スパムコメントの罠
夕方 楽
悩めるITボーイ
「やっぱりいいなあ、探偵さんって自由なんですよね」
田柄と名乗るその青年は応接用のソファに腰を下ろすなり、そう声をあげて私のオフィス、『
ブラックスーツにノーネクタイ。長身で痩せ型のためか、高さが低いソファに腰掛けると、長い両足が左右に開いて鋭角に折れ曲がり、威嚇するカマキリの二つのカマのようにも見える。
短めの髪と黒縁のメガネの色白な顔は鼻筋が通っていて、いかにも女性にモテそうだ。ただ、彼が常に無意識に発信している何かが、一人の女性とは長続きしないタイプだということを私に確信させた。
「でも大変なんでしょうね。一旦依頼を引き受けたら、解決するまで自由な時間なんてなくなるんですよね」
唐突に私に向けた笑顔の目は笑っていないが、暗く光る瞳にはあどけなさが残っていた。まだ学校を出て間もないようだが、おそらく仕事はデキるのだろう。
「まあね、案件がなくてもそんなに自由じゃない。自由気ままに思えるのは、フィクションの中の探偵のイメージが大きいんだよ」
「そうですよね。きっと僕の方が自由かもしれないな。僕は今、フリーランスでスマートフォン用のアプリを開発して生計を立てているんです。アメリカの大手IT企業が開設しているアプリのマーケットにオンラインでアップロードして販売してます。当たると結構儲かるんですよ、これが」
得意げな青年の横顔に、ちょうどオフィスのある三階の高さに茂っている街路樹から漏れる、十一月の午後の低い陽光が、まだら模様を作っては消している。
次の瞬間、青年は真顔に戻り「あ、すみません、横道にそれてしまった。今のこの場に、時間制限ってあるんでしたっけ?」
私はチラリと時計に目をやり「いいや、もうちょっと聞きたいな、君が儲けた話」
半分は本心だった。今の時代、こんな若者はたくさんいるに違いない。一体いくらぐらい稼いで、どんな暮らしをしているものなのか、ちょっと興味が湧いてきた。
「あ、いや、ハハハ……儲かるっていっても、大金持ちになるってことじゃあなくて、まあ、どこかに勤めなくても、僕一人が食べて行くくらいは、なんとかって感じで」
そういって田柄は、目を何度かパチパチとしばたたかせると、前のめりになっていた姿勢を戻してソファの背に寄りかかった。
「とにかく、今の日本の会社、何ていうかな、そう、いわゆるカタカナで表現されるカイシャってもんがイヤだったんです。僕は大学を出た後、一度他のみんなと同じように就職しました。誰でも名前を知っているような大企業でした。同期で入社した仲間は、まんざらでもない様子で、周りに社章を見せびらかすようなことをしたりもしていましたが、僕にとっては毎日が苦行でした。特に、意味のない残業。もともとその会社は……ちょっと失礼」
ブーブーと震えるスマートフォンをポケットから取り出すと、何かメールに返信するような操作をして「すみません、仕事の連絡で……えっと、それで、もともとその会社は、上役が帰るまで、その部下は先に帰りにくい雰囲気があったんですが、僕がいた部署は最悪でした。その日の仕事は全員とっくに片付いているのに、部長が帰らないから、帰れない。部長がなんで帰らないかというと、大学受験でキリキリしている奥さんと子供のところに帰るのがイヤだからなんです。かといって、こんな不況ですから、夜の街で遊び歩くほどの小遣いも当然もらっていない。だから、グズグズと会社に残って時間を潰している。その間僕たちは、自分の席のウィンドウズ・パソコンに最初から入っているソリティアっていうゲームなんかをやって部長が席を立つのを待っているわけです。僕は一刻も早く家に帰って、大学時代からすでに始めていたアプリ開発をしたかったから、本気で部長を憎みました」
彼はそこで一息つくと、左手の人差し指でメガネの位置を少しだけ上にずらした。
「でもね、僕が本当に失望したのは、場の空気に逆らえず、我慢して残っている自分自身に対してでした。殺されるわけでもないのに、一人だけ先に帰る勇気さえない。この会社にいる限り、僕はこうして周りに流されて無駄な時間を過ごして歳をとっていく。そんな思いで悶々と過ごしていた時、ちょうど初めて公開したアプリがちょっとだけヒットしたんです。何万、何十万という数のアプリがしのぎを削る激戦区で、それは取るに足らないダウンロード数でしたが、僕に会社を辞める決意をさせるには十分でした。まあ、そんな経緯で、今こうしているというわけです……あーっと、今度こそ本当にしゃべりすぎましたよね。ごめんなさい、そろそろもう、本題に入りますんで」
大げさに両手で顔を覆ったあと、再び顔を上げると、まっすぐに私の方に笑顔を向けた。
「実は今日、自宅のポストに、一千万円投げ込まれていたんです」
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