平和すぎて死ねる

 物事にはなんだって限度というものがあるのだ。ぼくは深い憂鬱を、溜息にして吐き出した。町はきょうも平和だった。絶望的に平和だった。公園には子どもたちが駆けまわり、晴れきった空は奇跡のように青かった。なにからなにまでいつもどおりの、のどか極まる昼下がり、ぼくはとっくに伸びきったラーメンをだらだらとすすりながら、なんの気なく時計を眺めていた。時計の針の動きさえ、覇気なく緩慢に感じられた。

「退屈ですねえ」

 こんどは溜息ではなく、ぽつりとぼくは声に出した。

 交番内のゆるんだ空気は、埃ひとつぶんたりと動かない。大岡巡査長はデスクにもたれいびきをかいて眠っているし、石野先輩は朝から何度もくり返し読んだ新聞をまだしぶとく眺めている。井伏警部補に至っては、動画サイトでアイドルのPVをくりかえし眺めている始末である。しかしまさにこれこそが、かれらの平均的な一日のおもな仕事内容なのだ。二十一世紀のデカダンス!

「退屈にもほどがありますよね」

 ぼくはあえてもう一度、声を張ってそういった。

「仕事がないのはいいことじゃないか。おれたちは、警察官なんだぜ」

 ロイド眼鏡の位置をしきりに直しながら答えたのは井伏警部補である。四十二歳、独身の厄年。アイドルの動画を肴にオタ芸を打っている場合ではないが、いっていることは正論だ。ぼくらの仕事は暇がいちばん、事件が起こらないに越したことはない。だけど、どうしてこんなに苛々するのだろう。胸の中で、なにかがくすぶっているような、そんな奇妙な違和感である。

「む!」

 新聞を読んでいた石野先輩が、ふいに大きな声を上げた。

「どうしたんです、石野先輩! なにか事件ですか!」

「上野でカピバラの赤ちゃんが生まれたらしいな……」

 ぼくはデスクに頭を突っ伏して、口を閉ざした。

 交番のだれも心配なんぞしてくれないが、近ごろのぼくは、溜息があふれて止まらない。五月病かとも思ったけれど、世間はすでにお盆休みの最中である。二十代にしてまるでリストラ候補の窓際部署にいるようだ。こんな交番にいたのでは、躰も頭も錆びついてしまう。まいにち事件もなく、仕事もなく、一日が過ぎゆくのをただ待ち続ける日々。正義の味方に憧れて、晴れて念願の警察官になったというのに、なんたるやりがいのなさであろうか。そもそも正義というのは悪という対立概念があってはじめて存在しうるものであり、正義と平和はけっして共存しえない性質のものではないのか。平和のために命懸けで仕事にうちこんだとしても、じっさいに平和になれば警察官は用済みになってしまう。つまり正義の行いとは正義の駆逐そのものにほかならないのだよ。翻って、ぼくってもう、生きてる意味がないんじゃないか。ただ、いっさいは過ぎていきます。人間失格。いっそ死にたい。思考が泥沼にはまりこみ、加速度的に気が滅入ってきた。

 日本はあまりに平和すぎる。治安の悪さ的にいまアツいのはソマリアだとかヨハネスブルグらしいけど、公用語はいったい何語だろう。食事はおいしいのかな。えい、考えるのさえめんどうだ。けっきょくこのまま先輩たちのように、この田舎交番で無気力に老いさらばえていくだけなのか。

 きょう何度めとも知れぬ溜息を洩らした、そのときである。

 交番内に、婦人警官マリコちゃんの色っぽい声がこだました。

「みなさーん、たったいま県警本部から出動要請がありましたー。逃走中の被疑者が盗難車で国道十三号線に入ったとのことですーぅ。盗難車の特徴は国産の青い軽自動車で……」

 とたんにみんなの目つきが変わった。言葉が終わるのさえ待たず、その場にいた全員が力強く立ち上がる。

 バン! ロッカーを勢いよく開ける音が、同時に四つ鳴り響いた。

 ぼくはM16A4を取り出し、二〇発入りのマガジンを装填した。死のように黒い銃口が、応えるようにぎらりと光る。三.五キロと軽量ながら防弾素材への貫通力に優れたM855弾を一分当たり九〇〇発の速度で連射できる世界ベスト・セラーのアサルト・ライフルである。

 石野先輩はひと際長い銃身が目を引くアンチマテリアル・ライフルを抱え、小気味よい金属音とともにスコープを装着した。XM109。コンクリートの壁ぐらいなら貫通して目標の狙撃が可能、かすっただけで手足がちぎれ飛ぶあまりに凶悪な殺傷力ゆえに戦時国際法では対人射撃が禁止されているがいまは戦時ではないのだから知ったことか。最大射程は驚異の二四〇〇メートル、だけど狭い日本でその無駄に凄い性能が役立つことは、まずない。

 大岡巡査長が豪快に肩に担いだカーキ色の大筒はM136AT4対戦車無反動砲である。一発撃つたびに使い捨てなければならないなんとも地球にやさしくない仕様だが、破壊力は圧倒的だ。なんせHP弾でRHA換算六〇〇ミリの防弾装甲を貫徹可能。いわんや、国産の軽自動車など爆風だけでトルネードに遭ったように吹っ飛んでしまうであろう。

 井伏警部補のこだわりの一品はFIM-92Aスティンガー携行対空ミサイルだ。最大上昇高度は三二〇〇メートル、赤外線ホーミングで航空機に対してきわめて高い命中精度を誇るが、国道を走る軽自動車相手にこんなの持ち出していったいなにをする気なのか、ベテラン井伏警部補の腕の見せどころである。

 そしてぼくらは一斉に駆け出し我先にとパトロール・カーに乗り込んだ。米軍の高機動多目的装輪車HMMWVハンヴィーM1046を白と黒のツートン・カラーに塗り分けた世界最強のパトカーである。重量約二.五トンながら路上最高速度は毎時一〇〇キロ、敵火力や地雷に耐えうる装甲をまとい、車体上面部に装備されたTOW対戦車ミサイルは着弾時にHEAT弾頭を起爆、メタル・ジェットを発生させ戦車の装甲をも貫徹してしまう。国産軽自動車なら貫徹以前に紙屑のように吹き飛んで木っ端微塵のばらばらであろう。もっとも、軽自動車相手に、こんなもん使う必要性はまったくないわけだが。

 アクセルを踏みこみ、サイレンを鳴らしながら、ぼくらは全速力で現場へと急行した。沸騰するみたいにアドレナリンが脳にみなぎり、怒涛のごとく血管を激流していく。残虐非道の悪人め、正義の、正義の、正義の裁きをくらうがいいぞ。シャブを喰らったみたいに澱んでいた心が晴れ、憂鬱はどこかへ消し飛んだ。そうだ、ぼくの求めていたものはこれなのだ。正義とは、つまり闘いそのものなのである。

四人ともみんな、満面の笑みだった。まともな仕事はおそらく三年ぶりぐらいだろうか。ぼくらは、仕事に、事件に飢えていた。

 十年前のことである。際限なく多発化・凶悪化する犯罪に対抗するため、日本警察は旧来の装備を一新、大幅に強化した。米軍からおさがりの武器を大量に買いこみ、それらは惜しみなく現場に配備された。で、配備されきってようやく気づいた。勢い余って強化しすぎた、と。いったいどこの犯罪者が地雷や戦車で警察に武装抵抗するというのか。まったく、組織の上の人間というものは、いつの時代も現場の事情にはからきし疎いものなのである。反省しろ。

 かくして、日本警察は戦力的に自衛隊を超えた。治安維持組織というよりは、もはや米軍国連軍に次ぐ規模の軍隊である。いまや日本の治安を脅かそうと思うなら犯罪者側もステルス戦闘機F/A-22ラプターあたり二十機ほど調達されたい。ちなみに同機の値段は一機あたり約二三六億円である。調達できるもんならしてみろ、馬鹿野郎。閑話休題。いずれにせよ、さしたる問題はなかった。大は小を兼ねる。強化しすぎた点に目を瞑れば、武装強化の効果はすこぶる覿面だった。日本警察の圧倒的軍事力を前に、犯罪者たちはすくみ、怯え、震え上がり、その年から犯罪件数は軒並み激減した。暴悪な民の上に暴悪な法あり。人類史上、だれもが求め、ついに訪れたスーパー平和タイム。しかしそれは、しかしそれは、とってもストレスが溜まるのだ。

「被疑者発見しましたー!」

 運転する石野先輩が前方を走る逃走車のナンバーを確認してそう叫んだ。HMMWVハンヴィーの速度は遅いが、車の多い国道十三号線ならどっちにしろ逃げきれるわけがない。痩せこけた被疑者はこちらをふり返り、怯えた表情を見せながら、必死に運転席であがいている。ナイス・リアクション。かれの表情がぼくらの持て余していた攻撃性の焔にガソリンをぶち撒けた。

 正義とは闘い――ああ、ああ、いやいや前言撤回。それは欺瞞だ、正義とはとどのつまり、狩りの本能である。文明がいくら発達しようとも、ぼくらは弱者を狩りたがる宿命から、けっして逃れられやしないのだ。アオバアオバ、アオアオバ。ぼくらはネアンデルタール人のように吠えた。

「じゃあとりあえずおれから撃ちますね、お先失礼します」ぼくはM16A4自動小銃のコッキング・ハンドルをがちゃりと引いた。

「ばか。先輩を差し置いてなにいってんだ」石野先輩がハンドルを離して押しのける。

「待て待て。ここはひとつ、ジャンケンで決めよう」と、ロイド眼鏡の位置をしきりに直し続ける最年長の井伏警部補。

「ジャンケンポン」

「よし、おれだァ!」

 大岡巡査長は嬉々とした表情で対戦車無反動砲を肩に構えた。


 こーろーせっ!

 こーろーせっ!


 HMMWVハンヴィー車内に拍手とともに、殺せコールが巻き起こる。

 瞬間、眼も眩まんばかりの閃光が駆け抜け空気が震えた。前方を走る逃走車は轟音とともに爆発炎上、木っ端微塵に消し飛んだ。

「あれ? もう撃ったんですか?」石野先輩が面食らったようにそういった。「もうすこし、いたぶってから当ててくださいよ。演出ってもんがあるでしょうに」

「ちがう――あいつらだ、先を越された!」

 ぼくらは眼前に迫る光景に息を呑んだ。

 渋滞の向こうから逃走車の行く手を阻むように砂漠迷彩をあしらった巨大な甲虫どもが煙を吐いて突進してくる。全備重量六八.五トンにして最高時速六七キロ、出力一五〇〇馬力の怪物の群れが傍若無人にも国道を逆走。無関係の民間車輌をベニヤ板かなにかのように蹴散らし、引きちぎり、踏み潰しながら驀進するそのさまのなんたるふてぶてしさか。かれらこそ、誰あろう、ぼくらのにっくき宿敵である隣り区域の交番のM1A2エイブラムス主力戦車大隊である。

 見よ、あの禍々しいばかりに巨大な砲身を。まるでそそり勃つ鉄の男根である。うら若き処女ならば目にしただけで「犯された」と泣き崩れても不思議はない規格外の巨根、四四口径一二〇ミリ滑腔砲、そこから射出されるHEAT-MP、多目的炸薬榴弾は音速をはるかに超え砲撃音さえ置き去りに神々しいばかりの一条の光と化して貧弱な軽自動車を直撃、衝撃に反応した成型炸薬が爆発し、超高速の爆風によって逃走車は無惨にも大気浮遊粒子エアロゾルレベルまで粉々に分解、わずかな残骸だけを跡に、この世からキレイサッパリ消滅したのである。想像を絶する爆破衝撃で半径一〇〇メートルに四散した軽自動車の残骸は、濛々と黒煙を噴きながら真夏のアスファルトに飴のように溶け落ちていく。

「危ねえええ! さっきのが劣化ウラン弾だったらおれたちまで高濃度放射線被曝もんだぞ!」大岡巡査長が戦車に向かって立ち上がって叫ぶ。

「ま、みんな独身なんだし、精子に異常が出ても特に影響は」眼鏡のずれを直し直し、井伏警部補は動じない。

「そんなことより、あれ、あれ」運転席の石野先輩が歩道を指差した。

 一陣のやさしい風がうしろへ吹き抜け、車内の四人ともが息を呑んだ。

「奇跡だ」

 凄まじい爆風によって逃走車から吹っ飛ばされた被疑者が、歩道脇の植えこみに引っかかっていたのである。

「しかも、生きてる」

 さながらいま生まれた仔馬のように、被疑者は呻きながら立ち上がろうとしていた。よく手入れされた植えこみがクッションとなって、ほとんど無傷で済んだのである。HMMWVハンヴィー車内に拍手と歓声が沸き上がる。

「いやあ、無事でよかった、運がいい!」

 石野先輩が被疑者に駆け寄るべく、アクセルをめいっぱい踏み込んだ。

 痩せこけた被疑者がこちらに気づき、助けを求めて手をふった。

「ああ、運がいいな――おれたちって!」

 大岡先輩が哄笑とともに対戦車無反動砲を構え直した。

 蒼白の顔を絶望にゆがめ、被疑者は女みたいな悲鳴を上げる。

 うひひひひひひひ。

 うははははははは。

 哄笑は伝染病のように、あっという間に車内に蔓延した。石野先輩に至っては、ハンドルから両手を離し狂ったように拍手をしている。大義を盾にしろ。無法の世界。お祭り気分で徒党を組んで、決めた標的を追いかけまわして火をつけろ。正義と狂犬は紙一重。ああ、そのときだけ、そのときだけ、ぼくらは生きているって実感を得られるのだ。アーメン、神さま、きょうの糧に感謝を。ぼくらは、正義を、遂行する!

 そのときである。空を割るような轟音とともに、辺りに日暮れのように影が落ちた。

「この音は……」HMMWV《ハンヴィー》車内に緊張が走る。

「まさか!」

 見上げると、死臭を嗅ぎつけた巨大な深緑色のハゲタカの群れが七機ばかり編隊を組んで飛んでいた。よせばいいのに所轄署から援護に駆けつけた戦闘ヘリ、AH-64Eアパッチ・ガーディアンである。メイン・ローター上のミリ波レーダーを不気味に作動させながら軽自動車の残骸周囲上空を旋回。被疑者の姿を捕捉するや、狂ったように辺りかまわず手当たり次第、ヘルファイアⅡ対戦車ミサイルを乱射しはじめた。爆音が鳴り響くたび空気が震え、無関係の民間車輌も巻き添えとなってミニカーみたいに吹っ飛んで砕け散る。火薬とガソリンの臭いが国道を覆い、あっちで炎上、こっちで爆発、もはや誤射とか誤爆とかの言い訳と謝罪で済むレベルの話ではない。

「くっそー! またあいつらか! てか、戦車とか戦闘ヘリまで出動する意味あんのかよ?」大岡巡査長は地団駄を踏んだ。

「まあ、対戦車無反動砲撃つ意味もまったくないんだけどな」井伏警部補は終始、冷静沈着だ。

「そーいやおれたちも道すがら何人か轢き殺してるしな。ところでさーマリコちゃん?」石野先輩が無線に向かって問いかけた。「結局、なにやったのよ、あの被疑者って」

「えーとぉ、いま入った情報によりますとぉー」無線の向こうでマリコちゃんが色っぽく答えた。「牛丼の食い逃げだそうですよ」

一座は一気にしらけきり、さすがに後味の悪さで車内は葬式のごとく静かになった。

 国道を揺るがす爆音はいまだ収まらない。被疑者の奪い合いで逆上した戦車大隊と戦闘ヘリが、ついに互いに撃ち合い戦闘状態に入ったのである。アスファルトは砕け、民間人は泣き叫ぶ。テンションの下がったぼくたちは、ただただ傍観するほかなかった。

「さすがに怒られそうですよね、これ」

「すんだことだ、くよくよするな。こういうときは『対応は適切だった、被疑者の死傷その他もろもろと警察の制圧行為に因果関係はない』って答えとけばまちがいないから」

 ベテランの井伏警部補は余裕の表情でロイド眼鏡を拭いている。ぼくらは日本警察の歴史を体現する井伏警部補の言葉の含蓄に、うーん、と思わず唸らされた。

 物事にはなんだって、限度というものがあるのだ。ぼくは深い憂鬱を溜息にして吐き出した。

 町はきょうも平和だった。絶望的に平和だった。奇跡のように青い空の下、戦火と血と肉片だけが、黒いアスファルトに赤々と映え続けていた。(了)




2005年、原稿用紙換算18枚

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