◆五月

「遅いなあ」

 左手の腕時計を確認する。もう夕方の四時をまわっていた。りょうくんは日直だったから、先生に何か言われてるのかな。

 五月の大型連休が終わり、体験入部程度だった部活が本格的に始まる頃。人によっては学校に来るのが嫌になる頃。

 校庭で練習するサッカー部の掛け声が、ボクのいる校門まで聞こえてくる。校門からは次々と帰宅する生徒が流れ出てゆく。こんな時間に下校する生徒たちは、部活が休みか、ただの帰宅部下のどちらかくらいだろう。ボクはもちろん帰宅部だった。

 下校する生徒たちの中に見慣れた姿を見つけて、ボクは走り出す。

 「りょうくん!」

 近づいて足に蹴りを一発。りょうくんは、いてっと声を上げて振り返る。

 「やっぱり環か…… 普通に声をかけられないの?」

 「えっ? 声かけるとかだとナンパか何かだと思っちゃうでしょ……?」

 「思わないよ!」

 「そうか! りょうくん、ナンパされたことないもんね…… じゃあ仕方ないね……」

 「何が仕方ないんだ。っていうかそうじゃない、暴力はやめてくれって言ってるの」

 「ナンパっていうのはね、女だからって理由だけで声かけてくるようなヤツのことでね、これが面倒で」

 「話聞いてる?」

 遮られた。

 「まあまあ。後ろ姿を見かけて、それがりょうくんかどうか判断するには、蹴ってみるのが一番なんだ」

 りょうくんは、はあとため息をつく。

 「違う人だったらどうするの……」

 ボクはそれには構うことなく、りょうくんの腕に自分の腕を絡める。

 「さあ今日も行こう!」

 そう言ってボクは、りょうくんを駅とは反対方向へと力任せに引っ張った。

 「どこに行くんだよ」

 「どこって、今日も遊びに行くのさ!」

 りょうくんは抵抗をやめて歩みを共にしてくれる。よしよし、よく分かっているじゃないか。

 「ねえ、環」

 歩きながらりょうくんが話しかけてくる。

 「腕を絡めるの、やめてほしいんだけど」

 ボクは心底心配しているという風な顔でりょうくんの目を見つめる。りょうくんは目を合わせてくれない。

 「りょうくん、何か探してるの?」

 りょうくんは首を横に振る。

 「まあいいや、でもやめたらりょうくん逃げちゃうでしょ」

 「逃げないよ……」

 「逃げて車道に飛び出して、事故にでも遭ったらどうするの?」

 「犬じゃないからね!?」

 りょうくんは叫んだ。

 「犬じゃなかったの!?」

 つられてボクも叫ぶ。

 「俺のこと何だと思ってたの?」

 「んー、久しぶりに帰省したときに素っ気ないそぶりを見せる実家の猫」

 「犬じゃなくなってるし!」

 「実家にいた頃はね、毎日顔を合わせてたのにね、上京して離れて暮らして、久しぶりに帰ってきたときにはよそよしくなってるんだ」

 「環は猫飼ったことないでしょ。っていうか第一犬だって飼ったことないじゃんか!」

 「あんなに一緒にいたのに、悲しいよう……」

 「悲しいのは俺の方だよ!」

 ボクは思わずあはは、と笑い出した。隣でりょうくんが「もう……」と言うのが聞こえる。ボクはその場で歩みを止めた。合わせてりょうくんも立ち止まってくれる。腕を絡めたまま、ボクは左隣のりょうくんの目をを見上げて聞いた。

 「逃げ出さないって、約束してくれる?」

 りょうくんはちらとボクの目を見ると、すぐにそっぽを向いてしまった。

 「約束するよ……」

 「やったあ!」と言ってボクは両手を離してばんざいをした。「やれやれ」といった風にりょうくんは制服の乱れを手で直した。

 「で、今日はどこに行くつもりなの?」

 「うーんとね、川まで行こう。緑地公園があるでしょ」

 ボクらの通う学校は、JRの駅から歩いて10分ほどの距離にある。学校から、駅とは反対方面に進むと、川があって、そこの緑地公園は、花見の名所なのだ。もうそんな季節じゃないけど。

 「何しに行くのさ」

 「決めてない!」

 ノープランである。りょうくんはまたため息をついた。最近りょうくんはため息をよくつく。疲れているんだろうか。

 「行けばわかるさ! 行かなければ分からない!」

 自信満々にボクは言い放ったが、これは裏命題だからダメだ、真理値が一致しないなと、とっさに考えた。でも対偶を取ったとしても、分からなければ行かないっておかしくないかな。などと考えていると、思考を遮るようにりょうくんが口を開く。

 「はいはい、とりあえず行ってみましょうね……」

 そう言うとりょうくんが先に歩き出した。

 「待ってよう。置いてかないで」

 ボクもりょうくんの後を追う。


 *


 緑地公園は、川に沿って整備されていて、野球場やサッカーグラウンドがあったり、滑り台やブランコなどの置かれた普通の公園もあったりする。緑地公園には多くの木々が植えられていて、都会の住宅地の中で突然巨大な林に迷い込んだような気持になる。

 ボクのお気に入りは、サッカーグラウンドの裏にある池だ。小さな商店がそばにあって、そこで買ったものをその場で食べられるように、テーブルと椅子も置かれている。

 「今日はアイスにしよう。アイス」

 ボクは商店の軒先に置かれた冷凍庫の中を物色する。

 「チョコがいいかな、バニラがいいかな」

 りょうくんは隣に突っ立ったままボクをじっと見ている。

 「アイス買わないの?」

 と聞いてみたが、りょうくんは、乗り気じゃないという風だった。

 「アイスにはまだ早いでしょう……」

 「何言ってるのりょうくん。アイスはね、年中食べるもんだよ。五月は子どもの日でアイスが食えるぞってね」

 「それいろんな意味で違うでしょ……」

 そう言うとりょうくんは商店の中へ入っていった。

 ボクは結局チョコとバニラのダブルのソフトクリームに決めた。お店の中に入ると、りょうくんがビスケットを買っていた。続いてボクもアイスの代金を払って外に出る。りょうくんは近くのテーブルの椅子に座っていた。隣の椅子にボクも腰かける。

 りょうくんはビスケットの袋に手を入れて一つ取り出すと、それを小さく割り、欠片を持った手を足元へ降ろした。見ると、そこにはトラ猫が一匹座っていた。首輪はしていない。ノラなんだろう。

 「このへん猫多いよね」

 アイスを食べながらボクが口を開く。猫はにゃあにゃあ鳴いていた。何かを要求しているようだ。

 「ノラなのに人懐っこいね」

 「子どもの頃からこうやって人からもらって生きてきたんだろうね」

 そう言ってもう一欠片。

 猫がビスケット一枚分を食べ終えると、「もうおしまい」とりょうくんが言う。猫は一鳴きしてその場を離れて行った。

 「人の言葉が分かるのかねえ」

 ボクは感心して言う。猫を見ていると、思い出すことがあった。ボクがもっと子どもの頃のこと。

 「小学校低学年くらいのときなんだけどね、猫に餌を挙げてるおじさんがいてね、どうしてもボクも餌を挙げたくなっちゃったんだよ」

 りょうくんは黙って猫を見つめている。

 「でもお金を持ってなかったから、ボクはあげられなかったんだ。あのとき強く願ったよ。早く大人になりたいって。あのときほど大人になりたいって願ったことはなかったんじゃないかな」

 「そういうもんなの?」

 りょうくんがこちらを向く。

 「猫に餌をあげるために大人になりたかったの?」

 ボクはしばらく考えてみるけれど、よく分からない。どうしてあの日、ボクはあれほど猫に餌をあげたいと思ったんだろう。早く大人になりたいってあれほど願ったんだろう。

 「わかんない」

 自分でそう言ってから、投げ捨てるような言い方だなと思った。その言葉の言い方が頭の中を反響する。

 「猫ってさ」

 りょうくんが話し始める。

 「人と人の隙間を行き来して、人が歩けない道を通るんだ。子どもの頃ってさ、そんなんじゃなかった? 俺たちそんな風に遊んでたよね」

 言われてあのころのことが脳裏に浮かぶ。

 「分かるかも。団地に住んでた頃さ、外の壁を上ってみようとしたり、棟の裏に入ってみようとしたりしたよね」

 「そうそう」

 りょうくんが勢いよく頷く。

 「俺からすれば、猫になりたいって思うこと、あるよ」

 「猫に?」

 「隙間の通路を歩く猫に。子どもの頃はできたのにね」

 「りょうくんは最近の生活に何かご不満が?」

 りょうくんがうーん、とうなる。何かを考えているようだ。

 「高校生活ってこういうもんなのかなって、最近思ったりする、かな。まだ高校生になったばかりだけど」

 「こういうもんって?」

 「何ていうかな、いろんなイベントとか、恋とか、そういうものがもっとあるんだと思ってた」

 恋、ねえ。

 「恋してないの?」

 「ないねえ」

 「ないのか」

 そっか。

 沈黙が包む。耐え切れなくなってボクは話題を変えた。最近耳にした噂の話。

 「あのさ、図書室の噂って知ってる?」

 「図書室の? 何それ」

 「図書室でね、昔人が死んだんだって」

 りょうくんはいかにも信用していない、という風な顔をした。

 「昔図書委員だった人がね、図書室で自殺をしたんだって。いじめに遭っていたとか、好きな人にふられたからだとか、いろんな話があるけどね、それ以来図書室は呪われていて、図書室に関わった人も不幸になるんだって」

 「そんな話聞いたことないけど……」

 「まあどのくらい昔のことだか分からないし…… でも、こんな噂があると思うと、図書室に興味湧かない?」

 りょうくんはまたうーん、と唸る。

 「そもそも図書室にそんなに興味ないし……」

 「そっか」

 風が吹いて木々の梢がさわさわと音を立てた。五月とはいえ、日が傾き始めた時刻。首筋を撫でる空気はひんやりとしていた。

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