◆一月

 団地の棟が並んでいる。棟と棟の間には公園のような空間が広がっていた。地面は少し山なりになっていて、芝生で覆われている。西日が射していてまぶしい。芝生の上を走り回って遊ぶ子どもたちの姿がオレンジ色の光の中でシルエットとなって浮かび上がっていた。

 フェンスの向こう側、セーラー服の少女が光を背にしてこちらを向いている。少女は小さな女の子と手を繋いでいた。二人が手招きをする。気になってフェンスへ近寄ると、破れ目があるのが目に入った。そこをくぐり抜けて敷地内に入る。

 手招きをしていた二人の影が駆け出した。その後を追う。二人は建物の中に消える。建物には大きく「3」と書かれていた。後を追って階段を上がる。二階、三階。三階のこの部屋はりょうくんの住んでいた部屋だ。そう思うが三階を通り過ぎて四階へと向かう。四階へ上がる踊り場で、きらりと何かが光っているのが見えた。拾ってみるとそれは四葉のクローバーの栞だった。

 サッと横を小さな女の子が駆け抜けて行く。パタパタと足音を夕闇に響かせて階段を上って行く。四階を見上げると、そこにはセーラー服の少女が立っていた。こちらを見下ろしている。パチパチと音を立てて階段の電気が点灯する。どこかで見覚えのある懐かしい顔だった。

 防災放送の夕焼け小焼けが流れ出すと、セーラー服の女の子が階段を駆け上がった。「待って!」と叫ぶが階段を上る足音は止まない。後を追いかけて階段を上がる。踊り場を抜けて五階へ上がった。外は真っ暗になっていた。

 キイと音を立てて扉が少し開く。開きっぱなしになった扉から白い光が漏れ出す。その扉に近づいて、ノブに手を触れたとき、ボクは目を覚ました。真っ暗な部屋。時計を確認すると、午前二を回ったところだった。

 もう一月だというのに全身汗をかいていることに気がつく。もう二か月間、同じ夢ばかり見ている。けれど、今夜の夢は少しだけ違っていた。ボクはベッドから這い出る。ハンドタオルで軽く体の汗を拭き取ってセーターに袖を通す。

 今夜見た夢は、少し違う。あの夢の中の団地の三号棟の五階、そこの扉がボクを導くように開いていたのだ。あの扉の先にいったい何が待っているのか、ボクは気になって仕方いてもたってもいられなかった。

 携帯電話を手に取って、りょうくんの番号に電話をかける。いまが深夜の二時だろうが構うことはない。まだ記憶の中にはっきりと残る夢の中感触が消えてしまわないうちに、行って確かめなければならない気がしたのだ。明日では遅すぎる。きっと忘れてしまう。記憶が消えてしまえば、きっとあの扉の向こうにはいけない。

 三十秒ほどコールが続いたところで、眠そうなりょうくんが電話に出た。

 「はい……」

 「ボクだよ、環だよ。起きて」

 「なに……?」

 「行きたいところがあるんだ。早く支度して。玄関の前で会おう」

 「どうしたの……? っていうか今何時……?」

 「いまは二時半くらいだよ。早く起きて! 下で待ってるからね!」

 ボクは一方的に電話を切る。掃出し窓のカーテンを開けて、向かいの部屋の窓を見ると、カーテン越しにほんのりと明かりが浮かび上がるのが見える。りょうくんはばっちり起きてくれたようだ。ボクはコートを羽織って部屋を忍び出た。

 この時間、両親はもうすでに眠っているはずだ。が、万が一ということもある。音を立てないように廊下を歩き、階段を降りて玄関から抜け出した。

 あたりは冷蔵庫の中のようにしんとしていた。手袋をしていない手がどんどん冷たくなっていく。少しでも熱を求めて指先をさすったり息を吐いたりしているうちに、りょうくんが玄関から現れた。濃いブルーのダウンジャケットに身を包んでいる。

 「来てくれたんだ、ありがとう!」

 思わずりょうくんに抱きつく。りょうくんは「ちょっと」と言ってボクを引きはがした。

 「環、どうしたの?」

 「あの団地に行きたいんだ」

 「団地……?」

 「確かめたいことがあるんだよ」

 ボクはりょうくんの右手を握りしめて体を引っ張り、歩き始めた。りょうくんの右手はまだ温かかった。


 *


 「それって夢なの?」

 「うん」

 「ただの夢じゃないの?」

 「だってもうずっと同じ夢ばっかり見るんだよ。最初はただの夢だと思っていたさ。でも何度も見るうちにおかしいなって思い始めて、それで今夜だよ」

 歩きながらりょうくんは腕を組んで、うーんとうなる。握っていた手はいつのまにか離されてしまった。

 暗闇の中に四角いシルエットが浮かび上がる。ここまで誰ともすれ違わなかった。団地の周囲にはアパートやマンションが立ち並んでいるが、電気のついている部屋はほとんどない。静かな夜だった。ときおり吹く風が、木々を揺らしたり建物の間を通り抜けて音を立てているだけだった。

 ボクたちは以前侵入した場所から敷地内へ入り込む。足早に棟を通り過ぎて三号棟を目指した。

 三号棟と四号棟の間で、ボクは立ち止まる。

 「ちょうどこのあたりでね、ボクを手招きするんだよ」

 そこは、夢で見たような芝生にはなっていないものの、少し広くなっていてブランコと滑り台と砂場があった。

 「夢の中ではもっと広かったような気がする」

 「まあ夢だからね。……ほら環、行こう」

 りょうくんが歩き始める。ボクはその後を追った。

 三号棟。施錠されたベニヤの扉が階段を封鎖している。ボクは錠を手に取って数字を合わせる。五一〇三。鍵が開く。

 扉を開けて中へと侵入し、階段を上る。二階、三階。三階のりょうくんの部屋の玄関の前を通り過ぎる。四階。そこからさらに上に上がると、階段の先に扉が設置されていた。ノブを手に取ってひねってみた。ノブが回転する。開けてみると、そこは五階ではなく屋上だった。給水塔が中央に建てられている。

 「あれ、夢の中では五階だったんだけど……」

 屋上に立って団地の中を見渡してみるが、どの棟も四階建てで、五階建ての棟は一つもなかった。

 「どうして五階があると思っちゃったんだろう……」

 ボクはこの団地が四階建ての棟で構成されていることを知っていたはずだった。はあ、と息をついてボクは屋上の地面に座り込んだ。膝の上に置いた腕に顔を埋める。

 「そうだよね…… よく考えれば五階なんてないって、すぐに分かったはずなのに……」

 顔を上げると、遠くに西新宿のビル群が見えた。赤い航空障害灯が静かに明滅している。

 「りょうくん、付きあわせてごめんね……」

 「いや、いいよ……」

 ひんやりとしたコンクリートがズボン越しにボクの体から熱を奪っていく。寒さで小刻みに体が震えていることに気づき、ボクは立ち上がった。

 「帰ろうか」ボクがそう言うと、りょうくんは黙ってうなずいた。


 *


 屋上から四階に降りたとき、ボクは戯れに扉の前に立ってノブに触れてみた。夢の中で、開け放たれていた扉と同じ左側の扉。そしてりょうくんの住んでいた部屋の真上の部屋。ボクはノブを握った手に力を入れてみると、ノブが回転した。思わぬ事態に心臓が跳ねあがる。引いてみると扉はキイと音を立てて開いた。中に暗闇が広がっている。

 「りょうくん!」

 階段を下ろうとしていたりょうくんを呼び止める。駆け上がってきたりょうくんは目を丸くしていた。ボクは中に入ってりょうくんを導き入れる。ボクの背後でりょうくんが扉を閉めた。

 携帯電話を取り出してライトを付ける。玄関を上がったところに雑誌が紐で縛られて山積みになっていた。玄関横の靴箱の上には小さな人形などが置かれていた。靴箱の中には、女性ものの靴がいくつか仕舞われていた。

 携帯電話を持つ手が震える。震えるほどの小さな声で「おじゃまします」とだけ言うと、ボクたちは靴を脱いで玄関を上がった。

 ライトを照らしながら廊下を進む。廊下には特に物は置かれていなかった。りょうくんの住んでいた部屋の真上の部屋なので、たぶん構造は同じだろう。突き当りの扉を開ければリビングがあるはずだ。

 ボクはノブを手に取って扉を開ける。その先でライトに照らされて浮かび上がったのは、まだ人が住んでいそうなリビングだった。テーブルの周りに四つ椅子が並んでいて、その上には書類や手紙や雑誌が山積みになっていた。下を見るとそのいくつかが床に滑り落ちている。

 壁際にはテレビも置かれたままになっていた。その横の引き出しは開けっぱなしで、中身があたりに散らばっている。そこはまるで泥棒が入った後のようだった。そしてその上の壁にはカレンダー。「2013」と書かれている。ボクは息を呑んだ。

 「りょうくん、これ見て!」

 ライトでカレンダーを照らす。

 「去年のカレンダーじゃん…… 三月……?」

 「この団地が閉鎖されたのって確か去年の四月だったよね……」

 「閉鎖直前まで住んでたってこと……?」

 ボクたちはテーブルの上に山積みになった書類や手紙を手に取ってみた。住民税や公共料金の請求書、年金のお知らせの手紙がほとんどだった。宛名に「藤田サチコ」と書かれている。日付を見ると、2012年のものがほとんどで、いくつかは2013年のものだった。書類の中には、団地の立ち退きを要求するものや、老人ホームのパンフレットなどもあった。高齢の方が住んでいたということが分かる。

 「ここに住んでた人、どうなっちゃったんだろうね……」

 「引っ越した、とは考えにくいよね。家具とかほとんど置きっぱなしだし……」

 「死んじゃったのかな……」

 ボクはこの部屋に住んでいた人に思いを馳せる。一人暮らしだろうか。高齢のおばあちゃんが四階で生活するのは大変だっただろう。買い物に行くにも、エレベーターのない階段を上り下りしなければならない。老人ホームへの転居も勧められていたに違いない。けれど、断っていたんじゃないかという気がする。いまどこで何をしているのだろう……

 そんなことを考えている間に、りょうくんは廊下に出ていた。リビングを出て右側の部屋を開けようとしている。ボクは急いでりょうくんの元へ駆け寄った。そこはりょうくんの部屋のちょうど真上。

 扉を開ける。東側の窓から街灯の明かりがほんのりと差し込んでいた。携帯電話のライトで部屋の中を照らす。女の子の部屋のようだった。学習机が東側の窓の下にあり、右側の壁に接していた。机の上には小さなぬいぐるみと教科書机が並べられている。机の横には花柄の布団の乗ったベッド。上にクッションが二つ並べられていた。

 ベッドの反対側の壁に本棚があり、その手前側にセーラー服がかかっていた。ボクの高校のセーラー服だった。そして部屋の奥がクローゼット。床を見下ろすと、毛の柔らかいクリーム色の絨毯が敷かれていた。絨毯の上に小さな四角いテーブルが置かれている。

 「机とベッドの位置が俺の部屋と一緒だ」部屋を見渡しながらりょうくんがつぶやく。

 ボクはこの部屋になぜか懐かしさを感じていた。小さい頃何度も遊びに行ったりょうくんの部屋に似ているからだろうか。

 「ねえ、この部屋、なんか変じゃない?」

 物思いにふけっていたボクをりょうくんの声が揺り戻す。

 「えっ? この部屋がこうして残ってるってこと自体変だと思うけど」

 「いや、そうじゃなくてね、さっきのリビングは、物で散らかってたでしょ?」

 確かにあそこは泥棒が入ったかのようだった。そこでボクも気づく。

 「この部屋綺麗だね……」

 「そうなんだよ……」

 「机の上もね、そんなに埃っぽくないんだ」

 「団地を出るまで、掃除されてた……?」

 りょうくんがうなずく。いったいこの部屋は何なんだろうと考えながら、ライトで部屋を見回しているとき、ボクは机の右横の壁にかけられたカレンダーの存在に気づいた。カレンダーの上部には2005年の十二月と記されている。

 「りょうくん、これ……!」

 「2005……? 去年まで住んでたんじゃないのかな……」

 「2005年って、ボクたちが小学生のころだよね……」

 「二年生の頃、かな……?」

 膨れ上がっていく疑問に導かれるように机の周辺を見ているとコルクボードが目に入る。カレンダーの下の壁に立てかけられていた。写真が何枚かピンで留められている。近づいて見てみると、その一枚にはセーラー服を着た少女が写っていた。瞬間、心臓が跳ねあがる。

 少女は右肩越しに振り返ってこちらを見上げていて、手に四葉のクローバーの栞を持っていた。栞をこちらに見せるようにして。その栞は、前にボクが団地の階段で拾ったものとよく似ていた。栞を持った少女は、恥ずかしそうに笑顔をこちらに向けている。

 「ねえ、この子って……」

 写真を見るとりょうくんは小さく声を上げた。写真から顔を上げたりょうくんと視線が合う。

 「自殺したあの子の部屋なんだ、ここ……」

 りょうくんがつぶやくように言った。

 自殺したあの子の部屋。それを強く認識すると、ボクはこの部屋の中で、世界から取り残されてしまったかのような気がして、体が少し震えるのが分かった。何で死んじゃったんだろう……

 小さい頃何度も遊んでくれた少女の記憶が湧き上がってくる。家に帰りたくなくて、一人で遊んでいたところを声かけてくれたあのお姉さん。一緒に遊んでくれたのは、この部屋だったんだ。ベッドの上に並んでいるクッション、あれに座らせてもらったような気がする。

 足元のテーブルに視線を落としたとき、続けて記憶がよみがえる。

 「ねえ、りょうくん、りょうくんはこの部屋のこと覚えてる?」

 りょうくんは首をかしげている。

 「りょうくんはね、この部屋、来たことあるんだよ」

 「えっ?」

 「小学二年生の頃さ、自分の誕生日が八月だから、学校で誰も祝ってくれないって、泣いたことあるでしょ」

 「あったかな……」

 「あったんだよ。八月十日生まれだから、お盆でみんな帰省しちゃって、近所の子も祝ってくれないってね。この部屋のお姉さんがそれを聞いて、りょうくんの誕生日会を開いてくれたんだよ。ここでね……」

 「そうだったっけ……?」

 「お姉さんがポテトチップスを開けてくれて、三人でジュース飲んでさ、お姉さんとボクでハッピーバースデーを歌ってあげたんだよ。覚えてないかな?」

 りょうくんは腕組みをしてうーん、と唸る。

 「確かに知らない女の人の部屋に上げてもらって、誕生日を祝ってもらったことがあるような…… でも、あんまり覚えてないな……」

 「あの日のりょうくん、かちこちに緊張してたんだよ。お姉さんと目も合わせないでさ。あまりに縮こまって座ってたもんだから、お姉さん、すごく笑ったんだよ。それをよく覚えてる。でも、そっかあ……」

 「なに?」

 「覚えてないんだ……」

 りょうくんはきまりが悪そうだった。

 「ごめん」

 「いや、謝らなくていいよ、別にね」

 ボクはあははと笑って見せたけど、それはボクの気持ちをうまく隠してくれたんだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る