童貞は南極へ走れ


 飲むものも飲まず食うものも食わず、土手君はただひたすら逃げ続けていた。かれの醜いあばた面は長い逃亡生活のためにさらなる凄惨をきわめていたが、そんなことには構っていられない。捕まれば殺される。土手君は殺されてしまうのだ。モンゴルの砂漠を駆けぬけ、シベリアの雪原を越えた。大西洋を渡り、ミシシッピーのクロス・ロードにキスをした。ロバート・ジョンソン、おれに力を貸してくれ。しかし一説によれば伝説のブルーズ・マン、ロバート・ジョンソンは男前で超のつくイケメンだったとか。土手君は愛聴していたロバート・ジョンソンのレコードをクロス・ロードに叩き捨てた。そしてクロス・ロードの悪魔〈レグバ〉に魂を売る間もなく、また一路南へと駆けだした。国際指名手配された土手君に安住の地はない。目指すは南極。どこの国の警察も、南極までは追ってはくるまい。土手君の罪状は、第一級童貞罪だった。

 ことのはじまりは百年前、人類病とさえいえる大規模なホルモンバランス異常が報告された。その年から突然、生まれてくる赤ん坊のほぼ九割を男児が占めはじめたのである。原因不明のその奇怪な現象はその後世界じゅうで報告され、人びとを絶望の底に叩き落した。世界じゅうが男まみれになるであろう近い未来は、想像するだけで余りにむさ苦しかったからである。ある医者は新型の環境ホルモンのせいだといい、ある科学者は人類という種の寿命が近づいているのだといった。しかしそんなことはどっちだってよかった、いずれにせよ解決策は見つからなかったから。その年から男性人口は年々増え続け、ついに男性人口九割時代が到来。悪夢はついに現実になった。

 男性人口が増えるということは、カップルになれないあぶれる男が増えるということだ。率直にいえば童貞が増えた。激増した。人口爆発ならぬ、童貞爆発である。結果として稀少な存在となった女性争奪のための男性間の殺人や傷害、および女性への強姦が軒並み急増した。まさに世界のすべてが戦場、地獄絵図の様相を呈していたのである。

 事態を重くみた各国首脳は急遽国際会議を開き「男性権」という新概念を打ち立てた。すなわち、男性として適格な身体と能力を持つ者だけを男性として認め、残りの劣ったオスからは男性としてのすべての権利を剥奪するというものである。「男性権」の提唱は男女人口比率を正常に戻す画期的方策として議会で歓迎された。では男性としての適格な身体と能力とは如何なる基準によって測ればよかろうか? 至極簡単、男性の身体と能力に関してもっとも厳正にして卓越した鑑定眼を持つ専門家、すなわち女性に選ばせればよろしいという結論にたっしたのである。

 右のいきさつをふまえ、二十歳までに童貞を捨てられないオス、すなわち女性に選ばれざるオスは、男性として適格な身体と能力を有しているとは認めがたく、なおかつ童貞の性的フラストレーションの蓄積は治安を保つうえで非常に危険視され、さらに公衆衛生の観点からも、二十歳を越えて童貞である者はすべて去勢したのち隔離施設に収容すべし、拒否したる者は即刻死刑、という恐るべき国際法が制定された。人類史上連綿と続く童貞差別、ここに極まれり。これが童貞撲滅法である。

 土手君は童貞だった。二十歳になったいまも女性と手を繋いだことさえなかった。女性不足時代というのっぴきならない事情をさっぴいても、端的にかれは不細工だったからである。それはともかく、かれの兄もやはり二十歳という刻限までに童貞を捨てられなかったので、三年前に去勢され、隔離施設に送られた。非道である。たしかに土手君の兄は童貞であった。しかしだからといってけっして治安の敵と目されるような人物ではなかった。正義感にあふれる、弟思いの、そんな童貞だったのだ。しかし悲しき哉、国家権力に対し余りに無力な土手君は、童貞撲滅隊に連行される童貞の兄を、泣きながら見送るほかなかったのである。

 童貞の兄のことを思い出すと、しぜん目頭が熱くなる。土手君は涙をふいた。自分は逃げきる。童貞の兄のぶんまで逃げきってみせる。土手君の決意は堅い。そしていつか夢のような美女と恋におち、脱・童貞という悲願を実現させるのだ。

 しかし、そうは問屋が卸してくれない。去勢から逃れた土手君を追うのは、世界中の軍隊と警察から優秀な人材だけを選りすぐって集められた精鋭戦闘集団、童貞撲滅隊である。小銃から重火器の扱い、アウトレンジでの狙撃術はいうに及ばず、戦車や戦闘機、戦闘ヘリや潜水艦などの操縦技術にも長け、二十四時間休むことなく陸・海・空から逃亡童貞を追いつめる。さらに、童貞たちのあらゆる武装抵抗やテロ攻撃を想定して、交渉術や諜報術、潜入術に暗殺術、爆発物処理や毒劇物への対応などはもちろんのこと、接近での白兵戦に関しても剣道、柔道、コマンド・サンボ、ブラジリアン柔術にウィン・チャン・カンフー、カポエラ、空手、テコンドー、ムエタイと広く習練してまさにぬかりなし。その他マリン・スポーツ、スノーボード、DJ、フットサルやギター、ピロー・トークに至るまで、ありとあらゆる訓練を受けた童貞抹殺のエキスパート集団、それが童貞撲滅隊なのである。もちろんルックスも抜群のイケメン集団であることはいうまでもない。

 土手君は幾多の修羅場を駆けぬけた。土手君の行く先々、すべてが戦場となった。幾人もの通行人、いくつもの世界遺産が戦火の巻き添えとなった。それでもやむことなく追跡劇は続いた。銃撃の雨をかいくぐり、疾走する戦車を撒き、戦闘ヘリの誘導ミサイルから身をかわしながら、土手君はどうにか辛くも逃げのびた。そして南極行きの船が出る、南アメリカ大陸最南端、プンタ・アレーナスの船着場に、ついに到着したのである。

 嗚呼、南極! どこの国にも属さず司法もおよばない、童貞最後のガンダーラ! 最低気温、摂氏マイナス八九.二度。とても寒い。生態系、ペンギン。アザラシ。シャチ。苛酷な感じ。でも、南極観測隊の樺太からふと犬だって、放置されて、一年は生き延びた。童貞にだって、生き抜けぬ道理はない。えっ。二十一世紀以降、外来生物持ち込み禁止? 童貞はある意味で社会的に死んでいる。問題ない!

 九死に一生。これで助かった。安堵の笑みで土手君のあばた面がさらに醜くゆがんだ、そのときであった。土手君の行動を先読みしていた童貞撲滅隊が、突如四方の茂みから現れ、土手君のまわりをぐるりと取り囲んだのである。

「童貞の浅知恵などわれわれはすべてお見通しだ! おとなしく人生あきらめろ、この童貞め!」

「くっ! もう少しというところで!」

 しかし土手君はあきらめなかった。かといって逃げようともしなかった。それどころか、なんと、銃をかまえた屈強な隊員たちに向かって、丸腰で歩み寄った。

 あろうことか、土手君は、涙ながらに命がけ、一世一代の大演説をぶちまいたのである。

「おれはたしかに童貞だ、たしかにおれはもてやしない、だがそれがそんなに悪いことか? 大罪か? たしかに童貞撲滅法の施行以来、童貞ぶんだけ男性人口が減った、いまや人口の男女比はむかしのように近づきつつある。秩序と平和がもどったといっていいだろう。しかし、軍隊が斯様にひとりの丸腰の童貞を追いつめ、追い込み、蜂の巣にしようとする非道なふるまいを鑑みれば、世界は施行前よりさらに悪い方向へ進んでいるとはいえないだろうか? 一部の弱者の犠牲、弱者の排除によって成り立つ平和や秩序に、いったいどれだけの価値があるだろうか? 国を守り国民を守ることを生業とする軍人の魂が、君らみずからの胸に疑問符を投げかけはしないか? これが果たして正義なのか? これが果たして平和なのか? 君らは童貞といっしょに、人としていちばん大切なものを捨ててしまったんじゃないのか? すなわち、愛を!」

 土手君は息をきらした。童貞も非童貞も、生物学的には同じ男で同じ人間の筈である。すくなくとも、そういわれている。話し合えば、わかりあえぬ道理はない。土手君は、そう信じた。

 場はどよめいた。隊員たちのなかには、感きわまって泣きだす者までいた。そうだ。おれは軍人になるとき誓ったのだ。家族を守るために、国を守るのだ、正義を守るために、銃を持つのだと。土手という男にも、家族がいるにちがいない。おれはその男を殺せるのか? そして土手が童貞であるように、おれにも童貞だった時代があった。好きな女の子を想うだけの触れられない日々、それはなんという切なさだったろう。童貞で、ひとりぼっちで、しかし明日への希望だけは捨てまいと自身に言い聞かせていたあの頃! しかし……、おれは軍人だ。命令を受けたからには、やらねばならぬ。屠殺人が涙とともに牛馬を殺すように、われわれもまた、童貞を殺さねばならないのだ。悲しいことだが、それが童貞撲滅隊の使命だから! 隊員たちは涙をふき、ふたたび銃を構えなおした。

 南無三。万事、休す。土手君はついに観念して目を閉じた。そして、あたりに断末魔のような、けたたましい銃声が鳴り響いた。


 土手君は静かに目をあけた。なにが起こったか、理解できなかった。銃声が鳴りやんだ目のまえで、ぎゃくに兵士たちが、ばたばたと倒れていたのである。「これはいったい、どういうことだ?」生き残った兵士たちが空に向かって叫んだ。そこには、一機の戦闘ヘリが、轟音とともに悠々と旋回しているではないか。やがて着陸した戦闘ヘリから降りてきたのは、驚くなかれ、三年前に生き別れとなった、土手君の兄、その人だったのである!

「兄さん! どうしてここへ?」

「弟よ。法律が変わったのだよ。エイズウイルス感染者の増加は世界じゅうでとどまるところをしらず、このままいけば人類は滅亡するとの試算が発表された。しかるに、エイズウイルスの主たる媒介者、イケメンどもを殲滅せねば、人類に未来はない。童貞撲滅法はきょう撤廃され、あたらしくイケメン撲滅法が施行されたのだ。おまえも童貞なら、われらイケメン撲滅隊に入隊するがいい!」

 兄は土手君に一挺のライフルを差し出した。

 土手君はほんの少し悩んだ。しかし、イケメンどもを殲滅したのちの夢のような世界を想えば、沈思せずとも答えはひとつ。土手君はにこやかに銃をとって叫んだ。

「正義を守るため、世界を守るためならしかたない!」

 土手君は空に向けて銃を一発、景気よくぶっ放した。童貞撲滅隊はあわてて逃げだし、こんどは土手君が大笑いでそれを追いかけた。

 追跡劇が、また始まった。(了)



2004年、原稿用紙換算13枚


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