サイレン
定刻でも告げるかのように、外にはいつものサイレンが鳴り響いていた。真っ赤な夕暮れが、まるで警告ランプのように、窓から不穏に射しこんでいる。
今年で六歳になる
「お外で遊びたいよね……ごめんね、慎くん」
園児服を着た幼い子どもの頭を撫で、茉莉は嘆息する。
「でも、お外は怖い大人でいっぱいなのよ……」
窓の外を、憎々しげに睨みつける。茉莉が住んでいるのは、大規模な公営住宅である。家賃は極端に安く、それだけに素行の悪い入居者も少なくない。暴力団関係者や前科者、ホームレス寸前の荒くれ者の日雇い労働者がほとんどだ。近隣での警察沙汰など、日常茶飯事である。先だっては、上の階の小学生女児が、階段の踊り場で強姦されるという痛ましい事件も起きた。子どもを育てるのに適した環境とは、とてもいえたものではない。
「……駅構内で無差別大量殺人事件が……」
「犯人は無職二十五歳男性……」
「昨今の不景気の煽りを受け生活が立ち行かなくなり、刑務所に入りたくなったなどと供述しており……」
部屋の隅に置かれたテレビは、きょうも物騒きわまる事件を伝えている。きのうも、おとといも、その前の日も、おなじような事件が起こっていた。しかも今回の事件現場は、茉莉が住む公営住宅のごく近所ではないか。彼女はぞっと背すじを
景気は悪くなる一方だった。大学を出た優秀な若者でも、コンビニのアルバイトにでもありつけたら、まだいいほうだ。未来に希望のない失業者が、町にはあふれ返っていた。自暴自棄になった貧困層の兇行は、日に日にその残虐さを増していく。
そこにきて死刑制度の廃止――いま思えば、おそらくはそれがすべての契機だった。現時点での極刑は、無期懲役である。これは成年犯罪者で十年、未成年なら七年、刑に服せば仮釈放の目がある。近年の過剰なまでの人権尊重気風を受け、かつてならば死刑に処されていたはずの兇悪な殺人鬼たちが、つぎつぎに野放しにされはじめていたのである。
遠くで唸りを上げた銃声が、公営住宅の窓を震わせる。まるで、狂犬の遠吠えのように。茉莉の顔から、みるみる血の気が引いていく。
密輸銃も国内闇市場に数万挺規模で出まわり、銃犯罪は増加の一途を辿っていた。こうなると値崩れも激しく、ものによってはモデルガンより安価で取引される実銃も少なくない。暴力団関係者や犯罪者予備軍でなくとも、護身用にと購入する市民は後を絶たなかった。中学生同士が喧嘩の果てに銃で互いに撃ち合う事件があったのも、いまだ記憶に新しい。むろん素人が撃ち合ったところで、そうそう命中などするものではない。ふたりは無傷で生き残り、そろって少年院に送られた。死んだのは、流れ弾に当たった、通りすがりの女子小学生だった。
こうなると煽りを食うのは、町の平和を守る警官たちである。拳銃一挺だけを頼りに、サブマシンガンで武装した凶悪犯を相手にすることもいまやけっして稀ではないのだ。その上、犯罪者の人権を尊重してむやみな発砲さえ禁じられているとあっては、命あっての物だねと、若年層を中心に、退職希望者が相次いだ。
いまや、町は悪人であふれ返っていた。大量に流入した外国人たちも、治安の悪化に拍車をかけた。ニューヨークのハーレムさながら、夜間のひとりでの外出は、自殺行為も同然だった。電車内での強姦、白昼の暴行など、日常光景と化していた。若者は老人を殴り殺して財布を奪い、自動車は杖をつく盲人を轢き殺してまでも道を急ぐ。関わり合いになるのをきらい、助けに入る者など、むろん、だれもいなかった。物盗りに遭うのは不用心だからだ――殺されるのも、けっきょくは自己責任じゃないのか――そんな心ない世論が、日本全土を覆い尽くしていた。
「みんな、じぶんさえよければいいと考えている大人たちばかりなのよ」
茉莉は慎太をぎゅっと抱きしめ、泣きながら懇願する。
「あなたはそうはならないで頂戴。あなただけは……きっと心やさしい大人に……なって頂戴……!」
この世に人権というものがいまだあるとすれば、それはいまや犯罪者たちの特権だった。市民はできうるかぎり外出を避けた。かつて親子の笑顔でにぎわっていた公園は、もはやもぬけの殻だった。町はゴースト・タウンのように静まり返り、にわかに広くなった往来を、わがもの顔で鴉の大群が闊歩していた。
嗚呼、きょうもサイレンが鳴っている。不安を煽り、胸をかきむしるようなあの不快な音が、不穏なつむじ風のように町を震わせている。
しかしいつかは、この無法の世界に子どもたちも出て行かざるを得ないのだ。かれらの将来を思うと、暗澹たる気持ちしか湧いてこない。幼い慎太の怯えた表情が、まるでじぶんの胸をえぐるようだった。かれらを護れるのはじぶんしかいない――そう思うと、抱きかかえる慎太への愛おしさ、母性がこみ上げてくる。
ふたたび何処かで銃声が響き渡った――その刹那。
公営住宅の廊下に、跫音が高く鳴り響いた。まるでなにかから逃げるような、焦りにみちた響きだった。力強く廊下を蹴り、次第にその音は大きくなっていく。
茉莉は慎太をぎゅっと抱きしめた。額からは汗が滲み、双眸はぶるぶると震えている。
数日前、隣の部屋に強盗が押し入り、電動式チェーンソーを振りかざして一家を惨殺する事件が起きた。凄まじい血の惨劇だった。単なる物盗り目的でありながら、まるで積年の怨みを晴らすかのように、一家の死体は原型を留めないほどズタズタのミンチにされていた。いったいどんな悪意があれば、どんな絶望があれば、あれほどの非道を行えるのだろう。犯人は、まだ、捕まっていない。
公営住宅を覆い尽くした血の臭いが、茉莉の躯にまで染みついていく。一歩まちがえば、じぶんがあんなふうに殺されていたのだ――それは言い知れぬ恐怖だった。
跫音は、なおも部屋に迫っている。敵意にみちた跫音だった。憎悪をこめて、蹴りつけるような跫音だった。
その跫音が、ぴたり、とやんだ。静寂が茉莉の頬をそっと撫でる。
茉莉はゴクリと唾をのんだ。跫音がやんだのは、まちがいなく、茉莉の部屋の前だったから。
扉越しに、男の荒い息遣いが伝わってくる。
ガチャッ。
ドアノブを握り、むりに開けようとする金属音が響いた。
しだいに、呼吸が、乱れていく。
扉を叩き、揺らす音は、苛立つように激しさを増していた。扉越し、じかにみてはいなくとも、その人相が憎悪にみちているであろうことが、直感でわかる。
安普請の公営住宅だ。その古ぼけた扉は、住人を守るためには、あまりに頼りない。
暴力的なノックの音は、幼い日の茉莉のトラウマを、容赦なく抉り出す。
小学生のとき、彼女はよく似た恐怖を体験している。同級生たちから掃除用具入れのロッカーに閉じこめられ、外から戸を何度も何度も延々と蹴り続けられたのだ。
ロッカーのなかから、同級生たちの顔は見えない。だけど、おそらく、みんな嗤っていたのだろう。悪意にみちた笑顔で、仲間たちとともに、弱者をいたぶる快楽に酔いしれていたのだろう。
蹴りつける強さは、しだいしだいに増していった。真っ暗闇で息が詰まるような狭い場所のなか、身を切るように鳴り続けるかまびすしい金属音――。
直接的な痛みがあったわけではない。ただ、恐ろしかった。なぜ同級生たちがじぶんをここまで憎むのか、彼女にはわからなかった。元来おとなしい気質の彼女には、他人への憎しみという感情自体が、理解できないものだったから。
彼女は、だれかを傷つけたことなんてない。傷つけようとしたことさえ、なかった。いつだって、傷つけられる側だった――たいした理由なんて、なにもなくても。
あの忌まわしい幼い日、彼女は声も出せなかった。助けも呼べなかった――もちろん、呼んだところでだれかが助けてくれるはずもなかったのだが。身を竦めるしかなかった。泣き続けるしかなかった。恐怖のあまり髪を掻き毟るその指の間に、じぶん自身の血の温もりと粘りを感じながら。
窓から――逃げよう――胸を抉るような痛みを堪え、茉莉はわれに返った。いまは、悲しい思い出に浸っているようなときではない。
そっと窓を見上げると、真っ赤な空が嘲笑うように茉莉と慎太を見下ろしている。
彼女の部屋は、二階である。飛び降りたとしても、死ぬことはあるまい。せいぜい、足を痛めるぐらいだ――しかし、茉莉の足は動かなかった。恐怖、それもある、だけどそれよりも茉莉を部屋に繋ぎとめていたものは――幼い慎太の怯えた表情だった。
じぶんは足を痛めるぐらいで済むだろう。だけど、幼い慎太は? かれはまだ、六歳だ。幼稚園児なのだ。飛び降りることなんて、とてもできないだろう。うまく着地するなんて、できっこない。かといって、さすがにかれを抱えて飛び降りれば、ふたりとも無事では済まないだろう。
子どもを置いて――逃げる――?
最悪の考えを、必死で打ち消す。
そんなこと、できるはずがない。じぶんしか、慎太を護れる人間はいないのだ――あふれ出す母性愛が、彼女の手をそっと力なく引きとめた。
――闘うしかない。
茉莉が手にしたものは、大きな裁縫バサミだった。夕陽を浴びて、錆びついた刃が鈍く光る。
ガガンッ!
耳をつんざくような轟音が、部屋の壁を揺るがした。
痺れを切らした男がついに、扉を蹴破ろうとしているのだ。
その音から、男が相当の体格と腕力を持っていることがわかる。
錆びたハサミ一本で、追い払うことができるだろうか?
いや――できる、できないではない。
やるしかないのだ。
あの幼い日、悪意と暴力に晒された彼女は、泣くことしかできなかった。震えることしか、できなかった。だけど、それは間違いだ。彼女のトラウマは、苛めに遭ったことではない。それに対してなにも抵抗できないじぶんの弱さへの後悔が、いまに至るまで、彼女の心に常に影を落としてきたのだ。
茉莉は幼いころから、ずいぶん寂しい思いをしながら生きてきた。彼女はどんくさい気質で、いつも年齢よりも幼くみられて――両親から、愛された記憶もない。期待された、記憶もない。なにかをしようとするたびに「おまえにはむりだよ。なんにもできやしないよ」と、すべてを取り上げられてきた。夏休みの自由研究の工作――あれはすべて、父がやったものだ。「おまえにはむり。怪我をするだけさ」――そう嗤いながら。だけど、茉莉は、じぶんでそれを作りたかった。たとえどんなに拙くても、じぶんの手で。そして、できることなら、褒めてほしかった。認めてほしかった。出来がどんなに悪くても、ただ、頑張ったことだけは。努力したことだけは。
成長する機会を奪われてきた彼女は、同級生たちからの尊敬を勝ちうることもできなかった。対等の立場として接してくれる友人も、心から信頼できる親友も、得ることはできなかった。彼女はいつだって、ひとりぼっちで、寂しい思いを噛みしめてきた。失ってばかりの人生だった。
なのにいま、やっと手にした幸福、家族を、理不尽な暴力で失うなんて、けっしてあってはならないことだった。
必死に恐怖を呑みこみ、乱れる呼吸を懸命に整える。
あの幼い日の後悔を、いまもう一度、くり返すわけにはいかない。
茉莉は元来、気の弱い女だ。争いごとを避け、他人に道を譲って生きてきたタイプの女である。
だけど、慎太だけは、愛する家族だけは、だれにも譲ることなんてできない。
華奢でか細い茉莉の腕に、みるみる激情がみなぎっていく。
それは――二度めの轟音が鳴り響き、扉が蹴破られたのと、ほとんど同時だっただろう。
茉莉は慎太をその場に抛り捨てた。
扉の陰に、黒い服を着た巨躯の男が立っていた。
その顔は、ぞっとするような敵愾心にみちている。
野犬のように獰猛な男の表情を一瞥し、茉莉は一瞬、怯えるように躊躇した。
しかし、すぐにありたけの勇気をふり絞り、裁縫バサミを高く振り上げ、両眼を大きく剥きながら、怪鳥のような嬌声を上げて、巨躯の男に踊りかかっていた。
男の手に拳銃が握られていることに気づいたのは、そのすぐあとのことだった。――
*****
「即死……ですね、
血みどろの女の死体を見下ろし、スーツを着た優男が呟いた。
南部と呼ばれた巨躯の男は、物憂げに溜息をつく。
凄まじい臭気が部屋に立ちこめていた。大量の血の臭いである。
鉄のような、それでいて生臭いそれが鼻をかすめ、いましも胃液を逆流させようとする。
女の死体は、死してなお裁縫バサミを強く握りしめ、血まみれの床に伏しながら、凄まじい形相でふたりの闖入者を睨みつけていた。
けっして、美しいとはいえない女だった。いや、多くの人間にとっては、醜い女、といえるだろう。それがいったいどういうことか、考えてみるのは残酷なことだった。
やれやれだ――南部は忌々しげに部屋を見まわす。
床も、壁も、家具に至るまで、何処も
ちゃぷり――踏みこんだ革靴のなかに滲みこんできそうなほどの凄まじい血の海だ。
そこに沈んでいるものは――醜い女の死体ばかりではない。
彼女を囲むように、部屋を埋め尽くすように、おびただしい数の子どもの屍骸が、至るところに転がっている。
五歳か六歳、いや、それより幼いものもあるだろう。
その数、十や二十では、到底足りそうにはない。
特に損傷が激しいのは、血まみれの園児服を着た、六歳ほどの子どもの死体である。
逃げられないようにするためであろう、手足を切断されたその惨めな姿は「芋虫」というほか、形容する言葉が見つからない。
胸には「しんた」と名札がつけられている――恐怖に怯え、一秒で百も齢をとったような不気味な表情を、幼い顔一面に貼りつけながら死んでいる。
「いったいなんだってこんな……」優男が眼を背け、呟いた。
南部は、なにも答えなかった。
答えられるはずがない。近ごろの世の中ってのは、まったく、わけのわからないことばっかりだ。
窓のむこうの夕陽が、漸くにして沈みきった。
この世ならざる凄惨な光景を、暗闇のヴェールが、やさしく覆い隠していく。
無線機を取り出し、陰鬱な表情で、南部はかれらのボスに力なく報告した。
「抵抗に遭い、やむなく射殺……幼児連続誘拐殺人事件の容疑者は、無職、
窓を震わせる不穏なサイレンが、そこで、漸く、鳴り止んだ。(了)
2008年、原稿用紙換算18枚
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