究極の刑務所

 両脇に無数の錆びた鉄扉が並ぶ、剥き出しのコンクリート造りの廊下――コツコツと、追いあうような、ふたつの跫音が響いている。

 そこは一見すると、なんの変哲もない刑務所だった。規模や看守の人員数まで、わが国の刑務所と有為な差はない。国はちがえどおなじく刑務所を運営する身としては、設備に関してはむしろわが所のほうに分があるようにさえ思われた。

 しかし、ここは世界でもっとも成功した刑務所と呼ばれている。わたしはこの刑務所独自の更生教育について研修を受けるため、はるばる海を渡り視察に訪れたのである。

「異国の客人のお口に合うかはわかりませんが」

 着座するや、N刑務所長は指を鳴らした。調理職員たちが、テーブルに水とスープを並べ始める。

 刑務所食堂で会食とは妙な気分だ――わたしはスープをひと口すすった。存外のうまさに、思わず表情がゆるむ。体に直接、沁みこんでくるようなスープだ。

 N所長は、満足げに微笑む。

 世界でもっともすぐれた刑務所の所長――もっと上背のある厳しい人物像を想像していたが、じっさいは温和そうな恰幅のいい紳士である。身長だって、私よりずいぶん小さい。

 N所長は笑顔を崩さぬまま話をうながした。

「ご質問がおありならなんなりとどうぞ。一日、施設の視察をされて、なにかお気づきの点がおありでしょう」

 かれの笑顔に対し、わたしは恥じ入る表情で咳払いをひとつした。

「同業者として恥ずかしながら、まったくわからないのです。この刑務所の秘密が。わが国にかぎらず、世界じゅうの刑務所は共通するふたつの問題を抱えています。まず、凶悪犯罪の多発化と厳罰化にともなって増加する服役囚を収容するスペースをじゅうぶんに確保できないこと。つまり現在、多くの国で、房の数より服役囚の数がはるかに上回っているのが現状です。結果、定員以上の人数を同じ房に押しこまざるをえない。これでは囚人同士のいざこざも増えますし、看守の負担も大きくなる一方です」

 N所長は笑顔のまま相槌を打った。わたしは続ける。

「もうひとつの問題はリピーター、つまり、出所後の再入所者が非常に多いということです。わが国の統計でいえば、一般に殺人犯のうち約四十五パーセントが出所後ふたたびなんらかの罪を犯して刑務所にもどってきます。懸命に更生教育を施しても結果は惨憺たるもの、というわけです。その影響で、恥ずかしながら国民からの刑務所への信頼も、けっして厚くはありません。また、リピーターが増えることでさらに収容スペース不足の問題が大きくなる、という悪循環に陥っているのです」

 咳払いをして、水をひとくち飲む。なにかのミネラル・ウォーターかスポーツ・ドリンクなのか――疲れ、乾いた体を癒すようにやさしく沁みてくる。

「しかし聞くところによると、この刑務所では収容スペースの問題は完全に解決しており、しかもここに収監されているのは、殺人の罪を犯した凶悪犯ばかりであるに拘らず、出所後の再入所率はわずか三パーセントに抑えているというではありませんか? どんな反社会的な収監者も、この刑務所で刑期を終えるころには、みずからの罪を悔い改め、更生するのだとか。これは世界的にも、ほかに例をみない成果です。いったいどこにそんな秘訣が? ぜひともご教授賜りたい」

「なるほどなるほど」N所長は大きく頷いた。「同じ刑務所長として、あなたの苦労は痛いほどよくわかります」

 N所長はコックに向かって手を叩いた。

 スープの皿がかたづけられ、熱い鉄板に載せられパチパチと油を散らすステーキ肉が運ばれてくる。胡椒とガーリックの香りが鼻腔をくすぐった。

 コックが下がったのを見届けてから、N所長は言葉をつぐ。

「じつは簡単な話なのですよ。わが国では、殺人犯の服役期間が、他国にくらべて非常に短い。つまり収監者の回転を早めることで、犯罪件数の増加に対応しているというだけのことなのです」

「服役期間が短いとは――つまり具体的にはどれほどなのですか」

「そうですねえ、具体的には」N所長はしばし間を置いた。「わが国での殺人犯の服役期間は、どんなに長くても一ヵ月。もっと早い場合では一週間――つまり七日です」

「一ヵ月? 一週間?」わたしは耳を疑った。「それはあまりに短すぎやしませんか?」

 N所長は子供を諭すような口調で答える。

「刑期の長さは問題ではありません。かぎられた期間で囚人が心から罪を償うかどうかが重要で、償いの心を刑期の長短で測るのはナンセンスでしょう。事実、わが国では大部分の殺人犯がみんな短い刑期で更生に成功しているのです」

「信じられない」

「いえ。多くの国では、犯罪者を長期間拘置したり過酷な労働をさせたりしているようですが、それはわれわれにいわせればあまり賢明ではない。長期間犯罪者を服役させることは、まず第一に囚人の社会での適応力を奪う結果となります。わたしは世界じゅうの刑務所で、刑務所の中でしか安心して暮らせないと嘆く囚人を大勢みてきました。そして刑務所労働による社会奉仕は、多くの場合、更生には役立たない。かれらが償うべき相手は、あくまで被害者本人であるべきなのです。罪と罰は、もっと表裏一体の性質を持ったものであるべきでしょう」

「おっしゃることはもっともです。しかし、聞けば聞くほどわからなくなる。ではこの刑務所では、その短い期間にいかなる更生教育をされているのですか? まさか脳手術で反社会性を取り除くわけではないでしょう?」

「もちろんそんな野蛮なことはしません。そしてなにより、服役囚に対し、特別な教育の必要があるとは考えていないのです。だいじなのは服役囚ひとりひとりが自分自身であやまちに気づき、学び、考えることではないでしょうか?」

 わたしは嘆息した。N所長はきれいごとや理想論を声高に語っているのではない。かれが語っているのは、かれ自身の実績に裏づけられた信念なのだ。収監者の刑期は短い。更生教育をするわけでもなく、非人道的な人格改造をするわけでもない。しかし出所したほとんどの殺人犯が更生に成功する。つまり最小限のコストで、圧倒的な成果をあげているということだ。殺人犯にとっても刑務所にとっても社会にとっても、完全なる理想を体現しているといっていい。まさに、究極の刑務所ではないか。

 しかし――まだ、謎は解けていない。

 N所長はわたしの敬意のまなざしに胸を張るでもなく、淡々とステーキにナイフを入れ、食事を続けていた。わたしは添え物の野菜を口にした。ほんの少し間を置いてから、わたしはふたたび遠慮がちに質問を続けた。

「しかし、どんな重罪でも一ヵ月で出所となると……」

「ああ、言葉足らずでしたね。わが国の刑法では、殺人犯の罪の軽重と刑期の長さは関係ないのです」

「えっ」わたしはじぶんでも驚くような頓狂な声を上げた。「ではこの国では、刑期はいったいなにを基準に決めるのですか?」

「一概にはいえませんが、男性を殺すと、おおむね刑期は長くなります。女性を殺した場合は、それより短い。子供を殺したケースの刑期が、もっとも短いですね」

N所長はステーキをひと切れ口に運び、そしてにこりとほほえんだ。

 やれやれ、まるでなぞなぞだ。わたしは考えこまざるを得なかった。男性を殺したケースがいちばん刑期が長いだって? この国はそんな男性至上主義の風潮があっただろうか。性別による差別のないリベラルな国柄だと思っていたが。しかし奇妙なのは、未来あるいたいけな子供を殺したときにいちばん刑期が短い、ということだ。いったいどういう意味があるのだ? しかも刑期は短いにも拘らず出所した収監者たちがみな一様に更生するというのは? なにからなにまで、わけがわからない。

 ステーキを切り、口に運ぶ。カリっと焼けた表面が裂け、熱い肉汁が口の中でじゅわっ、と音を立てて広がった。

「まだ、お気づきになりませんか?」ふいにN所長が問いかけた。

「ええ、まったく」あわてて飲みこむ。「見当もつきません」

 N所長はふたたびステーキを切り出した。そしてステーキのひと切れを、ひょいとフォークで掲げて見せた。

「その秘密は――かれらに配膳される食事にあります」

 そういってN所長はステーキを口に運んだ。

「食事ですか。ますますわからないな。まずい食事を出して罰を与えるとか、まさかそんなことではないでしょうし」

 わたしのせいいっぱいの冗談に、N所長はぴくりとも笑わず、問い直した。

「――わかりませんか?」

「恥ずかしながら、まったく……」

「つまりかれらの食事は――」

 N所長はまたステーキを頬ばり、くちゃくちゃと音を立てた。そして水でむりやり飲みこみ、眼を見開いて言葉をついだ。

 背すじに冷たいものが走った。

「なっ。食事中にいったいなんの冗談です」

「冗談ではありませんよ」

 N所長はわたしの驚嘆を、気にも留めずに食事を続ける。

「ここはカニバリズム――すなわち食人文化を刑罰のシステムに組みこんだ、世界で唯一の刑務所なのです」

 瞬間、わたしの胸に、圧倒的なドス黒い感情が溢れた。本能的で根源的な、禁断の領域への畏怖と嫌悪である。

鼓動が速まり、声に無意識に怒りが混じる。

「ほんとうだとすれば、狂ってる。そんな蛮行が公然とおこなわれているなんて。しかもそれが刑罰とどういう関わりがあるというんだ」

「ご存知ないようですが」N所長はフォークでステーキを突き、ナイフに力を込めながら答えた。「人類の歴史は、食人の歴史といい換えていい。パプアニューギニアのフォレ族という民族は、つい近年まで儀式的な意味合いの食人をおこなっていました。親族が死んだ際、その肉を食べて死者を弔うというものです。中国では人体の調理方法を克明に記述した書物があり、十九世紀までふつうの料理屋で人肉が出されていました。フランスでも、十六世紀には人骨を砕いてパンにまぜていましたし、マレーシアでは復讐する意図で憎む相手の屍肉を食べる部族がいました。古代にまで遡れば、北米、中南米、日本でも、食人文化があったことを示す考古学上の痕跡がある。食人の動機はさまざまです。難病治療のため、飢饉のため、復讐のため、弔いのため、そして愛のため。

 しかしわが国での食人風習は、やや特殊といえましょう。罪人が罪を償うために被害者の肉を食べる。これはわが国独自の文化です。たとえば、ライオンはシマウマを殺して食べますね。しかしだれもライオンを責める者はいません。生きるために殺しているのだし、その血肉を食べることでシマウマの死を生かすからです。すなわち、殺すことが罪で、その肉を食べることが贖いなのです。わが国の刑法も、同様の思想で成り立っています。殺すことは罪深いことです。だからこそ、被害者を食べることでその罪を浄化せねばならない。被害者を食べることで、被害者を生かさねばならないのですよ。だから被害者の肉をすべて食べ終えれば、そこで刑期は終了。それ以上、殺人犯を刑務所に留まらせる理由がない――これがわが国の刑罰なのですよ。つまりわが国の刑法は、人道よりもむしろ自然の摂理に重きを置いているのです。たとえどんなに文明が発達しようとも――人間はつねに自然の一部である。そんな自然への経緯、謙虚さが、わが国の文化の基盤であるからです」

 わたしはナイフとフォークを叩きつけるようにテーブルに置いた。

「狂気だ。もう聞きたくない。すっかり食欲が失せてしまいました」

「われわれにいわせれば、そちらのほうが狂気です。その食事は穀物や野菜、動物など、あらゆる命が犠牲となってできています。あなたがその食事を残すということは、犠牲となった命に対する冒涜ではありませんか?」

 息を乱し、わたしはなにも声を出せなかった。食人が法で認められた国。子供を殺したときの刑期がいちばん短いという理屈の答えは、そういうことか。わたしはかれらの非道に本能的な怒りを顕わにした、しかし、なにより最も恐ろしいことは、かれらの異常な文化に対する論理的な否定が、頭に浮かんでこないということだった。強い嫌悪を感じながらも、わたし自身がかれらの論理の正当性を認めつつある、ということだった。

「しかし」わたしは懸命に無力な抵抗を試みる。「人肉を食べることで、性的倒錯や特殊な快楽を得る異常者もいる……そうですね? ルールのハンター、ヨアヒム・クロル。ロシアの切り裂き魔、アンドレイ・チカティロ。ロンドンの吸血鬼、ジョン・ヘイ。ニューヨークのアルバート・フィッシュやミルウォーキーの怪物、ジェフリー・ダーマーを知らない者はいないでしょう。そして全米を震撼させた犠牲者数百人の連続大量食人鬼、オーティス・トゥールとヘンリー・ルー・ルーカス。かれらのような異常者に対しては、この国の刑罰は、まったく用を成さないのではないですか?」

 N所長は「なんだ、そんなことか」とでもいいたげな落ち着いたしぐさで、ナプキンで口もとを拭う。そして手を組んで、テーブルの上に置いた。

「そういう人間がいるのはたしかです。しかし割合としてみれば殺人者のなかでもきわめて特殊なケースですから、さほど問題にすることはありません。大部分の殺人犯は、被害者の肉を食べることで見せかけでなく心から反省します。自分の罪を、これ以上ないほど身をもって理解し、二度と同じあやまちを犯すことはありません。しかしごくほんのわずか、再犯に走る者もいる。あなたがおっしゃったような、異常者どもです。この国では二度めの殺人を犯した場合、たとえそれがいかなる事情であっても死刑が執行されます。わが国で死刑が執行されるのは、そのケースのみ。いかなる凶悪犯にも、一度めは更生の機会を与えているのです」

「まさか」

 わたしは自分の顔からさっと血の気が引くのを感じた。

「死刑が執行された場合は――」

「察しがいい」N所長は、手を叩いた。「死刑も当然、罪悪です。いわば、社会による殺人ですからねえ。ですからもちろん、その死体はわれわれ刑務所職員でありがたく頂戴するのです。体液の一滴も無駄にすることなく――ね」

 胃がびくびくと痙攣するように震えていた。自分の顔がひきつり、白い胃液が逆流してくるのがわかった。

 N所長はそんなわたしを見てにやりと笑い、顔を近づけて小声でそっとつけくわえた。

「案外、これがいけるんですよ。なんせ人間と同じ組成の肉と体液ですからねえ、もう?――いひひひひひひひひひひひひh」



2005年、原稿用紙換算18枚

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