列車が来ない
「人身事故のため、列車の到着が遅れております。申し訳ありませんが、もう暫くお待ちください」
ホームに流れる無機質なアナウンスがぼくの苛立ちに油を注ぐ。二時二十三分に来るはずの列車はすでに、三十分も遅れていた。
まるで廃駅であるかのように、ホームには人の気配がなかった。そういえば、改札を通ったとき、駅員の姿はあっただろうか――それさえもう、思い出せない。まるでだれもかれもがこの小さな町を見捨て、何処か遠くへ去ってしまったかのような静けさだった。
薄汚れた黄色い点字ブロックを踏み超え、列車がやってくるであろう錆びた線路の先をじっと見据える。鮮やかな緑に挟まれることで、線路の枕木が余計に醜く朽ち果てて見えた。田園の向こうの丘の上にはこの田舎町に不似合いな灰色の建物がそびえている。冷たい風がひやりと、ぼくの頬を撫でて消えた。もう初夏だというのに、冬のような寂しい風だった。
瞬間、背中にぐっと力がかかった。ぐらりと躰が揺らめいて、鉄の線路が目に迫る。
ゾッ――と下腹部が冷えた。なんとか踏ん張って、ホームの端に踏みとどまる。
振り返ると、まるまると肥った男が、ぼくの肩を掴みながらにやにやと嗤っていた。
よれよれの半袖シャツは汗で肌に張りつき、銀縁眼鏡のレンズは皮脂で白く曇っている。肩からは――おそらくオリンパスOM‐4であろう――無骨な一眼レフカメラと灰色のメッセンジャー・バッグをぶら下げている。
「兄さん、危ないよォ」
縮れた短髪を掻きながら、肥った男はくぐもった声を上げた。
「下がりなよって。ホラ、白線の内側まで――さ」
肩を掴む大きな手に、みるみる力がこもっていく。
男の言葉に従って足を引くと、かれは顔を近づけ、銀縁眼鏡の奥の澱んだ眼で、食い入るようにぼくを見据えた。
「いや――兄さん、事情をよく知らないようだと思ってサァ」
「事情?」
「この路線な――よく遅れるんだよ。電車がさ。なんでだと思う?」
男の口臭がつんと鼻をつく。
ぼくはかぶりを振った。男はへへへ、と下卑た声で嗤う。
「自殺だよ。ここは飛び込み自殺の名所なのさ」
「名所――だって?」
「そうさ――おれたち鉄道マニアの間じゃあ有名な話。この路線はな――異常に自殺が多いんだ。いわゆる心霊スポットだよ。最初はおれも、信じちゃいなかった。ただの噂だと、思ってた。だけど、この駅はほんものだ。撮影で通っているとわかるが、じっさい毎日毎日だれかしら、ひっきりなしに飛びこんでる。夏の真ッ昼間に、十五人立て続けに死んだこともあるんだ。炎天下、駅員たちが血まみれになって、胃液まで吐きながら死体の処理に励んでたよ。そのうちひとりが精神破綻して、その日の夜に、同じ路線に飛びこんだってんだ。呪われてるとしか、思えねえやな。ほら、世の中、心霊写真ブームだろう。もう電車よりいっそソッチを狙ったほうが、金になるんじゃないかって思ってるよ。えっへっへっへェ」
男は早口でそう捲くし立て、肥った躰を揺らす。不気味なことに、嗤えば嗤うほど、ぼくの肩を掴む手に力がこもっていく。
「面白い怪談があるぜ」
男はふいに嗤うのをやめた。
「ついきのう、女がひとり、やっぱり線路に飛びこんだんだ。枯れ枝みたいに、細っちい女だった。水風船みたいに破裂して、五体がバラバラに飛び散った。辺り一面、血の霧さ。列車の白い車体を、真っ赤っかに染め上げた。あの細い躰の、何処にあれだけ血が詰まっていたんだろうな? 悲鳴みたいな音を立てながらようやくブレーキがかかったが、まるで死者の怨霊が電車を止めたように見えて不気味だった。駅員どもが必死になって、死体をかき集めたよ。ジグソー・パズルみたいに組み上げてね。だけどねえ、奇妙なことに、左手だけが見つからない。何処を探しても、ありやしないんだ。そのうち駅員たちもあきらめて、見つからないまま電車の運行を再開した。不気味だろ? いったい、何処へ行ったんだろうね、死体の左手はさ? いろんな噂が立ってるぜ。死体の左手だけが這いずってあちこち徘徊してるんだとか――あるいは、死体マニアのサイコ野郎が持ち帰ったんだ、とかサ」
そういって男は肩に下げる灰色のメッセンジャー・バッグに手を突っこんだ。そして、舌を出して蛇のように動かしながら、中をさぐるように手を動かしてみせる。
ぼくは不快を隠すことなく、肥った男を睨みつけた。
「冗談だよ、兄さん。冗談」
男はバッグから手を出した。なにもない手のひらをこちらに向け、悪戯っぽく、へへへ、と嗤う。
「持ってないさ、そんなもの。おれが持っているとでも思ったかい? おれが死体マニアのサイコ野郎だとでも?」
ヒッヒッヒ――と声を上げて男はまた嗤う。
「しかし不思議だねえ――死体の左手の行方もそうだけど、この駅は人が死にすぎる。不自然だ。兄さん、そう思わない? 心霊スポットなんて半信半疑だったけど、これだけ人が死にまくるんだ。この駅にゃ、ほんとう、なにか――」
「あんた」
肩を掴む男の手を睨みつけながら、ぼくはぽつりと言った。
「その人たちが飛び込むのを、ただ、見てただけか? 後ろから――こんなふうに?」
「おいおいおいおいおいおいおいおい」
男は頓狂な声を上げた。しかし、ぼくの肩から手を放す気は、さらさらないようだった。
「おれが突き落としたような物言いはやめてほしいな。たしかに、そうとでも思わなきゃ、納得できないような人の死にかただがね。いちどはおれも警察に疑われたが、運転士が証言してくれたよ。おれは突き落としたりなんかしていない――ただ、写真を撮ってただけだ、ってね」
「ああ、気を悪くしたらすまない――そんなつもりで言ったんじゃあないんだ」
ぼくは眼を伏せ、申し訳なく思った。
「写真――ねえ。それでいい絵は撮れたのかい? その、心霊写真とやらは」
「きのうのはまだ、現像は、しちゃいないんだよ。でも、もしかしたら、なにか写ってるかもしれないな。自殺した女の霊が写ってたら、最高におもしろいけどね。ま、それがだめでも、死体写真ってだけで、海外のマニアは高く買ってくれるんだ――若い女なら、なおさらさ」
男は躰を揺らして、しゃっくりみたいな不快な声で嗤い転げる。
電車はまだ、やって来ない。遠くを走る音さえも、聞こえない。
もう、うんざりだ。
ぼくは線路の先を見つめた。のどかで、美しい町だ。呪われた場所だなんて、とても信じられないぐらいの。
「怪談の真相なんて――いつだって案外、なんでもないものだよ」
ぼくは呟くように、そう言った。
「なんだって? なにか知ってるのかよ、兄さん」
「その女には」じらすようにひと呼吸置いて、言葉をつぐ。「元から左手なんてなかったのさ」
「なんだって?」
顔を歪める男を、ぼくは冷ややかな眼で見下ろした。いつのまにか、男はぼくの肩からすっかり手を離している。
「女はひどく精神を病んでいた。美しい女だったけど、じぶんのことをひどく醜いと思い込んでいた。なにも悪いことなどしちゃいないのに、呑みこまれるような罪悪感にとり憑かれていた。醜いじぶんを傷つけ、罰すことでしか、心の平静を保てなかった。煙草の火を手の甲に押しつけたり、カッターで手首を切ったり――そんな自傷行動の果てに、女はついに正気を失った。自身の左手を、包丁でみずから切断しちまったんだ」
「馬鹿な! じぶんで切断だって?」
「そう思うだろう? 女性の精神病者の多くにリスト・カットって症状があるが、こんな極端な例は、きわめて稀さ。たいていは血管まで切って、血を見れば満足するものだけどね。でもねえ、まったくありえないって話でもないだろう?」
こんどはぎゃくに、男の左手を掴み上げ、顔を寄せながらぼくはいった。
「人間の手を切断するなんて、ちッとも難しいことじゃあないんだぜ。骨を避けて関節に刃物を食いこませれば、女の力でも、たやすく切断できるんだよ――!」
肥った男は、もう、嗤っていなかった。ぼくは構わず舌なめずりしながら饒舌に言葉をついだ。
「この路線で自殺者が多い理由ってのもタネがわかればなんでもない話なのさ。丘の上に――大きな灰色の建物が見えるだろう? あれは精神病院だよ。重度の患者たちばかりが収容される、閉鎖隔離病棟だ。多くは難治性鬱病だとか人格障害なんだがね、あちこちの病院で治る見込みなしと匙を投げられ、家族にも見捨てられたこの世のクズの掃き溜めってわけだ。精神分裂病、って知ってるかい? 頭のなかで『死ね、早く死ね、死ね、早く!』って幻聴が聞こえたりするんだぜ! しかも本人にはそれが幻聴なのか、ほんとうの声なのか、判別できないんだ。答えがわからないから、だからなおさら恐ろしいのさ。いまでもあの病院じゃあ、電気ショックが頻繁に行われてる。治療じゃあないぜ、患者を大人しくさせるための懲罰として行われているんだ! 毎晩毎晩、廊下に悲鳴が響くなか、みんなその悲鳴がじぶんのものでなくてよかったと胸を撫で下ろしながら過ごしている。もちろん、脱走する患者も少なくない。だけど、かれらはいったい何処に逃げればいい? この世の何処にもかれらを受け入れる場所なんてないんだ。脱走して初めて気づくのさ、じぶんたちの居場所は、どんなに人間扱いされなくとも、あの灰色の巨大な牢獄のなかだけだったんだ、ってね。かれらは死を決意する。死を決意するなんて簡単だ、だれもかれらが生きることを望んでいないんだから。かれら自身でさえ、望んでいないんだ! その瞬間、かれらの生は、価値と意義を残らず失ってしまう。塵よりも軽くなッちまうのさ! かれらは、すべての希望を見失って――病院からいちばん近いこの線路の前に立つ。泣きながら! じぶんたちの人生を呪いながらだ!」
「兄さん……」
へへ、と男は手の甲で額の脂汗を拭い、卑屈に嗤う。
「冗談……だろ? でたらめ……だよな? 悪かったよ、おれが脅かしたからって、子どもじみた仕返しなんてやめてくれよ。な……?」
肥った男は憐れみを誘う表情で後ずさりした。だけどぼくの右手はかれの左手を掴んだまま、さらにぎりぎりと万力のように力をこめていく。
「でたらめじゃあない」ぼくは静かにそういった。「会ったことが、あるんだ」
「だ、だれに?」
「きのうここで死んだっていう、左手のない女にさ」
「会ったって……」肥った男は、ごくりと唾を呑みこんだ。「いったい、何処でだよ?」
ぼくは田園の向こう、丘の上を指差した。
「あの――灰色の精神病院でさ」
電車が通過いたします、白線の内側までお下がりください――ざらついたアナウンスが冷たく響いた。
空気を震わせながら、白い車体の電車が迫る。
やっと来たな――ぼくは嗤った。車体の前部が、まだ赤黒く染まっている。まちがいない、きのうのこの時間に、彼女を轢き殺した痕だ。
彼女の血と脳漿の痕。粉々に破裂した内臓の痕。この世でたったひとり、ぼくにやさしく微笑みかけてくれた彼女の。ぼくが人生でただひとり愛した、やさしく、儚い、あの彼女の。
「あんたには気の毒なんだが」ぼくは視線をそらし、ぽつりといった。「彼女の死体写真を、晒しものにするわけにはいかない」
肥った男は怪訝な顔をした。
かれの理解を助けるため、瞬間、ぼくは駅のホームを強く蹴った――男の手を握りしめたまま。
足場を失った空中で、男は恐怖で顔を歪めた。女みたいなその泣き声が、なんだかひどく可笑しかった。
錆びた鉄の線路に降り立ち、猛然と迫り来る電車を睨みつける。
きのう彼女を轢き殺したのであろう運転士と、フロント・ガラス越しに確かに視線が重なった。
巨大な鉄塊に引きちぎられ、粉々のミンチになる瞬間、彼女は悲しかっただろうか。悔しかっただろうか。それとも、生き辛いこの世からの解放を、心の底から安堵しただろうか。
ぼくにそれを知る術はない。
だけど、すくなくとも――彼女が感じた痛みだけは、理解することができるだろう。それだけは確かだ。それで、じゅうぶんだ。
それだけで、ぼくのこの死には意味がある。
鉄の轟音が唸る。シャツの裾が命乞いするように激しくはためいた。急ブレーキの甲高い音が、悲鳴のように響き渡る。
「ようやく、きみとひとつになれるな」
そっと眼を閉じ、胸に込みあげる歓びに、声を上げながらぼくは嗤った。(了)
2008年、原稿用紙換算15枚、5005字
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