◆六月
静かに雨が降る朝だった。風が少し吹くと空気が少しひんやりしていて、衣替えをしたばかりの肌には夏がまだ遠く感じられる。道には登校する生徒たちの差した傘が並んでいた。
学校に辿り着いて校舎に入る。もう靴の中がびっしょりだ。替えの靴下とタオルを持ってきて正解だった。すぐに靴下を脱いで足を拭きたかったが、朝の昇降口にそんなスペースはない。私は心の中で悪態をつきながらしぶしぶそのまま上履きを履いて廊下に上がった。
歩き出そうとしたそのとき、登校してきたばかりの、女子の方の学級委員の姿が目に入る。私と目が合うと彼女はすばやく私の方に近づいてきた。しかし黙ったままなかなか口を開こうとしない。
「えっと……」
私の方から何かを言おうとしたが、私はまだ名前を覚えていなかった。それを察したのか「加藤よもぎ」と自分から教えてくれる。
「ああ、加藤さん…… ごめんね」
とりあえず謝罪する。失礼だということはさすがの私でも分かる。
「いいんです。それより、山本さん、あまり授業に出てないようですけど、大丈夫ですか……?」
やっぱりそう来たか。心の中で舌打ちをする。
「大丈夫。心配してくれてありがとう」どうせ先生が私に言うようにお願いしたんだろう。学級委員というのは損な役回りである。体の良い使いっ走りだ。
「もしクラスに問題があるんだったら言ってね…… 私、学級委員だから……」
「安心して。加藤さんの責任じゃないから」
そう言うと加藤さんの表情が和らいだ。やっぱりそういう心配だったのか。単純な子だな、と思う。
「だから、心配しないでね」
そう言うと、私は加藤さんの返事を待たずに歩き出した。
歩き出したその足はまっすぐ図書室へ向かう。四月以来、教室にはほとんど顔を出していなかった。いわゆる図書室登校である。
担任の真壁は特に何も言ってこない。去年赴任してきたばかりで担任を持つのは初めてだという真壁は、加藤さんと同じようにすぐ顔に出るタイプで、私に気を使っているのが手に取るように分かる。それでも思ってることをはっきりと言ってくれれば対応のしがいがあるものだが、「何か困ったことがあればすぐに相談しろよ」だの「あんまり気をつめすぎるなよ」だの、心にもなさそうなことばかりでもう何も答える気がしなかった。
おそらく誰だってそんな扱いを受ければ逆に顔を合わせたくなくなる。向こうの方が私の顔を見たがってないのが分かるのだから。これは当然のことだ。
しかしそれは大したことではない。私は教室から逃げているのではないのだ。目的を持って図書室へと向かうのである。
図書室の扉を開けると、準備室の扉が開いているのが目に入る。私はカウンターの内側の椅子に鞄を置いてすぐに準備室へと向かう。
「佐藤先生」
声をかけながら中を覗き込む。佐藤先生がデスクの椅子に腰かけたままこちらへ振り向いた。
「おはよう」
眠たげな先生の口にくわえられたたばこから煙がゆらゆらと昇っている。私は先生のデスクのもとへと近寄って、膝をついてデスクの上に肘をついた。
「先生、校内禁煙ですよ」
毎朝の挨拶のようなものだった。
「いいんだよ、別に。誰も来やしないから」
「私が来ます」
頬を膨らませてぷりぷりと怒っているそぶりを見せてみる。
「山本こそ毎日こんなところに来て」
先生は灰皿にたばこを押し付けて火を消した。
「私は良いんです」
そう言ってデスクの上に視線を移す。外国語の本が開かれていた。
「またドイツ語ですか?」
「いや、これはフランス語」
「先生フランス語もできたんですね」
「辞書があっても大変だけどね」
「ふうん、そうですか」
先生が英語以外の外国語の本を読むのは好きではない。私の手の届かない世界に先生が住んでいるということをまざまざと見せつけられるような気がするから。
「何の本なんですか?」気が乗らなかったがとりあえず聞いてみる。
「デカルト」
ますます面白くない。前に先生が翻訳本を読んでいたとき、手に取ってみたことがあったけれど、悔しいくらいにさっぱり何も分からなかった。
「私が分からない本読むの禁止です」
「そんなこと言われてもなあ……」
ははは、と乾いた笑いが準備室に響いた。
「フランス語勉強してみたら? 結構面白いよ」
「英語もできないのにフランス語なんて」
「そうでもないよ。英語が苦手な人でもフランス語が合う人もいるんだ」
「先生が教えてくれるならやります」
「それは、どうかな。入門レベルくらいなら教えられるかもしれないけど」
「授業してくれるんですか?」
私は思わず立ち上る。そのときの私の目はらんらんと輝いていたと思う。
「いや、そういう意味じゃないよ……」
「なあんだ」
チャイムが鳴って、先生がちらと壁掛けの時計を見る。時刻は八時四十五分を指していた。ホームルームが終わり、あと五分で一時間目の授業が始まる。
「一時間目の授業始まるよ」
と言って先生は立ち上がり、教科書とクラス名簿を手提げ鞄に詰めていた。私はその場に立ち、じっと先生の動作を見つめる。
「山本は?」
「二時間目に会いましょう」
「そうか」
そう言って先生はふうと息を吐いた。
「じゃあ行ってくるから」
二人で準備室から出ると、先生は扉に鍵をかけた。
「行ってらっしゃい、先生」
先生が図書室から早足で出て行く。「またあとでね」と背中に投げかけるが反応はなかった。サンダルのパタパタという音が扉の向こうに消える。先生が行ってしまうのは寂しいけれど、授業へ行く先生を見送るのは嫌いでもなかった。
*
二時間目。佐藤先生の倫理の授業である。週に一度だけの授業。
私は教室の後ろの扉を開けて中に入る。後ろの扉からすぐそこの机が私の席だ。何度か席替えはなされたようだったが、私の席だけは変わっていない。いつものごとく女子が机の上に座って隣の女子と喋っている。机の上に座った女子は私の姿に気づくとちらっと時計を見て無言で机から降りた。私は席に着いて授業の始まりを待つ。
チャイムが鳴ると佐藤先生が教室に入ってくる。挨拶を済ませて授業が始まる。この五十分間は、先生の顔が見放題、先生の声も聞き放題だ。おしむらくは先生が私のことを見てくれないことで、図書室で二人きりの時間には代えがたいが、こういう時間も大好きだった。
佐藤先生は淀みなく話しながら、黒板にチョークで板書をする。テレビ番組の司会者みたいだった。私はその姿を目に焼き付け、時折目を閉じてその声に意識を任せていた。先生の話の内容はというと、日本の仏教についてなのだが、やっぱり私にはあまりよく分からない。だから先生の姿と声だけはしっかりと脳に焼き付けよう、と思っている。これほど熱心に授業を聞く生徒は学校中を探してもいないに違いない。
目をつむって先生の声の波に心地よく意識が乗っていたとき、プツンとそれが途切れる。ハッと気づくと、先生の話は一段落していた。佐藤先生が高校生のときの話を始める。
「僕はこの高校の卒業生なんですよ」
教室がどよめく。みんな知らなかったんだ。私は内心で鼻を高くしていた。先生のことなら私は何だって知ってるんだから。
「当時の担任の先生は誰だったんですか」
「十年前も前だから、その先生はもういないけど、歴史の佐々木先生には習ったことありますよ」
「ささじいだ!」
けらけらと笑いに包まれていたところで、ある女子が手を挙げて質問する。
「図書室で人が死んだって本当ですか?」
ざわついていた教室が水を打ったように静かになって行く。先生の表情が強張っている。それを見て私の心臓がびくんと跳ねあがった。
何人かの生徒がちらとこちらを盗み見る。図書室で人が死んだなんて、そんな話、私は聞いたことがない。しかし私は先生の表情から目が離せずにいた。
すぐに先生は笑顔を取り戻す。
「またそんな噂に飛びついちゃだめですよ。根も葉もない噂です」
「俺の姉ちゃん、卒業生だけど、死んだ人いるって言ってたぜ」
男子生徒が割り込む。先生は笑顔を崩さずにその生徒をじっと見つめて、「ただの噂ですよ」と言った。
チャイムが鳴る。
「今日はこれでおしまいです。次回までに復習をしてきてくださいね」
*
二時間目が終わるとすぐに図書室へと戻る。図書室のカウンターで一人昼休みまでの時間を過ごした。できれば佐藤先生と二人っきりになりたかったのだけど、佐藤先生は司書教員であるだけでなく倫理の教員でもあるから、ずっと図書室にいてくれるわけではないのだ。それに最近は準備室にいたって、授業準備だとか読書だとか言って私をあまり近づけてくれないことが多い。前はそんなことなかったのに。
チャイムが鳴る。お昼休みである。
私は読んでいた本を閉じると、食事を始める前にトイレへと向かった。授業時間中に行かないのは、見回りの先生に見つかって面倒なことになったことがあるからだ。
図書室は三年生の教室と同じフロアにある。だから図書室そばのトイレには入りたくなくて、いつも人が集まりづらい選択教室の近くのトイレまで歩いてゆく。時間が余計にかかってしまうのは仕方ない
目的のトイレの中は案の定誰もいなかった。私は安心して個室の中に入る。
便座に腰かけるとすぐ、トイレのドアの開く音が聞こえてきた。三、四人ほどのグループが何かを話している。聞きたくなくても耳に入ってくる。
「あの西田諒平って何なの、マジで」
「こないだアキが告白したのにふったんでしょ」
「えー、アキをふるってありえないでしょ」
「あいつ彼女でもいるの?」
「それがね、変な噂なんだけど」
「なになに?」
「幽霊と付き合ってんだって」
「あ、ひょっとして図書室の?」
「え、誰?」
「あの教室行かないで図書室に通ってるってヤツ」
どきりと心臓が波打つ。内臓が鷲掴みされるような不快感。
「ああ、あいつじゃないでしょ。まあ幽霊みたいなもんだけどね」
「じゃあやっぱりアレ? 去年の」
「でもまさか幽霊ってことはないでしょ」
「噂だよ噂。忘れられないんじゃないの?」
「まあそんなところだろうね」
女子たちは切れ間なく会話を進めてゆく。
私はトイレットペーパーをわざと音を立てて手に取って水を流した。
個室を出る。洗面台の前で女子四人が出てくる私のことを見ていた。私は黙って彼女らのそばを通り過ぎ、洗面台で手を洗ってトイレを後にする。その間彼女たちは一言も喋らずにいた。視線で何か合図を送り合っていたようだったけど。
私は早足で図書室に戻る。まだ心臓が強く体を打ち付けていた。昼休みは佐藤先生と二人でご飯を食べる時間なのだ。私は気持ちを切り替える。
図書室に辿り着いて扉を開けると、準備室の方から佐藤先生の話し声が聞こえてきた。誰かがいるんだ。よりによって昼休みに来客?
カウンターの中に置いた鞄から弁当箱を二つ取り出して準備室に入る。準備室の小さなソファに西田さんが座っていた。
「山本、来たか。今日は西田も呼んだ。これからは3人でご飯を食べよう」
「何でですか」
私は少し声を張った。もちろん私の気持ちを伝えるために。
「二人より三人で食べた方がご飯もおいしいよ」
「私と二人っきりは嫌なんですか」
先生はすぐに首を横に振る。
「そうじゃないさ。でも人数が多い方が楽しいよ」
「私は楽しくありません」
やり取りを黙って聞いていた西田さんが口を開く。
「俺、やっぱり帰りましょうか」
そう言って立ち上がろうとしたところを先生が制する。
「大丈夫、山本の言うことは話半分で聞いてればいいから」
「先生……! 私はいつも本気ですよ……」
先生は私に視線を向けて「分かってる」と言った。そのまなざしは、いつもまっすぐ私を捉える。そうすると私は決まって反抗する気力を失ってしまうのだ。私はわざとらしく頬を膨らませていつもの定位置の椅子に腰かける。西田さんとは反対側の、先生の隣。
座ってから大きい方の弁当箱を一つ先生に手渡した。先生は買ってきたビニール袋をデスクの上に置いて焼きそばパンを食べているところだった。
「今日のお弁当です」
「どうもありがとう。でも自分で買ってくるから作ってくれなくてもいいんだよ」
「だめですよ、先生。コンビニのパンばかりじゃ偏っちゃいます。それに一人分作るのも二人分作るのもそんなに違わないんです」
「そうか。まあ、ありがとう」
弁当箱を受け取った先生はそれをそのままデスクの上に置く。手に持った焼きそばパンを平らげてから弁当箱の包みを開けた。蓋を取って中を眺める。白いご飯にごまをまぶして、おかずには卵焼きと焼いたウィンナー、それからひじきの煮物。
とりたてて特別な中身ではないだが、出来合いのものは入れていない。ひじきの煮物は昨日の夕飯の残りなんだけど。
「美味しそうだな」
先生がそう言ってくれるのが嬉しくて、それだけでいろんなことが報われるような気がする。魔法の言葉だった。誰もが使える魔法ではないけれど、魔法なんていうものはそういうものだろう。
そして「美味しかったよ、ごちそうさま」が続けば最高だ。気分はお姫様である。しかし今日はその逆で、最悪だった。「西田も食べるか」と続いたから。
「先生!」
私は声を張り上げる。
「先生のために作ったんですよ!」
しかし先生は笑顔を崩さない。
「気持ちはありがたいと思ってるよ。でも山本が作ってくれたお弁当は美味しいんだぞって、他の人とも共有したいじゃない?」
どきりと私の心臓が反応する。思わず私は何も答えられなかった。
そうしている間に先生は西田さんを近くに呼び寄せて卵焼きを一つ上げていた。それを頬張ると西田さんは「美味しいですね」と言った。
「だろ?」
先生の笑顔がまぶしい。
先生が私の方を向いて目で合図した。「ね」という風に。
私は少し顔が熱くなったような気がした。
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