◆九月

 夏休みが終わって、まだ暑さが残る中、学校は文化祭の空気に包まれていた。放課後の廊下はどこもベニヤを切る音が聞こえ、ペンキを塗るシンナーのにおいがした。終礼を終えてボクは図書室へ急ぐ。

 新学期が始まってから、図書室に通っていた。その分、りょうくんの相手をしてあげられないのだけど、それは仕方がない。

 図書室に通うのは、哲学の本を見るためだった。タイトルにピンときた本を手に取って、中を開いてみる。でも理解できなくて、諦めて本戻してばかりなんだけど。だからまだ借りたことはなかった。

 でも今日はそのために図書室へ急いでいるのではなかった。

 図書室の扉を開くと、いつもそこだけ切り取られた別空間が広がるような気がする。それだけ図書室をよく知らないということなのかもしれないけれど。人の少ない静かな空気と、書棚を埋め尽くす本のにおいに包まれて、図書室が未知の空間へと繋がっているような気がしていた。

 カウンターにいつもの女子生徒がいない。彼女が図書室で姿を見せなくなってもう数日が経っていた。

 準備室を覗いてみると、佐藤先生がデスクの椅子に腰かけて本を読んでいた。準備室の入り口から声をかける。

 「佐藤先生、ちょっといいですか?」

  先生が振り返る。

 「浜島か。どうした?」

 「ちょっと探し物があって……

 「探し物って?」

 「栞なんですけど、見ませんでした?」

 「栞?」

 「はい。四葉のクローバーを押し葉にした栞なんですけど……」

 「四葉のクローバー……」

 「あと、裏側にローマ字でyuriって書いてあるんです。クローバーなのにyuriって、なんか変ですよね」

先生の顔色が変わったような気がした。

 「見てないな…… 浜島の栞なのか?」

 「そう、ですけど……」

 拾いものだということは言わなかった。

 「ああ、そうだよな。すまんすまん……」

 先生があははと笑う。

 「まあいずれにせよ、見てないな。いつ失くしたんだ?」

 「それが記憶にないんですよ。最後に見た覚えがあるのは先週で、気がついたのは今日なんです。最近よく図書室に来るんで、ここにないかなって思っただけで」

 「そうか。落し物があったら山本が知ってると思うんだけどな。あいにく今いないからな……」

 「カウンターにいつもいた子ですか?」

 「ん、ああ、そうそう。入院したんだ。けっこう大変な病気みたいで」

 「そうなんですか……」

 先生の顔はどこか寂しそうに見えた。

 「カウンターにある落し物入れを見てみようか」

 そう言って佐藤先生が立ち上がる。ボクは先生の後についた。

 先生がカウンター上に置かれた紙の小箱を差し出す。持ち主を失ったシャープペンシルや消しゴム、シュシュなんかが入っていた。栞もあったが、探しているものではなかった。

 「その中になかったらもう分からないな。ひょっとしたら書架の間に落ちてるかもしれないけど」

 「分かりました。ちょっと探してみます」

 カウンターを離れようとするボクに先生が話しかける。

 「文化祭の準備、忙しい?」

 「そんなでもないです」

 「浜島のクラス、何やるの?」

 「お化け屋敷です。りょうくん…… あー、西田くんと、ボクが、お化けの役で。当日は忙しいだろうけど、準備は別のグループだから」

 「そうか。じゃあせっかくだから、何か借りてみたら?」

 「考えてみます」

 先生はにこにこ笑っていた。


 *


 書架のあいだを見回ってみたけれど、結局栞は見当たらなかった。図書室以外の場所で落としたのかもしれないし、誰かが拾って持って行ってしまったのかもしれない。

 ボクはため息をついて、栞探しはいったん中断することにした。哲学の書架へ行く。プラトンやアリストテレスの全集、デカルト著作集などが並んでいる。その隣の本棚にはいろいろなトピックの本があった。

 ボクはタイトルに死という言葉のついているものを適当に手に取ってみる。目についたのが、ジャンケレヴィッチという人の、そのものずばり『死』という本。分厚い。このあいだ手に取ってみて、ぜんぜん理解できなかったけど、今日ならちょっとは分かるかもしれない。そお間もボクは成長しているのだから。そう思って開いてたけれど、やっぱり書かれている文章が目の上を滑ってゆく。ボクはため息をついて本を戻した。

 「死について興味あるの?」

 声がしてボクは一瞬とびのく。いつの間にか佐藤先生が隣に立っていた。ボクは黙ってうなずいた。

 「脅かしてごめんな。どういう興味なのかよかったら教えてくれない?」

 ボクは言うかどうか少し迷っ挙句、打ち明けることにした。佐藤先生なら何か教えてくれるかもしれない。

 「死ぬってどういうことなのかなとか、死んだらどうなっちゃうのかなとか…… そんな感じで…… 変、ですよね……?」

 佐藤先生はまじめな顔をしてボクの顔をじっと見つめている。

 「いや、全然変じゃない。まっとうな問いだと思うよ。でも浜島がそんなこと考えてたっていうのは意外かな」

 そう言うと先生が本棚を眺め始める。「『存在と時間』は難しいしな……」などとつぶやく。

 「ああ、そうだ、プラトンはどう? 『ソクラテスの弁明』」

 先生がボクの方へ視線を向ける。

 「ひょっとして読んだことある?」

 ボクは首を横に振った。

 「ソクラテスの裁判の話ですよね?」

 「そうそう。一学期の授業で少し話したよね。そんなに難しくないから予備知識がなくても読めるはずだよ」

 文庫本はこっちだから、と言って先生が書架を離れる。ボクはそれについて行く。図書室の入り口そばにある書架が文庫本コーナーとなっていた。新潮文庫の並んだ本棚から先生が本を取り出してボクに渡す。

 「ありがとうございます」

 表紙には『ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン』と書かれていた。

 「あのこれ、クリトーンとパイドーンって……?」

 「『クリトン』と『パイドン』は覚えてない?」

 ボクは首を横に振る。記憶になかった。

 「これも授業でやったんだけどな」

 先生の顔に苦笑いが浮かぶ。

 「『クリトン』っていうのは、ソクラテスの友人の名前なんだけど、ソクラテスが裁判で死刑判決を受けた後、クリトンっていう人が獄中のソクラテスのもとに来るんだ。で、ソクラテスを逃がすことができるって言うんだね。でもソクラテスはそれを拒むんだ。そういうお話」

 「え…… どうして……?」

 「ソクラテスは悪を為してはならないって考えていたからね。国の裁判で死刑が決まったのに、不正なやり方で逃げたりするのは悪なんだ、と。裁判で決定された死刑判決に従うってソクラテスは言うんだ」

 ボクはよく分からなかった。

 「せっかく逃げられたのに……?」

 「ソクラテスはそういう人なんだ。ソクラテスは自分より知恵のある人を探し歩いて、いろんな問答をふっかけてまわったんだけど、結局自分より知恵のある人は見つけられなかった。でも問答をふっかけた相手に嫌われることになった。それが結局自分の死刑を招くことになるんだけど、ソクラテスは言うんだ。知恵を求めるのは、神のお告げに従うことなんだって。だから、そのために死刑になったとして、その死刑から逃げようものなら、それは神に背くことだって」

 「死ぬのが恐くなかったの……?」

 「ソクラテスは死よりも大事なことがあるって考えていたみたいだね。僕からすれば、というか一般的にそうだと思うけど、そういう考えを本当に死刑になっても貫けるのは、やっぱりソクラテスが突き抜けちゃった人だからなんだろうな…… まあそれは実際に読んで確かめてもらうとして、それにね」

 先生が話し続ける。

 「後ろに載ってる『パイドン』ではね、魂の不滅が説かれるんだ」

 「死なないってことですか?」

 「ちょっと違うんだけど、まあそんなところ。この世とは別の世界があって、肉体の死後、魂は滅びずにそのもう一つの世界に行くんだよ。イデア界って言うんだけどね。まあ、だから死が恐くないのかもしれないね」

 「なんだかそんな話信じられません…… ソクラテスは本当にそんな話信じてたんですか?」

 「本当のところは分からないな……」

 そこまで話すと先生がにこりと笑った。

 「先生はどう思うんですか?」

 「どう思うって?」

 「死ぬことについて…… ソクラテスみたいに、魂が死なないって、考えられますか? 私よく分かりません。死ぬって、やっぱり何もかもがなくなっちゃうことなんじゃないかって…… でもそう思うと恐くて……」

 先生がうーんと唸って思案する。

 「浜島の言うこと、分かるよ。何もかもがなくなっちゃうことが、死なんだって、そういう考え。でも、やっぱり死んだらどうなるのかは分からないな。昔は浜島みたいにいろいろ考えてたんだけど、今はあまり考えなくなっちゃったな。悪く言えば歳とって鈍くなっちゃったのかもな……」

 ボクは先生が話し続けるのを待った。ボクの視線に気づいて先生が言葉を紡ごうとする。

 「そうだな、僕はどちらかと言えば、ソクラテスよりはデカルトが好きかな」

 「ソクラテスよりデカルト?」

 「そう。ちょっと遠回りするんだけど、ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えて裁判にかけられちゃうでしょ。デカルトは同時代の人でね、ガリレオの裁判の話を聞いて、ある本の出版をやめちゃうんだ。この点で、ソクラテスとデカルトは違うと僕は思う」

 「ソクラテスだったら裁判がどうあれ出版をやめたりしないでしょうね」

 「そう。デカルトはね、後に別の著作で、国の法律や伝統には従うようにって言うんだよ。何もかもが夢かもしれないって疑った人が、だよ。ソクラテスも確かに国や法律に従っただろうけど、ソクラテスはそれらを積極的に批判したからね」

 ボクはなるほど、と相槌を打つ。

 「まあ何が言いたいかというとね、ソクラテスみたいにどこまでも突き抜けちゃうのもそれはそれでおもしろいんだけど、それをやると究極的には死んじゃうから、生きるためにデカルトみたいな態度を取るのも悪くないんじゃないかなってこと。命あっての物種、だからね」

 私はちょっと釈然としなかった。

 「ソクラテスよりデカルトという話は分かったんですけど、でもそれで死ぬってどういうことなのかは分かりません……」

 「まあ、それは確かにそうだね……」

 先生がにこりと笑う。けれど先生の目には悲しみが浮かんでいるように見えた。ボクはある噂を思い出す。

 「あの、先生…… 図書室で誰かが死んだって、本当ですか? 誰かが自殺したって……」

 先生は笑みを崩さなかった。

 「それはただの噂だよ。図書室では誰も死んでないよ」

 「図書室では……?」その言葉に引っかかる。

 「学校で誰かが死んだこともあったかもしれないけどね、図書室では誰も死んでない、これは本当だよ」

 先生の笑顔は緊張しているように見えた。先生は「さて」と言って両手を合わせてをぱんと鳴らす。

 「さ、どうする? その本、借りていく?」

 先生がボクの手の中の本に視線を落とした。ボクが「はい」と答えると先生はカウンターの中へと回りこんだ。


 *


 ボクは一階の物音で目を覚ました。まだ真っ暗だった。皿が割れる音。立て続けに何枚も割れる。その音に両親の叫び声と怒鳴り声が混じる。ボクは枕元に置いてある時計を手に取った。午前二時半。

 眠っているボクが目を覚ますくらいだから、ご近所さんにも筒抜けなんだろう。はじめて両親の喧嘩を耳にしたときはどうしようと思ったものだけれど、何年か前にボクは考えるのをやめた。ボクは布団に潜る。

 「私は好きであんたと結婚したんじゃない!」突然母の叫び声がはっきりと聞こえてきた。リビングから出たんだろう。道路にまで響いているに違いない。

 父の怒鳴り声がするが、何を言っているのかは聞き取れない。それに母の声が続く。「あいつができちゃったから仕方なかったんだ!」

 どきり、と心臓が跳ねあがる。ボクは思わず布団の中で耳を塞いでいた。早く眠りにつくように、と何度も心の中で祈り、祈りつかれたころに夢のない眠りへと落ちて行った。

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