◆十月
季節外れの大型台風が直撃して、午前中は休校となった。そのことを知らないまま家を出た私は、ひっそりとしている学校の空気で状況を知ることになった。濡れた制服からぼたぼたと水滴が零れるまま職員室に行き、たまたま来ていた先生をつかまえて詳細を聞いた。それから図書室の鍵を借りようとしたら、図書室はもう開いていると言う。
職員室を後にすると、足早に図書室へ向かった。扉を開けると準備室から話し声が聞こえてくる。佐藤先生と西田さんだ。西田さん、こんな台風の朝にまで来なくてもいいのに。
「『論考』は難しかったです」
「まあそれは仕方ないよ。ウィトゲンシュタインの入門書は良い本がたくさんあるから、読んでみるといいよ」
会話が聞こえてくる。準備室を覗きこんで私は「おはようございます」と低い声で言った。二人がこちらに振り返る。
「ずぶ濡れじゃないか」
先生は驚きの声を上げた。
「着替えた方がいいんじゃないか? 教室にジャージあるだろ?」
私は首を横に振る。今学期に入ってから体育の授業を受けたことはない。そもそも学校に持ってきてないのだ。
「そうか…… 仕方ない」
先生は立ち上がって奥の壁に置かれているロッカーに向かった。開けて中をがさごそと探っている。それから手に何かを持って戻ってきた。
「これ使って。そのままだと風邪ひいちゃうよ。俺の私物で悪いんだけど」
どきり、と心臓が高鳴る。
「タオルと、ジャージの上下ね。サイズは合わないと思うけど…… トイレに行って着替えてきなよ」
折りたたまれたグレーのジャージ。その上にタオル。私はただ黙ってそれを受け取った。そのとき先生の手が私の指に触れて、そこに全神経が集中したみたいになる。雨に濡れて冷えた体が指先から火照ってゆく。
私はやっとのことで「ありがとうございます」と言って、受け取ったものを持ってトイレに向かった。
個室に入るなり私は手に持ったジャージとタオルに顔をうずめた。ごわごわしているというほどではない、使いこまれた柔らかなタオルの生地。そして深く息を吸い込む。先生の匂いがする。鼻から入り込んだ先生の匂いが脳髄に伝わる。私はそのまま二度三度と深呼吸をする。全身が匂いで満たされるような気がした。その度に快感がじわじわと私の体を包んでゆく。
しかしその幸福の時間は長く続かない。鼻が慣れてしまうのだ。顔を埋めたまま息を大きく吸っても何も感じられなくなる。私は物足りなさと寂しさを覚えながら顔を離した。
ジャージを便器の蓋の上に置いて、まずタオルで髪を拭く。ときどき先生の匂いが鼻孔をくすぐる。それにつられてタオルの匂いをかいでみるけれど、匂いが感じられないのが残念だ。偶然に任せるしかない。
髪を一通り拭くいてから、制服を脱ぐ。ベストとセーラー服、それからスカート。脱いだ制服を、先生のジャージを濡らさないように注意しながら、蓋の上に置いてゆく。下着姿になった私はタオルで全身を拭いた。肌を撫でるタオル生地が心地よい。ときおり香る匂いが幸福感を割り増しさせてくれる。私はタオルの柔らかさと匂いを全身に刻みつけるように体を拭いた。
肌が乾いてから、いよいよジャージを手に取る。一回り以上サイズが大きい。胸が高鳴って全身を打ちつけていた。先生のジャージをこれから着るんだ。頭の中でそう考えると、顔が熱くなるのを感じた。
まずズボンを手にとって足を入れる。足をジャージが包み込み、触れる生地が肌をこするたびにそこに意識が集中する。両足が今までにないほどに敏感になっていた。ズボンの丈が長いので足元は折ることにした。
続けてジャージの上着の袖に手を入れる。指先が少し出るくらいだ。両腕を通すと、キャミソールから露出した肩を上着が擦るのを感じた。首元までファスナーをしめると、全身が先生に包まれているような気がする。肌を擦るたびに全ての神経がそこに集中し、布が擦れてときおり匂いが鼻をつくたびに私の頭はくらくらした。
私は体が火照ったまま、脱いだ制服とタオルを手に持って図書室に戻った。準備室では先生が西田さんと話を続けている。戻ってきた私の姿を目に留めると先生は立ち上がって近づいてきた。
「やっぱりサイズ大きいね、ごめんね」
私は黙って首を横に振った。
「ハンガーに制服引っかけて、干しておきなよ。カーテンレールにかけちゃっていいから」
先生がハンガーを三つほど渡してくれた。私は何も言わずにうなずいてハンガーを受け取ると、制服をそれぞれに引っ掛けて図書室のカーテンレールの端っこに引っ掛けた。準備室にかけておくのは恥ずかしかったから。
タオルを持って準備室に戻る。私はやっとのことで口を開いた。
「先生、このタオル……」
「ああ、使い終わったらその辺に置いといていいよ」
先生は軽やかに返答する。
「あ、洗って返します……」私は必死だった。
「気にしなくていいのに」
「ダメです…… 洗って返します…… ジャージも……」
そう、洗って返さなきゃダメなのだ。私の家の洗濯機で洗って、私の匂いをつけて、先生に返すのだ。洗ったこのタオルとジャージを先生が使うときに、私を思い出してもらえるように。私の匂いが先生の体を包み込むことができるように。
「そうか。じゃあ返せるときでいいから」先生がにこりと笑う。
「はい」
私は濡れたタオルをぎゅっと胸で抱き、それから折りたたんで鞄の中にしまった。
*
私は先生の隣に腰かける。中断していた会話が再開した。
「最後の「語りえぬものについては沈黙しなければならない」っていうのがかっこよかったです」
「『論考』で一番有名なテーゼだね。ウィトゲンシュタインの言葉の中で見ても、そうかも」
「世界の中には語りうるものしかないってことですよね。だとしたら神とか魂とか、そういう類のものって存在しないってことになるんですか?」
「世界に属するものではない、っていうのは確かだね。でも存在しないというのはちょっと違うかもしれないな。語ることと示すことが区別されていたの覚えてる? 語られず示されるのみ、って」
「そうでしたっけ……?」
「たとえば、世界が存在するとか、世界にたった一人だけ自分という存在があるとか、そういう自分が死ぬとか、そういうのは語れないんだ。それらは世界そのもののことであって、世界内部で生じることじゃないからね。でも、示される」
先生がコーヒーをすする。
「『論考』の考えでは、言語は世界内部で生じうる事態を写す鏡像みたいなものなんだ。世界が存在するということや、たった一人だけ自分というものが存在するということや、そういう自分が死ぬということは、どういうことか分からないんだから、鏡像にはならない。だから語りえないってわけさ。でも」
先生が西田さんの方へ腰かけたまま身を乗り出す。
「世界が存在するということや、たった一人自分が存在するということや、死ぬということは、だからといって嘘になるってわけじゃないだろ? それは語られるのではなく、示されているんだ」
西田さんがうーん、とうなる。
「なんとなく、分かったような気がします」
ぜんぜん分からない。私は面白くなくて座っている事務椅子を左右に揺らした。椅子がキィキィと音を立てる。西田さんは文庫本に視線を落としてパラパラとめくっていた。
「浜島さんは、『論考』の、「死は人生の出来事ではない。人は死を体験しない」っていうところに興味を示してたよ」
「そうなんですか」
西田さんが視線を上げた。先生がうなずく。
「死っていうのは、端的に世界を開いている自分が消えてなくなるってことで、それはつまり、消滅を体験するはずの自分が消えてなくなるってこと。だから死を体験することはできないってことなんだけど、浜島さんはこれにすごく引っかかるって言ってたな」
えーっと確か、と言って先生が腕を組んで天井を見上げる。
「ウィトゲンシュタインの言ってることは確かにそうだと思うけど、でもだからといって死ぬのが恐くなくなるわけじゃないって、言ってたかな。ここでウィトゲンシュタインの言う死は自分の死のことで、それは確かに体験できないけど、それは目の前にいる人が死ぬという感じの死じゃない。誰かが目の前で死ぬとき、それはその人が死ぬということであって、それはやっぱりその人が死というものを経験していることになるんじゃないか、そしてもしその誰かが自分だとしたら、やっぱり私は死を体験することになるんじゃないかって……」
西田さんは口に手をあてて虚空をまなざして話を聞いていた。浜島環という人は、生前、死について考えていたのか。皮肉だな、と私は思った。
「まあそれはともかく」と言って先生が両手をぱんと打ち鳴らす。
「浜島さんが『論考』の後に読んでたのが、永井均の『ウィトゲンシュタイン入門』だったかな。入門書としてはこれがいいよ」
「それは貸出記録で見ました」
「そうか。じゃあもし『論考』のことをもっと知りたいんだったら、野矢茂樹の『「論理哲学論考」を読む』がいいよ。ちょっと根気がいるけど、これを読むと『論考』がずっと身近になるはずだ。それにね」
私はそこで席から立ち上がって準備室を抜け出した。まだ話は続きそうだったから。出て行く私に先生は何も言わなかった。
私は図書室のカウンターの席について、ため息をつく。そしてカウンターに突っ伏して目を閉じた。雨が校舎を打ち付け、風が建物の隙間を通り抜ける音が私を包み込む。そのまますぐに私は眠りに落ちて行った。
*
午前中のうちに台風のピークは過ぎ、正午を迎える頃には風のない雨に変わっていた。
いつものお昼休みの時間より少し早く、お昼ご飯にすることになった。私は普段通り、食事の前にトイレに向かう。廊下に出ると、登校してきた生徒たちの話し声や足音が遠くから聞こえてくる。いつのまにかいつもの学校に戻っている。
私はそのまま、いつものトイレへと足を進める。図書室そばではなく、選択教室のそばのトイレ。昼食が終われば午後には授業が始まる。今日の午後は先生の授業がないから、午後には先生と二人っきりになれるはずだ。私は少し浮かれていたけれど、それは扉を開けるまでしか続かなかった。
トイレの中で女子生徒の三人グループが立ち話をしていた。彼女たちは入ってきた私を盗み見て何かを言い合っている。体育着ではないジャージを着ているのが変だっただろうか。気にせず個室へと向かおうとしたけれど、グループの中の一人の女子が私の前に立ちはだかった。
私は女子をきっと睨む。私と同じくらいの背丈の女子。彼女も私を睨んでいる。
「あんた、西田くんとどういう関係なの?」
「何ですかいきなり」
目の前の女子が舌打ちをする。
「だからあんたと西田くんはどういう関係なんだって聞いてんの」
「私も西田さんもただの図書委員ですよ」
「ただの図書委員だ?」
彼女は声を張り上げた。トイレの中で反響して耳をつんざく。
「だったら何で毎日図書室で一緒にいるんだよ。図書室だぞ。誰も行かない図書室で一緒ってどういうつもりなんだ」
「それは私のせりふですよ。あなたいったい何なんですか?」
どいてください、と言って横を通り抜けようとしたら、片手で行く手をふさがれる。
「人の質問に答えろよ。図書委員のせいで西田くん文化祭の喫茶店の店員やってくれなかったんだぞ! クラスで分担したのにさあ!」
心当たりがない。彼女が間合いを詰めてくる。
「いったい何の話してるんですか?」
「あんたなんじゃないのか!?」
胸倉を掴まれる。目の前には感情をむき出しにした顔があった。
「やめなよ、アキ」と隣にいた別の女子がすぐに間に入って制した。アキと呼ばれた女子は舌打ちをして私から手を離す。
「そうそう、この子佐藤センセにしか興味ないんだから」とその後ろにいた女子が言う。
「なんであんた知ってんの?」と間に入った女子が聞いた。
「一年生のときアタシこの子と同じクラスだったからさ」
残りの女子二人が「えっ?」と口をそろえる。言われてみれば確かに見覚えがあるような気がするが、あいにくクラスメイトのことはほとんど記憶にない。
「こいつ一年生じゃん、何言ってんの」
「いや、一年生二回目なんだよ、この子。だからアタシたちと歳は一緒なんだ。一年生のときに入院してさ。去年まで学校休んでたんだよ。で今年また一年生やってんの。二年遅れで」
三人の視線が私に集中するさっきの話からすると、この三人は三年生のようだ。で、文化祭のクラスの喫茶店がどうとか言っていたから、西田さんも三年生ということになるのか。ぜんぜん知らなかった。学ランに襟章を付けていなかったし。
「二年遅れって、普通ありえないでしょ」
「佐藤先生のために戻ってきたってもっぱらの噂」
本人を前にして何なんだ、この人たちは。まあ確かに二年遅れでもう一度一年生からやり直すというのは珍しいかもしれない。高校は中退して、大検を取得するという道も勧められたことがある。だけどさっき言われたことは間違いじゃない。私は佐藤先生にまた会いたかったんだ。普通じゃないって自覚はある。でも、だからそれがいった何だっていうんだ。などと考えていたとき、アキと呼ばれた女子が口を開いた。
「あんた佐藤のことが好きなんだ、へえ」
彼女はへらへら笑っている。
「まああんたなんて見ちゃいないだろうけどね」
心臓がびくんと跳ね上がる。私は再び睨みつける。彼女はまだへらへらと笑っている。
「あたしの姉ちゃん、ここの卒業生でさあ、あたしと歳離れてんだけど、佐藤と同級生なんだよね」
「何なんですか」
「あのね、三年生のときに佐藤の彼女、自殺しちゃったんだってさ。いまだに忘れられないらしいよ」
さあっと血の気が引いてゆく。
「あれ、知らなかった? 聞かされてなかったんだ。かわいそうに」
「アキ、そのくらいにしときなよ。今日なんか変だよ」とさっき制した女子が言う。「そうだぞ、西田に二度も振られたからってそんな嘘ついちゃ」後ろに立った女子が続いた。
「嘘じゃないって」とアキが答える。私はその場に棒立ちになっていた。立ち尽くす私の全身を舐めまわすように見てから、アキは私の横を通り過ぎた。「ちょっと待ってよ、アキ」と残りの二人が続いてトイレから出てゆく。後には私一人だけが残された。
私は時間を確認する。いつも通りなら、お昼休みが始まったばかりの時刻だった。私はトイレを済ませて図書室に戻る。図書室へ行く道のりが少し遠く感じられた。
準備室で佐藤先生と西田さんが私を出迎える。
「遅かったな、体調悪いのか?」
先生が私の顔を覗きこんだ。「顔色悪いぞ? 風邪引いたか?」
私は首を横に振って、「大丈夫です」と答えた。
「ご飯にしましょう」
私は精一杯の笑顔を作ってそう言った。持ってきたお弁当を先生に渡して、お昼ご飯を食べ始める。お弁当はぜんぜん味がしなかったし、先生と西田さんの話はぜんぜん耳に入らなかった。
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