愛玩生体人形『片眼のリンネ』(3)
「みなさんのお役に立ちたい、いつでもみなさんの身近な存在でありたい、ただそれだけです」
十年前、クローン・メイド量産のための細胞提供に応じた際、有栖川マリーはマスコミに向けてそう語った。子どものように無垢な、澄んだ笑顔だった。これから多くの男たちに、自身の分身を陵辱されるであろうことを、まったく知らないような微笑みだった。
世間は騒然とした。クローン・メイド量産の話は以前からきかれていたが、せいぜい無名のポルノ女優のクローンが関の山だと思われていたからだ。銀幕の女王として君臨する有栖川マリーがそんなオファーを受けるとは、いったいだれが予測できただろう?
「勇気ある行動だ」あるマスコミがそう意見を述べた。
「美しい献身だ。まるで、天使だ」
残りのマスコミたちも堰を切ったように感嘆の声を上げた。
以後、クローン・メイドへの細胞提供は、トップ・スターたちの最上のステータスとして扱われるようになる。
クローン・メイド『リンネ』は大々的に発売された。ファンのみならず大勢の男たちが店に行列を成した。もちろん安い価格ではなかった。だが、いつの時代も美ほど経済を激しく動かすものはない。『リンネ』初回生産分は世間の圧倒的なニーズにまったく追いつかず、またたくまに高額のプレミアがついた。ネット・オークションへ出品されることがあれば暴力的なほどの入札が殺到し、出品者が一夜にして富豪となることさえ稀ではなかった。
阿鼻叫喚の様相を前に、有栖川マリーは、微笑んでいた。くっくっと湧き上がる笑い声を、必死に堪えながら。
勇気だとか献身なんて賞賛は、まったく本質を突いていなかった。彼女は、純粋に、心から楽しんでいたのである。じぶんの分身を抱くために破格の大金を支払おうとする大勢の男たちの姿に、彼女はたしかな恍惚を覚えていたのだ。
有栖川マリーは『リンネ』発売間もなく、男たちを嘲るように、すでに数カ月前に結婚していたことを公に明かした。相手は彼女よりも二十五歳も年上の醜い実業家だった。醜いけれど日本を代表する資産家と、映画界の女王と謳われる美しく可憐な少女。だれもが財産目当ての結婚だと中傷したが、それが負け犬の遠吠えであることは、だれの眼にもあきらかだった。当世稀代の大物カップルの誕生は、世界じゅうのあらゆる人間の憧憬と嫉妬の念を煽り、その負の激情はクローン・メイド『リンネ』の売上をさらに伸ばす結果となった。本物を手に入れられないなら、せめてその複製を――黒メイド『リンネ』は、飛ぶように売れた。
「みんな狂っている」
富豪の夫はテーブルにナイフとフォークを叩きつけた。ナプキンで乱暴に口を拭い、かれは不機嫌そうにマリーにいった。
「きみはわたしの妻だ。その分身が、大勢の男たちに抱かれているなんて我慢できない。世界をみてみろ。返せるわけもない多額の借金までして黒メイドを買おうとする男たちでいっぱいだ。盗難目的の殺人事件さえ、少なくない。地獄絵図だ。美とは、かくも人の運命を狂わせるものなのか」
マリーはグラスに注がれたシャトー・ペトリュスの香りを楽しみながら、不敵なまでに落ち着き払った態度で答える。
「あなたはわたしを幸福にする、そのためならなんでもする、そういってくださったわ。これがわたしの幸福なんです。それが我慢できないなら、わたしと別れてわたしの黒メイドでも飼って頂戴」
その言葉は、富豪を悲しみの淵に追いやった。
富豪は顔を醜く歪めながら、懇願するように妻にいった。
「大勢の男に愛されなければ不満なのか? わたしは世界のだれよりもきみのことを深く愛している。それでも、わたしひとりの愛情では、足りないというのか?」
マリーは答えなかった。ただ、なにもいわず、寂しげな眼で、夫の顔をじっとみつめるだけだった。
その瞳のなんという神秘的な美しさだろう。まるで海に繋がっているかのような深みのある瞳。踏まれたことのない新雪のような柔肌、光の加減や微細な動きによって、さまざまに表情を変える輝く髪。
わが妻ながら、寒気がするほどの美しさだ――富豪は呼吸をすることさえ忘れるほどに圧倒された。
男にとって、美しい女性に自身の醜い容貌をまじまじと眺められること以上の恥辱はない。美に対してまったく無力な富豪は、言葉をのみこむほかなかった。
富豪はマリーを強く愛していた。だけど、悲しむべきことに、彼女にとっては、夫は取るに足りない存在だったのかもしれない。富豪はそのけっして短くない人生から、すでに幾度となく思い知らされてきた。どれだけ富を築こうとも、醜い人間に愛情を買うことまではできない。愛の代価となるものは、金ではなく、ましてや真心などという触れられもしないものでもなく、ただ、容貌の美だけなのだから。
「マリー、悪い予感がするんだ。なにかとてつもなく恐ろしいことが起こりそうな気がする。こんなことは、一刻も早く止めるべきだ。手遅れにならないうちに」
夫の哀れっぽい声に、妻はふんと鼻で嗤った。
「女は快楽に対して、男ほど保守的にはなれないものです」
マリーはそういって、ワインをそっと口に含んだ――そのとき、ふいに彼女の表情が豹変した。
白い頬に蒼黒い血管が浮き出て広がり、優美だった笑顔は瞬間、苦悶のそれに取って替わった。
「マリー? マリー!」
夫が駆け寄ると、マリーは体を震わせ、頭に爪を立てながら、テーブルに嘔吐した。
狂ったように掻き毟ったために、彼女の髪の隙間から、大量の赤い血が粘る霧のように噴き出した。
富豪の夫は顔を蒼くして叫んだ。
「医者だ! 医者を呼べ! 早く! わたしのマリーが死んでしまう!」
その日からマリーは病床に伏した。日に日にやつれ、かつての美貌はもはや見る影もなかった。白かった肌は紫に変色し、ぼろぼろに崩れ、艶やかだった髪は白くなって抜け落ちた。まるで、一気に歳をとったかのようだ。夫には、なにが起こったのかわからなかった。有栖川マリー自身も、同様だろう。
ついに有栖川マリーは呻き声以外に、口を開かなくなった。話すことができないというよりは、なにも理解できず、言葉をすべて忘れてしまった、そんなふうにみえた。
国じゅうのどの医者もさじを投げた。「原因不明」「治療不能」出てくる言葉はそれだけだった。まるでマリーの醜さが増すごとに、だれからも見放されていくように。
彼女を見捨てなかったのは、夫だけだった。富豪である夫は、金に糸目をつけず、何年もの時間を費やし、世界じゅうの名医と呼ばれる医者を訪ねて回った。有栖川マリーは、高慢な女だった。かれと結婚したのも、財産目当てのことにちがいなかった。しかし、それでも夫はマリーを愛していた。妻を治すためならば、どんなことでもする。たとえそれがどんな難事であろうと、どんな人道に反することであろうと。そう、強く心に決めていたのである。
「原因はクローンだと思われます」
放浪の果て、グレートブリテン島北部スコットランドで出逢った高名な医師は、凍てつくように冷たくきびしい声でそういい放った。
「クローン……ですって?」富豪は茫然とその言葉をくり返した。
医師はおもむろに頷き、言葉をつぐ。
「一卵性双生児の片方に痛みの刺激を与えると、もう一方も同じ痛みを感じる、という実験の話はご存知でしょう。いわゆる、遠隔感応というやつです。あなたの奥さんの場合は、同じ遺伝子情報を持つ無数の分身たちがあらゆる場所で陵辱され、犯され、あるいは愛され、またあるいは死を迎えているのです。それらの激しい刺激がすべて奥さんの精神に降りかかったとすればどうです? ひとりの人間が数千の痛みとエクスタシーを絶えず同時に感じ続け、数千の死を死に続けているのだとしたら? 小さな壜の中に北海の海水すべてを注ぎこむようなものだ。結果はだれしも予想がつく――精神と肉体の崩壊です」
「まさか。そんなことが……」
「荒唐無稽な仮説です。ですがご主人、数千体のクローンとこの世に同時に存在した人間は、人類の歴史上、あなたの奥さんが初めてなんです。いわばこれは、きちがいじみた大掛かりな人体実験だといってもいい。これまでの常識や科学の予測の範疇をはるかに超えている。どんな事態が起こったとしても、不思議はない。それこそ、人類の歴史上、だれも経験したことのない無尽蔵の苦痛と絶望が被験者に襲いかかってきたとしても。ちがいますか?」
凍りつくように時間が止まり、富豪の顔をみるみる蒼くしていった。
妻がじぶんの想像を絶する苦しみのなかにいる。すぐそばにいるのに、手の届かない極寒の闇のなかに囚われている。
「……治療法は?」
富豪の夫は、弱々しい声で、必死に医師にそう問うた。
「ありません」その国きっての名医と謳われた医師は、冷ややかにかぶりを振った。「現存するクローンをすべて回収したとしても、もうこの刺激の連鎖は断ち切れない。悪いことはいいません。治すのではなく、奥さんを楽に死なせてあげる方法を考えなさい」
医師はそう言い捨て、失意の富豪に、その白く大きな背なかを向けた。(続く)
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