愛玩生体人形『片眼のリンネ』(4)―完結
「有栖川マリーは死んだ」富豪の客は痛みに耐えるように、そう声を搾りだした。「一年前のことだ。ひとりぼっちで死んでいった。わたしはずっと彼女の手を握っていたが、そのぬくもりも、わたしの声さえも届かなかっただろう。彼女をあれだけ追いまわしていた雑誌もテレビも、もう彼女の死に関心を払わなかった。かつての彼女の取り巻きたちも、だれもやって来なかった。もうすでに新たな美しいものがいくつも生まれているなかで、醜く死んでいった者に哀悼を捧げる者なんていない。かれらは今ごろ、別の美しい者の周りで媚を売っているのだろう」
「だからせめて、奥さんのクローンを手に入れたいと思ったわけか?」
コギトは同情の念をこめて、そういった。
落ちぶれた富豪はそれには答えず、黒メイドの履くぴかぴかに磨かれたエナメルの靴の前にひざまずいた。
「マリー。わたしがわかるかい。帰ろう。またふたりで、わたしといっしょに暮らそう」
「ばかな。狂っている」コギトは悲しげに吐き捨てた。「リンネはあくまでクローンだ。どんなに似ていようと、その娘はあんたの奥さんじゃない」
客はコギトを見上げ、涙に濡れる瞳で睨みつけた。
「そのスコットランドの医師はマリーを治せなかった。だが、かれはひとつの可能性を教えてくれた。わたしは、その最後の望みに賭けているんだ」
「可能性?」コギトは片眉を釣り上げる。
「かれはいった。どんな事態が起こったとしても、不思議はないと。それは絶望のなかにいる人間にとっては、逆に希望だとは思わないか?」
いったい、なにをいっているのだ? なんの話をしているのだ? コギトには理解できなかった。
落ちぶれた富豪はコギトを見上げながら、祈りの言葉を唱えるように早口でまくしたてた。
「アメリカのバレエ・ダンサー、クレア・シルヴィアは、心臓移植手術後、性的嗜好や食べ物の好みなどの変調を体験したという。調べてみれば、それは心臓ドナーの生前の嗜好と一致したそうだ。彼女が受け継いだのは嗜好だけじゃない、ドナーの性格や生前の記憶に至るまで心臓とともに克明に受け継ぎ、彼女のその後の人生に大きな影響をもたらしたという。あんたもきいたことがあるだろう? 心臓、肝臓、角膜――臓器移植や組織移植を受けた患者が、ドナーからの記憶の転移を経験した実例はいくらでもある。人の記憶が、もしも、脳だけではなく、他の臓器や組織にも刻まれているとしたら? もしくは――細胞ひとつひとつにまでも、記憶が刻まれているとしたら?」
コギトは言葉をのんだ。客は必死の形相で畳みかける。
「リンネはマリーの細胞から作られた黒メイドだ。その細胞が、マリーの記憶を、ほんのわずかでも受け継いでいるとしたら?」
「ばかげてる。ありえない」
黒メイド売りを何年もやってきた経験からわかる。そんな科学的根拠に欠いた迷信を、信じるなんてどうかしている。まったく愚かな戯言だ。
しかし、客はそれでも退かなかった。かれは本気の声色で、リンネに必死に訴える。
「わたしが彼女に呼びかけるのには意味がある。無意味でなんてあるものか。マリー! お願いだ、もう一度わたしを夫として呼んでくれ。会いたかった。きみに会いたくて探していたんだ。正規品は絶版だった。中古市場にも問い合わせたが、みつからなかった。黒メイドの寿命は短く、在庫はひとつも残っていないと。わたしは法を破った。こうして非正規品を売る闇屋にも足を踏み入れた。これ以上、絶望的な人さがしが、この世にほかにあるかい――しかし、すべては、きみに会うために!」
「むりだ。あんたもわかっているはずだ。百歩譲って、たとえ有栖川マリーの記憶がリンネに受け継がれていたとして、返事なんてできるわけがない。黒メイドは生来、大脳機能のほとんどを失っているんだ。あんたの言葉を、まともに理解できるはずがない」
「あきらめるのは簡単だった!」
落ちぶれた富豪は大声で叫んだ。あまりの剣幕に、コギトはうっと言葉をのむ。
「だけどわたしはあきらめなかった。生前には、すべての資産をマリーの治療費に注ぎこんだ。医師がなんといおうとも、彼女をみすみす死なせることはできなかったのだ。だってそうだろう、この世のすべての人間がマリーを見放したとしても、わたしだけは最後まで彼女を見捨てるわけにはいくまい。どんなに高慢でも、どんなに悪い女でも、彼女はわたしの妻なのだから! 無茶なわがままをいうこともあった。日が経つにつれ派手な贅沢を望んだ。それはまるで、みずから嫌われようとするかのように。だけどわたしは彼女が時折みせた寂しげな眼を、いまも忘れることができない。彼女はいつだって不安を抱えていた。いつかだれもがじぶんを見捨て、去っていくのだと。いつかだれもがもっと若く、もっと美しい女を愛するようになるだろうと。世の薄情さ、人びとの心の移ろいやすさを、だれよりも知っていた彼女だから。ただ、幼稚なやりかたで、人びとの愛情を確かめようとしていただけなのだ。わたしは醜い。マリーが財産目当てで結婚したことはわかっていた。だけどそれでもかまわない。それが望みであるならば、すべての財産をくれてやる。ただ――ただ、せめてわかってほしいのだ。マリー、きみはけっして、ひとりぼっちなんかじゃない。むかしも――そしていまだって。悲しそうにするのはやめておくれ。テレビ・カメラに向けそうしてきたように、いつでも微笑んでいておくれ。それでわたしは、満足だ。マリー! おお、マリー! わたしがわかるかい? きみの夫だ。きみのためにすべての財産を失った、愚かで醜い元富豪だ!」
コギトは言葉を失っていた。老いた夫の愛情の深さが、そのまま悲しみの深さだった。どれだけかれが必死に呼びかけようと、生きる人形でしかないリンネに、伝わるわけがないのだから。
落ちぶれた富豪は涙を溢しながら、うやうやしく、リンネの頬にそっと手を伸ばした。そして彼女の口を塞ぐボールギャグを、ゆっくりと、やさしく外しとった。
奇跡は、起きた。
リンネは落ちぶれた富豪を見下ろした。
長い睫毛の先まで濡れた右眼で。
空っぽの左眼の眼窩から、涙がひとすじ、蒼白い頬を伝って落ちた。
そして、ゆっくりと、確かめるように、リンネは口を動かした。
「あなた――」
コギトは耳を疑った。だが、リンネはたしかに、そういった。信じられないことだったが、信じざるを得なかった。リンネの潤んだ右の瞳は、だれがなんといおうとも、深い感謝と慈愛を湛えている。
悦びとも悲しみともつかぬ表情に顔をくしゃくしゃと歪め、落ちぶれた富豪はとめどなく涙を流し続けた。マリー、マリーと何度も呼びかけた。
愛しているよ、マリー! マリー!
しかし、奇跡は残酷で、けっして長くは続かない。リンネの髪は白く変色し、顔には深く皺が刻まれた。美しかったその肢体は、みるみる痩せ細り、朽ち果てるように老いていく。
これが黒メイドの寿命だ――コギトは痛ましい表情でそれを見届けた。
かれは何度も、何人も、売れ残った黒メイドたちのこういう無惨な最期を看取ってきた。
だけど、嗚呼! リンネは最後の最後に、最高の主人に巡り会えたのだ。
「あな――」
リンネは、いや、有栖川マリーは、変異していく声帯から懸命に、低く、鈍い声をふり搾った。しかし、いい終えること叶わず力尽き、ゆっくりと前のめりに、崩れるように倒れ堕ちた――じぶんのためにみすぼらしく落ちぶれた、やさしい夫の腕のなかに。
夫は妻を抱きしめた。ようやくの思いで叶った抱擁だった。深い感謝と愛情が交錯する。
しかし、残酷にもマリーの骸は冷たくものいわぬ骨となり、さらに砂粒のように崩れながら、夫の腕のなかをただ、儚くすり抜け堕ちていった。(了)
2007年、原稿用紙換算51枚
偏執狂の猿にタイプライターを無限に打鍵させたとき、猿のテキストが偶発的にレイ・ブラッドベリを凌駕する確率に関する実験報告 D坂ノボル @DzakaNovol
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