。死体と呼ぶのは、不適当だ。


 鉤十字博士の声には、わずかな動揺もない。嫌疑をかけられ怒るでもなく、怯むようすさえみせない。

 まるで機械と会話をしているようだ。かれにとっては、自分自身さえ、実験のための装置にすぎないのだろう。

「発見された死体は、たしかに、友田安音のものだ……まちがい、ないんだ」おなじ違和感を抱いたのであろう、南部が声をうわずらせる。「すでに、死後二十時間以上が――」


 ――まわりをみて、なにも気づかないかね?


「まわり……?」

 旭日と南部は部屋を見まわした。暗闇に蔽われ、なにもみえない。

 だが、何頭もの獣たちの気配と唸り声が、耳鳴りのように脳に直接響いてくる。

 なんだ――? ふたりは唾を呑む。

 いま、この場で圧倒されているのは、嫌疑をかけられた医師ではなかった。

 感情を剥き出しにしていたはずの、ふたりの警官のほうだった。

「いったい、なんだというんだ!」

 南部は畏怖にも似た苛立ちを怒声にして吐き出した。

 博士は背もたれを軋ませ、泰然と語りはじめる。


 ――安音は、美しかった。


 そのしわがれ声に、わずかばかりの感情が、初めてききとれた――そんな気がした。


 ――病床に横たわる若く可憐な患者、窓からの木漏れ日に光る白い肌。彼女はいつも泣いていた。孤独に死にゆく境遇を嘆いていた。わたしは告げた。きみはひとりぼっちじゃないと。わたしがひとりぼっちになどさせやしないと。わたしは彼女の美しさに敬意を払い、彼女はわたしの医師としての才覚に敬意を払った。長い入院生活で、わたしたちに恋愛感情が芽生えるのは、至極自然といえた。

 ――病はきっとわたしが治してみせる、退院したら一緒に暮らそう、わたしはそう約束した。死が二人を別つまで――いや、死ぬときすらも一緒だと! わたしはなんとしても彼女を治してやりたかった。いや、治さなければならなかった。愛する女性ひとり救えないなら、医学を志した意味などないではないか。

 ――まず考えたのは患部の臓器移植だ。知ってのとおり、移植のためにはドナーとレシピエントのHLAハプロタイプが適合する必要がある。彼女のHLAハプロタイプは非常に稀な種類だったが――奇跡のようにわたしのそれと一致した。信じ難い僥倖だ。運命、いや、無粋を承知であえて科学的にいうならば、生命の危機に瀕した彼女が本能的にHLAハプロタイプを同じくする異性を欲し、遺伝子同士で引き合わせた結果というところか。いずれにせよ、彼女が救われるならばわたしはあらゆる臓器を喜んで捧げるつもりだった。

 ――しかし事態は最悪を極めた。彼女の胃を侵していた癌細胞はすでにリンパ管や血管に浸潤し、容赦なくその領域を拡げていた。肝臓、膵臓、大腸、肺、卵巣――転移は彼女の全身に認められた。その華奢な躰の内側は、もはや臓器のひとつふたつでは助からないほど無惨に蝕まれていたのだ。彼女の両親も、娘の恢復をあきらめた。退院させ、残りの余生を自宅で過ごさせようとした……。


「……会ったんですね? 退院の日――安音さんに」


 ――会ったさ。


 博士はこともなげに答えた。その声には、わずかな動揺さえもない。


 ――彼女は病院の屋上にいたんだ――安音は、飛び降り自殺をしようとしていた。


 言葉の重みに、旭日は一瞬、怯んだ。

 博士は構わず言葉をつぐ。


 ――むろん、わたしは止めた。だが、彼女は泣きながらわたしの胸のなかで暴れたよ。悲しいほど錯乱していた。むりもない。年端もいかぬ少女には苛酷過ぎる運命だ。既存の医学では手の施しようがない状態――しかし、わたしの安音への愛は、それしきのことで吹き消されるほど脆弱ではない。既存の治療法がないのなら、新しい治療法を考えればいいだけのこと。


「それで、動物を生首だけで生かす実験を……」

 闇のむこうで、博士がかぶりを振った。

 

 ――あの実験はわたしの考えの一部に過ぎない。それだけで長時間、安音を延命させることは不可能だ。ただ悪戯に、彼女の苦痛を長くするだけ……。


「じゃあいったい……」

 闇のなか、博士がにやりと嗤ったようだった。

 青白い稲妻が、ふたたび実験室の闇を貫く――実験動物たちが痛ましい悲鳴でそれに応えた。

 旭日は目を瞠る――ふたりの刑事はみた。無数のケージのなかの、獣たちの凄まじい姿を。

 闇に響く唸り声や悲鳴の主たる犬や猫、猿、ラットたちの無惨なありさまを。

 その光景を、なんと形容すればいいだろう――まるでダリの絵画のなかに迷いこんだような幻想恐怖。けっして幕の落ちない見世物小屋の悪夢。神と悪魔の血が混じった、この世ならぬ異形の合いの子たち。

 それらの動物たちは、一匹残らず、すべてが奇形だった。

 双頭――ひとつの躰に枷のようにふたつの首が繋ぎ合わされている。

 痩せ細ったビーグル犬が、ふたつの口で同時に息を切らしていた。

 双頭の猿がケージを叩き、ふたつの顔で交互に歯をみせ、ふたりの闖入者を威嚇する。

 双頭の黒猫が、旭日の一挙手一投足を、四つの瞳でじっと凝視していた。

 双頭のラットが歯を剥いて餌と水を奪い合う。

 じわりじわりと、吐物が咽喉をこみ上げてきた。

 遠くで雷鳴が轟き、室の空気を震わせる。激しさを増した雨音と暗黒が、四つ足の囚人たちの醜い声と姿を、庇うようにやさしく包みこんでいく。


 ――ヨーゼフ・メンゲレを、ご存知かな……?


 ふたりはふたたび博士の影に向き直った。

 雨の合間を縫うように、ぽつり、ぽつりとしわがれた声が部屋に染み入る。


 ――ナチス・ドイツの医学博士だ……。安音を救うすべを求めてあらゆる資料をあさっていたとき、わたしはかれの文献を見出した。メンゲレはユダヤ人を使い、常軌を逸した人体実験を行ったことで知られている。黒い瞳を青に変える実験、生きたままの解剖、男児の睾丸とペニスを切除してその後どう成長するのかを観察したり――かれにとってアウシュヴィッツはさぞかし遊び甲斐のある玩具箱だっただろう。そのなかでも特にかれが熱心に取り組んでいた研究がある――それが双子だ。


「双子……?」


 ――ベトちゃんドクちゃんの呼び名で親しまれたグエン兄弟を知っているだろう? かれらは卵子の段階で分離しきらず下半身が繋がった状態で誕生した結合双生児だ。アメリカ軍が撒いた枯葉剤の影響ともいわれるが、じつは自然界でも五万から二〇万件にひと組の割合でこの手の奇形は誕生する。メンゲレは、神の悪戯たるこの多重体奇形を人の手によって再現しようと試みた。ユダヤ人の双子を切り刻み、ふたりをひとつに繋ぎ合わせようとしたのさ。医学的な目的などあったわけがない。ただの狂気的な好奇心だよ。むろん実験は成功などしなかった。結果的にかれが殺害した双子の数は三〇〇〇人。かれが「死の天使」と呼ばれる所以だ。

体温がどんどん下がっていくのがわかった。音を立てるような勢いで、頬に鳥肌が立っていく。

 しかし、にも拘わらず、博士の影から眼を離せなかった。視線を捉えて離さないなにかが、離してはならない魔性のなにかが、博士の影にはあった。


 ――あれから数十年。結合奇形の分離手術は現代においても相当困難だ。だが、多くの場合、不可能ではなくなった。人工分離の技術が進歩したということは、ぎゃくに人工的な結合も可能に近づいたとは考えられないかね? たしかにこの手術は分離以上に困難をきわめる。骨格を繋ぎ神経を繋ぎ血管を繋ぎ、ふたつの生命をひとつに繋ぎ合わせるというのだから。

 ――安音は全身を癌に冒されていた。健康だったのはかろうじて頭部だけだ。わたしは彼女をその手に抱きながら、涙を流し、自責の念に苛まれた。枷のような点滴に繋がれ、ベッドから動くこともできず、日々、凄まじい激痛に泣き叫ぶ彼女を、わたしはただ傍観していることしかできないのか? 絶望のあまり自死をさえ選ぼうとした彼女を、止める言葉さえ持てないのか? ひとりぼっちにさせないなどと甘言を弄しながら現実は彼女をひとり苦痛の牢獄に閉じこめ、ひと握りの希望さえみせてやること叶わない。諸君、愛というのは空虚な言葉遊びなのだろうかね? 所詮、人と人は互いにそばにいながらも永遠に切り離され、苦しむ互いを理解し合うこともできない孤独な存在なのだろうかね?

 ――否! 否! 否! ものわかりのいい知たり顔など、負け犬の惨めな虚勢だ。最後までけっして諦めない――それがわたしの選んだ道だった。彼女を救う手段はほかになかった。わたしは、不可能を可能にしなければならなかったのだ。


 冷たい汗が、旭日の頬を舐めた。

 感情を、体温を感じられない――鉤十字博士に対するじぶんの印象は、まちがっていたのかもしれない。もしかしたら、かれ以上にまっすぐで人間らしい感情にみちた人間は、ほかにいないのかもしれない。

 しかしただひとつの悲劇は――鉤十字四郎という男が、あまりに天才すぎたことである。

 重苦しい暗闇がまとわりつく。

 息を乱し、歯を鳴らし、そして旭日はかっと眼を見開いた。

 これまででもっとも眩い稲光が、みたび実験室の暗闇を引き裂く。

 旭日と南部――ふたりの闖入者は、ついにみた。

 ふたつの人型の粘土細工を押しつけ、ひとつにしたような、鉤十字博士のその異形を。

 悪魔のように醜く、聖者のように神々しい鉤十字博士の姿が、瞳のなかを突き抜けた。

 博士は写真に違わぬ美しい男だった。長い黒髪、白い肌、彫刻のように整った顔だち――しかし、かれの頸には、巨大な腫れ物のようにが取り憑いている。

 友田安音、その人だった――彼女もまた、繊細で美しい顔だちをしていた。そうであるがゆえに、その異形には平伏すべき神秘性が存していた。嗚呼、双頭人間――それはまるで密教徒たちが崇める、命ある邪神像のよう。

 人面瘡が、苦しげに呻いた。蒼い唇を歪め、瘴気のような息を吐く。

 

 抗癌剤の影響であろう、髪はすべて抜け落ちていた。剥き出しの頭部には紫色の血管が蜘蛛の巣のように浮いている。蒼白い顔を縁どるように、痛ましい手術跡がまだ縫糸とともに残されていた。

 ――博士の言葉に、嘘はなかった。


 

 ――わたしたちは文字どおり、もうけっして離ればなれになることはない。


 鉤十字博士は揚々と凱歌を上げた。


 ――たとえ死でさえも、われらを引き離すことはもうできないのだ! 彼女を傷つける苦痛はおなじ神経を通してわたしの胸をも深く抉る。愛する人と痛みも悲しみもすべて分かち合うことができる、それがどれほどの至福か、きみらに想像できるかね? できぬだろう、できるわけがない! 人はだれもわかり合えぬと知たり顔でいってみせる、そんな諦観が大人に成長することだと信じて疑わない凡人どもには、永遠に到達できぬ境地だ!

 ――わたしはやり遂げた。わたしだけが、あきらめなかった。死の運命をねじ伏せ、人と人を隔てる孤独の壁を、みごと乗り越えてみせた。愛する安音を約束どおり、絶望から救い上げたのだ……!


 雷鳴を背に、鉤十字博士の哄笑が実験室に響き渡る。

 旭日と南部はただ立ち竦むほかなかった。

 友田安音に博士の異常な愛情は届いているのだろうか――? ふたりに、それを知るすべはない。

 博士の頸筋に寄生する件の恋人は、虚ろな表情で涎を垂らしながら、苦しげに、ただ、呻き続けるだけだった。(了)



 2005年、原稿用紙換算37枚、1,0021字。

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