◆十一月
激しい息苦しさで目を覚ます。ボクをまっすぐ見下ろす両目が暗闇の中でぎらぎらと光っていた。息ができない。体も動かない。ボクは首を絞められていた。布団の上から誰かが馬乗りになっている。
金縛りではない。
それを認識したボクは力のかぎり暴れた。体の上の人物がよろめき、首から手が離れる。しかしそれは一瞬だった。再び両手がボクの首に舞い戻る。
「あんたさえいなければ」
母の声だった。
「あんたさえ生まれて来なければ」
ボクは首元の両手を握りしめて抵抗する。ボクを見つめる両目がじりじりと目の前に迫る。ボクは上体を起こして眼前の顔を目がけて頭突きをした。両手の力が緩んだところですかさず母を突き飛ばす。
「環!」母が叫んだ。
ボクはベッドの上でよろけている母に布団の下から蹴りを入れ、母をベッドから突き落とした。どしんという音に続いて母の悲鳴が響く。
その瞬間ボクはベッドの上に立ち上がり、隙をついて床へと飛び降りた。転げている母の横を通り過ぎて反対側の掃出し窓に向かう。
「全部あんたのせいだ!」背後から母が叫んだ。
カーテンを開け、掃出し窓の鍵を開錠する。ボクは振り返った。開けられたカーテンの隙間から街灯が差し込んで、部屋にボクの半身の陰ができている。その影は半分母の顔にかかっていた。ぎらぎらと光る目はなおも私をまっすぐ射抜こうとしている。
「あんたのせいであたしの人生滅茶苦茶だ!」
「あんたが勝手にボクを生んだんだろう!?」
ボクは耐えきれず叫んだ。
「あんたが勝手に生まれたんだ!」
「生んでくれなんて頼んでない!」
「あたしは頼まれたんだ! 選択肢なんてなかった!」
母はそのままぐずぐずと声を上げて涙を流し始めた。ボクはそれを見るなり気持ちがしぼんでゆくのを感じてため息をつく。確実に母に聞こえるように。
「ボクはあんたに生んでくれなんて頼んでない。けどね、生まれてしまった以上ボクの命はボクのもんだ! あんたに殺される筋合いなんかない!」
母はなおも泣いていて、ボクの言葉なんて耳に入っていない様子だった。ボクはかまわず振り返って掃出し窓を全開にする。深まった秋のひんやりとした風がさあっと部屋に入り込んで首筋を撫でる。興奮して火照った体にはちょうどいい温度だった。
ボクは裸足のままベランダに降り、手すりに膝をかけた。目の前にりょうくんの部屋のベランダがある。そこまでおよそ二メートル。下を見下ろしちゃいけない。ここは三階だ。背後の窓のアルミサッシをぐっと掴んで、そのままもう片方の足を手すりの上に乗せる。手を頭の上の屋根に移し、そこを支えにして落ちないように手すりの上にボクは立ち上がった。
背後で母が何かを叫んでいるが、それは耳に入れないように意識する。集中するべきはいま目の前の二メートル。ボクは深呼吸をして心を落ち着かせてから、飛んだ。ふわりと体が宙に浮かぶ。時間が止まったような気がした刹那、上半身がりょうくんの部屋のベランダの内側に落ちる。お腹を手すりが打ち付け、ベランダの外側には膝がぶつかった。衝撃音が両家の間に響いた。
ボクはそのまま重力に任せてベランダの内側に落下した。頭と肩から着地する。宙ぶらりんになっている足もどうにかベランダの内側へ入れた。体中がずきずきと痛かった。
ベランダ内側の狭い空間の中で体を回転させて起き上がった。立ち上がって、もといた部屋を見ると、窓際でアルミサッシに手をやった母がこちらをじっと見つめていた。ボクは何も言わない。母はそのまま黙って窓とカーテンを閉めて部屋の中へと消えた。それを見届けてからやっとボクは一息つくことができた。そのとき衝撃で痛む全身の中で、絞められた喉に痛みのような違和感が残っていることに気づく。ボクは自分の手で喉元をさすった。
バタバタとりょうくんの部屋の中で物音がする。ボクはそれを聞いて初めて、どうしようという焦りに包まれ始めた。どうにもできないうちに、掃出し窓が開く。カーテンの隙間にりょうくんが立っていた。半ズボンにパーカー。視線が合うとボクはどうしてか、あははと笑い始めた。りょうくんのまなざしは笑っていない。
「どうしたの?」
「いやあ、ちょっとね…… あはは……」
ボクは自分で笑っていたと思ったけれど、気がついたら涙を流していた。目から零れた雫が頬を伝ってゆく。それに気がついたとき、ボクは力が抜けてしまった。
「大丈夫?」
りょうくんが目の前にしゃがみ込む。ボクは何も言えなかった。ただ涙が流れるに任せるしかなかった。その間りょうくんは何も言わずに目の前にいてくれた。それがけっこううれしかった。
*
ボクが落ち着くと、りょうくんは部屋に上がらせてくれた。肩にりょうくんが着ているのとは別のパーカーをかけてくれる。時刻は午前二時を回っていた。電気スタンドの明かりが部屋の中に光の空間を切り出す。
ボクはりょうくんが差し出してくれたクッションの上に座った。床には絨毯が敷かれている。りょうくんは目の前のベッドに腰掛ける。
「今日、ここに泊めてくれないかなあ」とボクが言うと、りょうくんは「やっぱりそうだよね」と言ってうーん、とうなる。
「まあ俺は別にいいんだけど……」
「ほんと?」
ボクはやったーとバンザイする。
「だけど、寝るところがないんだよね」
りょうくんが部屋の中を見回している。
「りょうくんのベッドでもいいよ」
「え?」
「りょうくんのベッド、寝心地良さそうだね。いつもと違うベッドで寝るの、ボクけっこう好きなんだよね」
「そしたら、俺はどこで寝たらいいの?」
「え?」
ボクは首をかしげる。
「何言ってるの? 一緒に寝るんだよ」
りょうくんは目を大きく見開く。
「いやいやいや! 環こそ何言ってるの!」
「別にいいじゃん」
「いやよくないって!」
りょうくんは目の前で両手を突き出して拒む。
「小さい頃はよく一緒に寝てくれたのになあ」
ボクはあからさまに頬を膨らませてみる。
「あれは…… まだ子どもだったからで……」
「子どもじゃなかったら一緒に寝ちゃいけないの?」
「そうだよ!」
「どうして?」
そう聞くとりょうくんはぱくぱくと口を開けたり閉じたりして言葉にならない声を出した。ボクはいい加減笑いが堪えられなくなる。
「笑うなよ……」
「いや、だってさ…… 面白いんだもん」
りょうくんの顔は真っ赤になっていた。
「変な冗談はよしてくれよな……」
「冗談じゃないよ?」
ボクはまだ笑いが止まらない。「もうよせって」とりょうくんが言う。伝わらないのがもどかしい。
「いや冗談じゃなくてね、本当に本当なんだよ」
「何が?」
軽く深呼吸をしてボクはようやく笑いがおさまる。「りょうくんのベッドで寝たいっていうのが」
顎を引いて、少し上目づかいで攻めてみる。しかしりょうくんの表情は変わらない。
「いや、ていうかさ、部屋に環がいるのバレたら面倒だからさ…… そういうことなんだけど」
なんだ、そういうことだったんだ。ボクは呆気にとられる。……はぐらかされちゃったのかな。
ボクは「それは困ったな」とだけ口にして部屋の中を見回した。目に留まったのは、クローゼット。
「ねえ、あそこは?」
「クローゼット?」
「あそこで寝られない?」
りょうくんはうーんと唸って思案する。
「ちょっとそこで座ってて」と言うとりょうくんはクローゼットの方へ行った。ほんの少し扉を開けて中を覗き込む。ボクは立ち上がって物音を立てないようにりょうくんの背後についた。折りたたまれた布団と、その横にダンボール箱が三つ置かれている。
「そのダンボール何が入ってるの?」
背後から話しかけるとりょうくんは飛び上がらんばかりに声を上げた。
「いやちょっと、だから!」
「なになに?」
「ダメだよ、来ちゃダメ」
りょうくんがボクの肩に両手を当てて押し戻した。
「言うこと聞いてくれないと泊めてあげないからね」
「それは困る」
「じゃあ座っててよ」
りょうくんはもうこれだから環は、などと独りごちていた。ボクはクッションへと舞い戻る。
りょうくんはクローゼットの扉を完全に開けて、布団の横にあった段ボールの中を覗き込んだ。中を確認しているようだった。奥の方からダンボールを外に出して壁際にそれを積んでゆく。
「いい、見ちゃダメだからね。絶対にダメだからね」
「はいはーい」
あんまり露骨に見るなって言われると余計に見てみたくなるんだけどなあ。というかでも、そのあまりの露骨さに、中に何が入っているのかだいたい予想できてしまう。こないだ話した机の中身があの中に移っているんだろうな。いや、でもそれだけならこんなに見るなって言わないか。だとすればこないだのとは別の…… などと考えていると、りょうくんがボクの名前を呼んだ。
クローゼットの台の上には、布団が広げられていた。上下がかなり余っていて、はじっこは上に折れ曲がっていたけれど。そして布団の上には毛布が置かれていた。
「足は広げられないかもしれないけど、これでどうかな。とりあえず横にはなれると思う。それと、この毛布を使ってね」
そう言ってりょうくんが毛布をぽんぽんと叩いた。ボクはそこに導かれるまま飛び乗って体を倒してみる。足を折り曲げれば横になることができた。りょうくんがクッションを横に置いてくれる。
「これで眠れるね」
ボクは黙ってうなずいた。
「りょうくん、ありがとね」
ボクは横になったままりょうくんを見上げて言う。光があまり当たらなくてりょうくんの表情がよく見えない。
「子どものときからりょうくんは優しいね。ね、覚えてる? 初めてりょうくんと話したときのこと」
りょうくんは黙って話を聞いてくれている。
「あの日もボク、家に帰りたくなくて。もう真っ暗だったのに、団地の中のブランコに座ってた。小学校一年生くらいだったかな。りょうくんが声かけてくれてさ、ボクが家に帰りたくないって泣いたら、部屋に上がらせてくれたよね。玄関で音を立てないように靴を抜いで、脱いだ靴を手に持って、ボクと一緒にクローゼットの中に入ってくれた。その日初めてボクたち話したのにね、変だよね」
少し笑いがこみあげてくる。
「けどね、ボク、すごく嬉しかったんだよ……」
そこまで話すと、ボクは強烈な眠気に誘われて、そのままそれに身を委ねて眠りへと落ちて行った。
*
団地の棟が並んでいる。棟と棟との間には公園のような空間が広がっていた。少し山なりになった地面は芝生で覆われている。ブランコ、ジャングルジム、滑り台があって、その間を小さな子どもたちが大勢走り回っていた。ボールが宙に跳ねあがる。高くそびえる柵のこちら側から、遊ぶ子どもたちの様子を眺めている。
明るい陽光が降り注いでいた。算用数字で大きく「3」と書かれたグレーの直方体の建物が陽光を反射させて白くまぶしい。
遊びまわる子どもたちの声があたりを包み込む。子どもたちの叫び声、笑い声。
見ると、全力で走り回っている子どもたちの間で、一人ぽつねんと立っている少女がいた。遊んでいる子どもたちよりかなり年長の少女。セーラー服を着て、柵のこちら側をじっと見つめている。気がつくとそのそばには周りの子どもと同じくらいの年の小さな女の子が立っていた。二人は手を繋いでいる。そして余った方の手でこちらに向かって手招きしていた。
それが気になって柵の方へ近寄る。しかし隙間を通り抜けることはできそうにない。柵に沿って歩くけれども向こう側の二人はずっとまっすぐこちらをまなざしている。まるで追いかけてくる月のようだった。柵に沿って走り回っている間に、気がつくと団地の外の階段の踊り場に立っていた。足元に何かが落ちている。拾うと、それは四葉のクローバーの栞だった。そこでボクは目を覚ました。
ボクが眠っていたクローゼットの扉が開けられていて、りょうくんがそばに立っていた。部屋の中の明かりがまぶしい。
「おはよう」
まだ眠り足りないのか、りょうくんはいつもより少し低い声だった。ボクも「おはよう」と返す。
「もうすぐうちの親、仕事に行くと思うから、環もうちで朝ごはん食べない?」
「じゃあそうする」
「朝ごはん食べたらいったん家に帰りなよ。いつまでもここにいるわけにいかないでしょ」
「そうだね」とだけ返した。ボクの頭の中には、まださっき見た夢の空気が残っているような気がした。あの四葉のクローバーの栞、どこに行っちゃったんだろう。自然と図書室のことが思い浮かぶと、夢の光景はさあっと波が引くように意識の背後へと消えて行った。
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