【エアホッケー】の後悔
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一九八六年 八月二十二日(金)
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金曜日の早朝。
いつものように身支度を整えて台所へ来ると、珍しく母がもう起きていた。
まだ寝巻き姿ではあるものの、真剣な表情で朝刊に目を通している。
……いや、違う。
読んでいるのは新聞じゃなくて、折り込みチラシ。
ぼくの挨拶にも生返事。右手の赤ペンでチェックを入れるのに忙しい。
気にせず出かける準備を続けていると、小さな水筒に麦茶を詰め終えたところで、ずいっとチラシが突き出された。
今日のお使いは小さい方のデパートだけか。屋上プレイランドや大食堂がある大きい方のデパートは、目ぼしい特売品が無かったらしい。
母は、財布を開けて小銭を数え始め……途中で面倒になったらしく、千円札を一枚テーブルに置き、あくびをしながら寝室へ戻って行った。
赤丸の書かれた商品は、キャベツに、トマトに、オクラ、玉ねぎ……総額ざっと八百円。
差し引き、お駄賃約二百円。
いつもは百円にも満たないことが多いから、ちょっとラッキー。
田舎では、新鮮な食べ物が安く手に入る。
その認識は、ある意味で正しく、ある意味で間違ってる。
地元の畑で作っている野菜は、採れたての物が格安で並んでいるし、街ではあまり見かけない山菜や川魚なんかも安い。
その代わり、地元で採れない野菜は値段が高いか、そもそも売ってない。
お肉や海の魚介類も同様で、我が家でカレーライスと言えば、ビーフでもポークでもなく、比較的安いチキンが定番だった。
街から遠く離れた田舎町では、商品の運送料が上乗せになるうえ、販売数もそれほど見込めない。
だから、街のデパートより値段は高くなるし、入荷する商品も絞られる。
いくら一部の商品が安いからって、トータルで見れば街の方がずっとお得に買い物できる。
そんなわけで、バスの定期券という交通費キャンセルの技が使えるぼくには、時々お使いが命じられる。
とは言っても、ただでさえ忙しい遠距離通学の高校生。
放課後にお使いまでやるのは大変すぎるので、平日は基本的にお断りしている。
母と協議した結果、休日前にお駄賃付きなら……という条件で合意した。
夏休みの特別授業は土日がお休みだから、金曜日の今日はお使いの解禁日に当たる。
ゲーム・パラダイスに通うようになって小銭の重要性が増したため、本当はもう少しお使いを引き受けてもいいんだけど、変に怪しまれても困るので、それはまだ言い出せていない。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
なにはさておき、授業が終わったらゲーム・パラダイスに寄って、【メトロクロス】と【スペースハリアー】を遊ぶ。
時計を見たら、もう一時過ぎ。
さすがに空腹を覚えて、目的のデパートへ。
お使いを片付ける前に、食料品売場でサンドイッチと紙パックのオレンジジュースを購入。
どこで食べようか少し考えてから、三階のゲームコーナーへ向かった。
ここのゲームコーナーは、向かいのデパートの屋上プレイランドと違って、家具と電化製品売り場の一角を占めるだけ。
設置されているのも、モグラ叩き、エアホッケー、メダルが当たるルーレットといったエレメカばかりで、ビデオゲームは一台も無い。
規模が小さい分、お客さんも少ない。せいぜい、小さなお子様とその保護者が何人かいる程度。
ベンチに座って軽くお昼を食べるには、手頃なスポットだろう。
……と、思ったんだけど……。
薄っぺらい壁に囲まれたゲームコーナーに入ると、中にはぼくと同じ制服を着た高校生の一団がいた。
全部で十人ぐらい。みんなでわいわい、モグラ叩きや、エアホッケーや、お菓子を拾い上げるクレーンゲームなどを楽しんでいる。
その中にはクラスメイト……時々一緒にお昼を食べる運動部員までいた。
「え……えええっ!?」
その運動部員と目が合った。
こっちもぎくっとしたけど、向こうはもっと慌てているようだ。
それに気付いて、周囲の『南』高生までぼくの方に不安げな目を向けて来る。
……ああ、そうか。
ここ、ゲームコーナーだもんね。校則違反になるかどうか、微妙な場所だもんね。
向こうにしてみれば、先生の目を盗んで楽しんでいたところを、クラスの優等生に見付かってしまった感じなのか。
かつては自分も同じようなことで悩んだのに、今ではゲームコーナーへ入るのになんの疑問も抱かなくなっていた。
いくらなんでも緩みすぎかな……なんてことを考えつつ、そのまま中に進んでベンチに腰を下ろす。
「あ、あのー……」
未だ不安そうな運動部員に、ぼくは苦笑めいた表情を浮かべて、『南』の校則にゲームコーナー関連の記述が無いことを教えてあげた。
その上で、あくまでグレーゾーンであることも説明し、「お互い内緒ってことで」と付け加えて、サンドイッチを口にする。
こういう時は、見なかったことにするより共犯者の関係になった方が無難だよね、多分。
ぼくの予想通り、運動部員は安堵の表情を浮かべてくれた。
それを見た周囲の生徒たちも、ぱあっと明るさを取り戻して行く。
うんうん、これで変に気まずい思いを引きずらなくてすみそうだ。
そもそもぼくに、ゲームコーナーへの立ち入りをどうこう言える資格なんか無いしね。
その理由は、目の前のクラスメイトたちにも絶対秘密だけど。
それにしても……。
ビデオゲームと違って、これまでぼくは、エレメカには興味が湧かなかった。
このゲームコーナーだって、存在はずっと知っていたし、今日のようにご飯や一休みに使うこともあったけど、わざわざお金を使って遊んでみようとは思わなかった。
だけど、見知った顔がこうも楽しそうに遊んでいると、否応なしに好奇心が刺激される。
モグラ叩きは、大きな筐体にハンマーを振り下ろして行くだけでも気持ち良さそうだ。当たった外れたと、周囲の観客も盛り上がっている。
お菓子を拾い上げるクレーンゲームは、【UFOキャッチャー】ほど豪華な景品はもらえないものの、みんな複数のあめ玉やラムネを拾い上げ、すごく得したように大喜びしている。
十円玉を弾いてゴールを目指す新幹線ゲームは、意外と難易度が高そうだ。お子様ならぬ高校生が何度も挑戦しているのに、まだ誰もゴールに到達していない。一部の生徒が真剣になって再チャレンジを繰り返している。
メダルが当たるルーレットゲームは、小学校の近くの駄菓子屋さんにもあったなあ。「止まったマスの斜めの位置が、次に当たるマス」とか、怪しげな情報が色々出回ってた。
それから……。
「食べ終わった?」
エアホッケーの前では、クラスメイトの運動部員がプラスチックの円盤を手にして、挑戦的な笑みを浮かべていた。
エアホッケー。
卓球台サイズのゲーム盤上で、丸い凸型のラケット(……と呼んでいたけど、正式名称は知らない)を使い、プラスチック製の円盤(「パック」と呼んでいたけど、これも正式名称不明)を打ち合うゲーム。
お金を入れるとパックが出て来て、同時にゲーム盤に開けられた多数の小さな穴から空気が吹き出して来る。
空気の力でパックが浮き上がり、アイスホッケーのようなスピーディーな打ち合いが可能になる。
どちらかが七点取れば勝ち。その時点でゲーム終了。
ゲーム盤の前に立っているのは、運動部員ただ一人。
パックを手にしているということは、すでにコインも投入済み。
複数の運動部に掛け持ち入部している体育会系が、クラスでも有名なインドア系に戦いを挑んで来るのはどうかと思うけど……。
「共犯者」を演じた以上、このお誘いには乗っておいた方がいいよね。
ぼくも少し、このゲームコーナーで遊びたくなって来たところだし。
手についたパンくずを払い、残ったジュースをストローで吸い切り、包み紙と空の紙パックをゴミ箱に捨てて。
ぼくは運動部員の向かい側に立って、「お手柔らかに」と笑いかけた。
五分とかからず、ぼくが七点先取した。
失点ゼロ。完全勝利。
え、えーっと……。
あ、まずい。
運動部員が本気でショック受けて、へたり込んでる。
いや、こっちも予想外の結果だったんだけど。
体育会系だけあって反応速度はすごいのに、まさかここまでぼくの狙いがはまるとは思わなかった。
「よし、仇を取ってやる!」
そう言って対面に立った『南』高生の制服は、ぼくたち一年生とはタイの色が違った。
二年生だ。
こんなところでなにやってるんですか、先輩。
スコア、二対七でゲーム終了。
ぼくが……七。
勝つ必要なんて無かったけど、あからさまに手を抜いたと思われたら、それはそれで……ねえ?
「センパイ、お願いします!」
「このままじゃ運動部の面子が立たないっす!」
いや、運動部の面子がどうとか、そんな勝負を受けたつもりは無い。
無いったら無い、のに……。
「やれやれ、そんなんでこれから大丈夫かあ?」
出て来ちゃったよ、三年生。
受験生がこんなところにいていいんですか、先輩。
一年、二年が頼りにするだけあって、その三年生は反射神経、スマッシュ力、どちらもずば抜けていた。
ただ……。
他の競技ならともかく、エアホッケーに関してだけは、ぼくに一日の長があった。
種を明かせば、エアホッケー、地元のレストハウスに置いてあるのだ。
しかも、弟と同い年の双子の兄妹が昔からぼくに良く懐いていたため、エアホッケーを始めお店のゲームは、ほとんどいつもタダで遊ばせてもらえていた。
エアホッケーは、ゴール前の限られた範囲を守りきれば、それだけで負けない。
ゴール外まで守りに動いて、わざわざ隙を作るような真似は避ける。
もちろん、それは相手も同じなので、打ち返す時は相手の守りを崩すことを考える。
ゴール目掛けてまっすぐ打ち返すのは、相手に隙ができた時のみ。
基本的にはコースの読みづらい、壁に反射させてのゴールを狙う。
……と、ここまでは基本中の基本技。
弟に、双子の兄妹、「大人げない」という言葉がぴったりのマスター相手に対戦を繰り返して来たぼくの引き出しには、まだまだ色んな技が潜んでいる。
まっすぐ打ち返すと見せて、狙ったのはパックの端っこ。ぼくの動作に反してパックは斜めに飛び、先輩の不意を突く。
強烈なスマッシュをそのまま打ち返すと見せて、受ける寸前わずかに手を引き、パックを手元で止める。先輩のリズムが崩れた瞬間を見逃さず、打ち込んだパックがゴールに吸い込まれる。
激しいラリーの最中、不意にラケットの持ち方を変える。手のひらをかぶせる持ち方から、三本の指で支える持ち方、さらに二本指で支える持ち方へ。同じフォームでもそれぞれパックの動きが変わり、その都度先輩を翻弄する。
スコア、五対七。
勝ちは勝ちだけど、さすがみんなから頼りにされる三年生。最終的には、上からラケットでパックを挟み込む、反則スレスレの技まで使わされてしまった。
とにかくこれで試合終了。
ぼくはそろそろ食品売り場でお使いを……。
「卓球部……いや、テニス部、バドミントン部でも……」
あの、先輩方。
ぼくは通学に片道二時間かかるから、部活動は、ちょっと……。
「体育祭ではクラスの主戦力に……球技大会でも参加メンバーに選出……」
おいこら運動部員。
君はぼくの体育の成績知ってるでしょ!
体育祭や球技大会で役に立つレベルじゃないことは、一学期の授業で見てたでしょ!?
「先輩をあれだけ翻弄できるなら、コーチとか、いっそ監督でも……」
お願い、勘弁してください。
ぼくは成績を維持するのと、そしてこっそりビデオゲームを楽しむので、毎日精一杯なんです。
どうやら人生、いつでもどこでも全力を出せば良いってわけではないらしい。
ただでさえ「現状維持」を心がける、前向きとは言い難いぼくの高校生活。
今回の一件で、ますますその傾向に拍車が掛かりそうだった。
ちなみに、母のお使いはきちんと完遂して、野菜嫌いの弟に恨まれた。
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