◆八月

 七月から続く熱さはピークを迎え、八月に入ると今年初めての三十五度を記録した。歩けば汗がだらだらと流れ、蝉の鳴き声が意識を遠いところへと連れ去ろうとする。

 夏休みになるとどうしても佐藤先生と会う機会が減る。毎日図書室へ行ってみても先生が来ない日がほとんどだった。休みに入る前に、いつ先生が学校へ来るのか予定を聞いてみたけど、はぐらかされるばかりで教えてくれなかった。だからこうして毎日図書室へ通っている。

 午前10時頃に学校へ来て、図書室へ直行する。扉の鍵が開いていれば、それは先生が学校にいるという意味。ドアノブに触れる瞬間は、毎日期待で胸が高鳴る。もし鍵が開いていなければ職員室へ行って鍵を借りる。そして夕方頃まで時間を潰して先生を待つのだ。

 今日は八月十日で、夏休みのちょうど中ごろ。夏休みが始まってから毎日図書室へ来て、鍵が開いていたのはたったの二回。図書室で待っていて先生が来たのは四回だけ。だから夏休みに入ってからまだ六回しか先生に会えていない。しかも最後に会ってからもう五日も経っている。

 一目でいいから先生の顔を拝みたい。できれば二人っきりで過ごしたい。昨日の夜から頭の中は先生のことでいっぱいだった。今日会えなかったら、明日から学校はお盆休みで、一週間完全に閉鎖されてしまう。

 もんもんと考え事をしながら図書室の前に到着して扉に手をかける。鍵が開いていた。心臓が脈打つ。誰かがいる。先生かな、先生だといいな。そんなことを思いながら扉を開けた。手が震えていた。

 準備室から佐藤先生の話し声が聞こえてくる。佐藤先生の声が聞けたことに喜びを感じたけれど、それは一瞬だけだった。話し相手がいるのだ。休みの前は、お昼休みの時間を西田さんにとられてしまったし、律儀にも西田さんは放課後に図書室へ通ってくるから、夏休みに期待していたのに。

 準備室で私を迎えたのは佐藤先生と西田さんだった。

 「来るのを待ってたよ」

 先生のその言葉に、体が先に反応する。

 「私のことを待っててくれたんですか?」

 「そう、今日は掃除をしようと思ってね」

 「そうですか」

 私は肩を落とす。

 「それで西田も呼んでおいた」

 「私には連絡をよこしてくれなかったんですね」

 先生を睨みつけたけれど、先生は笑顔を崩さない。

 「毎日来てるみたいだからいいかなって」

 先生はあはは、と声に出して笑う。よくないですよ、ぜんぜんよくない。

 「ま、というわけで今日は図書室と準備室の掃除をします。とりあえず準備室は僕がやるので、二人は図書室のカウンターにある書類を整理してください。蔵書リストとか、貸出記録とか。古いものは捨てちゃいましょう。そうですね、十五年以上前のものは処分しちゃってください」

 「はい」と西田さんが一人返事をする。私は準備室の掃除の手伝いがしたかった。


 *


 図書室のカウンターの内側にはスチール製の書類棚が二つ並んでいる。私と西田さんとでそれぞれの書類棚を手分けして整理することにした。そうすれば西田さんと会話しなくて済むからだ。

 書類棚は上半分だけがガラス戸になっていて、ファイルがいくつも無造作に仕舞われているのが見える。下半分は開けたことがなかった。中から、上段と同様のファイルがいくつかと、やけに重たいダンボール箱が出てきた。

 ダンボール箱の中身は、万国旗、古びたラジカセ、折りたたまれた模造紙などで、模造紙を広げてみると、世界の森林の面積とその減少の速さがまとめられていた。いつか図書委員が文化祭で展示を行ったことがあったのかもしれない。しかしどうしてこんなものを残しておいたのだろうか。私はダンボールを脇に除ける。

 ダンボールの横に仕舞われていたファイルを一つ取り出してみる。表面が埃っぽく、さらさらとしている。二十年以上前の新規購入図書の希望書がまとめられていた。同じ出版社の文庫本が並んでいて、当時の流行が垣間見える。

 そのほか下段に入っていたファイルはみんな昔のものだったので、日付だけ確認して全て処分することにした。ファイルに綴じられた書類を外してまとめるだけである。

 上段のファイルに手を付けようと思ったとき、ふと隣の西田さんの方を盗み見る。西田さんは床に座って、開いたファイルの中をじっと見つめていた。この人は何をサボってるんだろうと思って見ていると、西田さんが携帯電話を取り出して書類の写真を撮影し始めたので、私は急いで止めに入る。

 「個人情報なんですからダメですよ、そういうの」

 西田さんの背後からファイルを取り上げる。それは去年の貸し出し記録だった。去年には、もう図書室を利用する生徒はかなり減っていたらしい。一か月で二、三人ほどの名前しか並んでいない。私はその中で、ふと浜島環という名前目が留まった。どこかで見た覚えがある。だけどどこでその名を目にしたのか覚えがない。いや、そんな名前を気にしている場合ではなかった。

 「貸出記録じゃないですか。しかも去年の。なおさらダメですよ。まだ在校してるかもしれないんですから」

 西田さんは黙って私を見つめていた。どこか悲しげなまなざしで。

 「昔の友人の名前があったんで…… ごめん……」

 「でもだからといって」

 「死んじゃったんだ、そいつ」

 「えっ……?」

 西田さんは表情を崩さない。

 「浜島環って名前があるでしょ。去年死んだんだ。だから……」

 思わずファイルを持っていた手が力を失う。辛うじて手からは落ちなかったけれど、私は何も言えなかった。ただ黙ってファイルを西田さんに手渡すことしかできなかった。それを受け取った西田さんが「ありがとう」と言ったときの表情がしばらくの間頭から離れなかった。

 私は書類棚の整理の作業を再開する。日付を確認し、十五年以上前のものであればファイルから外して処分する書類の山にまとめ、そうでなければ残すファイル群の山に加える。それだけの作業を続けた。ただその間も、頭の中で根拠のない推測と想像がぐるぐると自走していた。トイレで聞いた去年のアレってそういうことなんじゃないか。

 書類棚の整理自体は複雑な作業ではなかったから、十二時を回る頃には終えることができた。捨てる書類をダンボールにまとめて、残すファイルを種類ごとに棚に仕舞う。それが終わるころ、準備室にいた佐藤先生が私たちを呼んだ。お昼ご飯にしよう、と。

 私は鞄からお弁当の包みを持って準備室に入る。夏休みが始まったばかりのころは毎日佐藤先生の分までお弁当を作っていたけれど、会えない日ばかりで、無駄にしてしまうのも嫌だったので作るのをやめてしまった。今日も持ってきたお弁当は私の分一つきり。

 準備室のいつもの席で食事を始める。先生は今日もコンビニで買ってきたパンを食べていた。私がお弁当を持ってきさえすればあんなものを食べなくても済むのに。そんなことを考えながらお弁当を食べる。

 「西田、今日はありがとな」

 佐藤先生が西田さんの方を向いて言う。私には言ってくれないんだ。

 「いいえ、いいですよ。どうせ暇でしたから」

 「そうか? 文化祭の準備とかで忙しいんじゃない?」

 「そんなことないですよ。どうせ俺参加しないですから」

 「そうなんだ。クラスは何やるの?」

 「喫茶店です」

 「じゃあそもそも夏休み中に準備することはほとんどないな」

 「まあ、熱心な奴らが看板作ってるくらいですね。でも、今日は声かけてくれて嬉しかったです」

 「そうか?」

 「ええ、環の貸出記録も見つけられましたし」

 先生は手に持ったパンを降ろした。

 「そうか……」 

 「浜島さん、いろいろと借りてたから、それを追いかけてみるのもいいかもね」

 「はい。そのつもりです」

 「プラトン、デカルト、ウィトゲンシュタインあたりじゃなかったかな、確か。読み終えたら感想でも教えて」

 「ありがとうございます」

 私はお弁当をつつきながら二人の話を聞いていた。私だけが何も知らない。私は蚊帳の外。この人たちは、私が入り込めない世界に生きている。そんな気がして、自分が作ったお弁当も味がしなかった。


 *


 お昼ご飯を食べ終えると、すぐ解散になった。西田さんは帰宅し、佐藤先生はまだ準備室で仕事をしていくという。私はというと、まだ準備室に残っていた。デスクに腰かけた佐藤先生の横に座る。

 「山本も今日はご苦労な。もう帰っていいんだぞ」

 「まだ帰りません」

 「何だ、何か用事でもあるのか」

 「あります。先生に」

 私は先生を睨みつける。涙がじわじわと浮かんできて、それが零れてしまわないように、目を閉じないようにするので必死だった。

 佐藤先生は驚きの表情で私の方に向き直る。

 「どうした?」

 易しい声。

 「先生、私が知らないことばっかり……」

 「知らないこと?」

 「私、浜島環って人のこと、知らない…… 哲学のことも…… 私、何も知らない…… 先生のこと、知りたいのに……」

 目を閉じないように気を付けていたのに、それでも涙がぽろぽろと零れて頬を伝う。先生は黙って私の話にうなずいていた。

 「今日だって、私に何も言わないで、西田さんを呼んで…… 私、私……」

 滲んだ視界の中に映る西田先生の姿が愛おしくて、でもあまりに遠く思えて。瞬間、私は椅子から立ち上がって目の前の佐藤先生の体に抱き着いた。先生の胸に顔をおしつけて、私は泣いた。

 私の波がが落ち着くころ、佐藤先生は私の肩を手で掴んで、私を離した。床に膝をついた私を見下ろして、「ごめんな」と言う。困ったような顔で。それはいったいどういう意味の「ごめんな」ななの。

 「山本はないがしろにされたと思ったんだな。ごめん」

 佐藤先生は私をまっすぐ見つめている。

 「山本と西田と僕の三人で図書委員をやっていくのに、山本だけ仲間外れにしちゃいけないよな」

 そうじゃない。私が言いたいのはそういうことじゃない。けれどその言葉は口から出なかった。

 「勝手にしゃべるのはよくないと思うけど…… でも、山本には話しておこう。浜島環さんっていうのは、西田の友達だったんだ。でも去年亡くなった。亡くなったのが、ちょうど去年の今日なんだ」

 私は息を呑む。

 「浜島さんが亡くなってから、西田はかなり落ち込んだみたいで。学校でもいつも一人でいるみたいなんだ。だから心配だった…… 今日も、それで声をかけたんだ。書類整理をするっていうのは、西田を呼ぶ理由みたいなもんでさ。山本も来るだろうし、三人でなら、楽しいかなって」

 本当は、先生と二人きりでいたかった。先生には私だけを見ていてほしかった。けれどそんなこと、話を聞いてしまったいま、先生に言うことはできない。いまそれを言ったら、私は悪い子になってしまう。今までさんざんわがままを言ってきたけれど、いまそれを言ってしまうことは許されない。それは私にだって分かることだった。

 私はただ、「そうだったんですね……」と言うことしかできなかった。

 結局、私は佐藤先生にそれ以上何も言うことができなかった。

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