「パソコン」に抱く危機感のこと
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一九八六年 八月二十九日(金)
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四時間目の数学が終わったところで、先生にプリント整理の手伝いを頼まれた。
お駄賃は、サンドイッチと自動販売機のオレンジジュース。
奥さんがおめでたで実家に帰ってるそうだから、サンドイッチは早朝から開いてる駅の売店の商品かな。
お昼代が浮くなら、どこのサンドイッチでも文句は無いけど。
それに、夏休みの特別授業も今日で終わり。
二学期が始まったら、また委員長やその日の日直に声がかかるようになると思う。
「最後のご奉公」なんて大げさな気持ちはないけれど、数少ない夏休みの思い出のひとつと考えれば、ちょっと下校が遅くなるぐらい問題ない。
作業は理科室でやることになった。
ドアと窓を全部開けて籠もった熱気を逃がし、額の汗をぬぐいながら長方形のサンドイッチを片付ける。
食べ終わったらプリントが飛ばされないよう屋外に面した窓を閉め、二学期のスケジュール表、体育祭と文化祭の注意事項、そして各教科の実力試験の範囲なんかをクラスの人数分ずつ数えて行く。
試験範囲まで
記載された教科書のページ数はどれもこれも予想通りの数字で、多少早く知ったとしても有利な点などあったもんじゃなかった。
その作業を始めて数分後、「ピーーー」とも「ガーーー」ともつかない奇妙なノイズ音が響き始めた。
音の発生源は、先生が準備室から運んできた小さなテレビ……いや、テレビには他の機械も接続されているようだ。
ぼくの位置からだと良く見えないけど、もしかしてあれは……。
「すまん、気になるよな」
先生は苦笑いを浮かべて、テレビを置いた教壇の方に手招きしてくれた。
プリントの束を置いて見学に向かうと、そこにあったのはキーボードとカセットレコーダーが一体化した機械――パソコン。
本体上部の黒い部分に『SHARP』、そして『MZ-700』と刻印されている。
数学の先生は「マイコン同好会」の顧問をやっているそうだ。
「部」ほど規則に縛られない「同好会」だけど、それでも何らかの活動実績は必要なので、夏休み中にプログラムの課題をひとつ出したと言う。
提出期限は二学期最初の活動日。ただし、土日はこの理科室が施錠されて、このMZ-700が使えない。
一体どこまでできているか、今のうちに確認しておきたいそうだ。
それはわかったけど、今、この時点でなにをやっているのかがわからない。
テレビに映っているのは、青い背景に数行の英文のみ。
再生ボタンの押されたカセットレコーダーからは、相変わらずピーガーと変な音が流れ続けている。
『LOADING HuBASIC』の「BASIC」って、
そして「BASIC」というのは、パソコンのプログラム言語。
最近、図書室で借りたパソコンの入門書を読み始めたから、それぐらいはわかる。
つまり今は、パソコンでBASICを使えるようにしている状態……なのかな?
BASICって、最初からパソコンに組み込まれているものだと思ってたんだけど……。
「あ……」
ようやくカセットが止まり、画面も青から黒へ切り替わった。
先生はカセットテープを巻き戻し、別のテープと入れ替えて、改めて再生ボタンを押す。
そしてキーボードから一文字だけ「L」と入力。カセットが回り始め、再びピーガー音が響き出す。
「……ん、なんだ?」
先生の目と声が、訝しげなものに変わった。
ほどなくピーガー音が止まる。
先生は苛立たしげに「LIST」、そして「CR」と書かれたキーを入力する。
「あいつら、校内でゲームは禁止っつったのに……!」
小さく舌打ちして、先生は足音も荒く理科室を出て行った。
画面には、入門書やベーマガの投稿プログラムコーナーで見たような、数字と英文の羅列が表示されたまま。
ぼくには、それがなにを意味しているのかわからない。
わかるのは、先生が口にした「ゲーム」という言葉。
そして今、目の前のパソコンにゲームのプログラムが読み込まれたということだけ。
プログラムの実行方法……。
えーと確か、プログラムを「走らせる」コマンド……そう……。
「R、U、N……」
人差し指でアルファベットを三つ押して、なにも起こらないので少し考えて、「CR」キーを押してみる。
次の瞬間、テレビの画面が変化した。
プログラムらしき数字と英文が消えて、『*』の文字で大きな四角形が描かれ、その内側に『SNAKE』『PUSH SPACE BAR』と英文が二行表示される。
「…………」
本音を言ってしまうと、しょぼい。
多分『SNAKE』というのがゲームタイトルなんだろうけど、小さなアルファベットが並んでいるだけで、飾り気もなんにもない。
ルールも、操作についての説明も、なんにもない。
『SPACE BAR』っていうのは、一番下にある細長いキーのことかな?
試しに押してみると、表示されていた英文が消えた。
代わりに『■■■■■○』と謎の記号が現れ、そのまま画面右側に直進して、外枠の『*』にぶつかる。
ビーッという短い音と同時に『○』が『X』に代わり、『GAME OVER』と告げられる。
「……………………」
しばらく考えて、もう一度スペースバー。
そして直後に「↓」と描かれたオレンジ色のキーを押してみる。
思った通り『○』の進行方向が下へと変わった。
五個の『■』も『○』の後からついて来る。
よーし、わかった。『○』が蛇の頭、『■』は胴体なんだな。
そして外枠の『*』にぶつからないよう、矢印のキーで操作する、と。
それだけ?
……と思ったところで、画面にいくつか数字が表示された。
『2』、『3』、『6』、『9』。
特に法則性らしきものは見受けられない。
試しに頭の部分で『3』の数字を食べてみる。
ピッ、という音と共に『■』の胴体が三個増えた。
同じく『2』を食べれば二個、『6』を食べれば六個増える。
数字を食べる度に新しい数字が表示される。そして数字を食べる度に胴体が長くなり、その分動けるスペースが減って行く。
これ多分、頭が胴体に当たってもダメだよね。
たくさん数字を食べて、どれだけ蛇を成長させられるかを競うゲームなんだな。
そうとわかれば実行あるのみ。
四つの矢印キーを指先で叩いて、決して止まることのない蛇の頭を表示された数字へ向かわせる。
いざ狙ってみると、蛇の頭をきっちり数字の場所に合わせるのが難しい。
「食べた!」と思ったら、数字のすぐ脇を『○』が通り過ぎていったりする。
それに、成長すればするほど、自分の胴体で移動範囲が狭まって行くのがつらい。
行く先々を、自分の胴体が通せんぼする。
ついにぼくの操る蛇は袋小路に追い込まれ、頭が胴体に突っ込んだ。
同時に、ゲームオーバー音とは違う「ビッ」と言う音が鳴り、英文が表示されてゲーム自体が停止した。
『SYNTAX ERROR』……?
このゲーム、もしかしてまだ未完成?
その時、夏休み中は久しく聞かなかった校内放送のチャイムが鳴った。
続いて、数学の先生が明らかに怒りを押し隠した声で、マイコン同好会の会員を呼び出した。
これはまずい。
先生は確かに「校内ではゲーム禁止」と言っていた。
だったら当然、ここでぼくがゲームを遊ぶのだって禁止だろう。
どうにかしてゲームを遊んでいた痕跡を消さないといけないけど……でも、どうすればいいんだ?
あーもう、「実際に触ってみないと良くわからない」なんて言わず、もっとしっかり入門書を読んどくんだった……。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
焦った。
本当に焦った。
苦し紛れに先生が入力した「LIST」というコマンドを入れてみた結果、ゲーム画面ごとプログラムのリストが上に流れて元の画面に戻った時は、心の底から安堵した。
後は実験台に戻ってプリントの仕分けを再開すれば、なにもかも元通り。
マイコン同好会のメンバーがどんなことになったのかは、ぼくの与り知るところではない。
ただ……。
正直なところ、ちょっと衝撃を受けている。
あの「SNAKE」というゲーム。
多分、マイコン同好会のメンバーが自分たちで作ったゲームだ。
もちろん、本に載っていたプログラムを入力しただけという可能性もある。
だけどあのゲーム、あまりにタイトルもゲーム画面も素っ気なかった。
スコアの表示すら無かった。
数字を食べさせるんだから、その合計値をスコアとして表示させるぐらいできそうなものだ。
だから、多分、あのゲームはまだ「作りかけ」なんだと思う。
マイコン同好会の人は、これからもっとあのゲームを面白くして行くつもりだったんだろう。
ゲームとは「遊ぶ」ものとしか思っていなかったぼくに対し、マイコン同好会の人は「作る」という行動を取っている。
それは、本当に衝撃だった。
同じ『南』高の中にそんな人たちがいるなんて、想像もしていなかった。
その衝撃は、デパートの家電売場でさらに増幅された。
いつもなら屋上プレイランドへ向かうところ、今日は家電売場へ足を向けた。
冷蔵庫や洗濯機と言った家電製品の並びの奥に、パソコンコーナーがある。
オモチャ売場と同じく、ここも無料ゲーム目的のお子様の人口密度が高い。
「MSX」というホビーパソコンが並ぶようになってからは、なおさらだ。
だけど、その先は違ったはず。
記憶を頼りに奥へ足を進めると、不意に売場の空気が一変した。
高校生から大学生ぐらいの人たちが、雑誌やノートを見ながらキーボードを叩いている。
中には店員さんに質問したり、新製品のデモ画面をじっと睨んでる人もいるけど、残りのお客さんは黙々とパソコンのキーを叩き続けている。
お店の方もそれを許容しているらしく、ちゃんと椅子まで用意してあった。
知らなかった。
パソコンを使う人って、こんなに増えてたんだ。
これまでベーマガの投稿プログラムを見ても、「どこか遠いところにすごい人がいる」という感覚しか抱けなかった。
違うんだ。
パソコンは誰にでも使えるし、プログラムは誰にでも作れるんだ。
プログラムを楽しんでいる人たちは、身近なところにもたくさんいたんだ。
少しパソコンを見てみようと思ってここまで来たけど、この空気の中を、明らかに素人感丸出しでうろうろするのは非常に気まずい。
夏休みが終わればここのお客さんも減ると思うし、またの機会に出直そう。
そう思ってエスカレーターの方に向かうと、<TET>と同年代ぐらいの少年二人が、電気の点いていないMSXをいじっていた。
店員さんの許可も取らず、勝手にテレビと本体の電源を入れてしまった結果、表示されたのは青い背景と『MSX BASIC』から始まる数行の英文。
どうやらゲームカートリッジが刺さっていなかったらしい。無料ゲームが遊べなくて残念だったね、少年たち。
……って、ちょっと待って。
MSXはカセットテープを使わなくても、最初からBASICが使えるの?
パソコンによって、BASICって色々違ってるの?
さらに驚いたことに、少年の一人は雑誌もノートも……キーボードすら見ないで、両手でカタカタとプログラムを入力して行った。
その手慣れた仕草からして、最初からゲームではなく、BASICの方が目的だったらしい。
一分もかからず入力を終えて、「RUN」。
それまでの画面が消えて、下の方に『===』と、イコール記号が三つ表示される。
促されてもう一人の少年が矢印キーを押すと、『===』が左右に動いた。
まるで【ブロック崩し】で自分が動かすラケットのように……。
さっきまで感じていたのは「衝撃」だったけど、今湧き上がっているのは「焦燥」だ。
確かにさっき、プログラムは誰にでも作れると実感した。
だけど、自分よりずっと年下の子にまですらすら作れるものだとは思っていなかった。
自分がものすごく時代に取り残されている気がした。
高校一年生にして、しかもパソコン雑誌を毎月購入しておきながら、「ハイテクの波」ってやつに完全に乗り遅れてる気がした。
……勉強しよう。
パソコンの入門書とベーマガのプログラム関係の記事を、最初から読み返そう。
特別授業は終わったし、宿題はとっくに終わらせてる。
でもまだ夏休みは終わってない。
残り二日の夏休み、しっかりパソコンのこと勉強して、少しでも遅れを取り戻そう。
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