多摩湖の死体

 日曜日の夕方、多摩湖の小さな入り江で、後藤亜実の死体が発見された。多摩湖は東京都の貴重な水源として区域内は立ち入り禁止となっているが、近くに住む大学生のカップルがフェンスの破れ目から雑木林に侵入し、隠れ家風の入り江まで出たところ、浅瀬に死体が引っかかっているのを目撃した。そのフェンスの破れ目は、一見わかりにくい場所にあるが、近隣のカップル達には、人目を避けて二人きりになれる場所として有名らしかった。

 現場での検死の結果、死体は角膜の白濁状態から、死後二、三日が経過していて、陸地で絞殺されてから湖に投げ込まれたのだろうと推定された。水中死体であるため、死体現象だけから正確な死亡時刻を割り出すことは難しく、司法解剖の詳細を待って、他の所見と合わせて判断する必要があるとのことだった。所持品から死体は世田谷区に住む高校三年生、後藤亜実であることが判明し、捜査本部は別居中の父親を含め関係者に事情聴取を開始した。

 私は何気なく付けたテレビから流れたそのニュースを見て、よろけながら応接用ソファに座りこんだ。私は、後藤亜実の父親から受けた依頼を遂行することができなかった。銀縁メガネの小さな眼球から光が消えて、憔悴しきった後藤の表情が目に浮かんだ。そして、援助交際をやめるよう伝える、という海野との約束も守れなかった。だからといって、私はどうすればよかったというのだろう。死後二、三日ということであれば、殺されたのは木曜日の夕方から金曜日の夕方までの間となるが、彼女が金曜日の午後二時に海野に最後の連絡を入れているから、そこから同日の夕方ぐらいまでの間に狭められる。その間、私はどこにいただろうか。午後二時といえば、まだ田柄がオフィスにいて、私が依頼を受けていた時間だ。その後、オフィスのPCで後藤亜実のアタリをつけ、友人と思われる海野と下北沢で会ったのが既に夕方の六時過ぎだった。あまりにも遅すぎた。私がどうにか後藤亜実の輪郭をつかんだとき、彼女はすでに誰かに殺され、冷たい十一月の多摩湖に投げ込まれてしまっていたのだ。

 私はデスクのPCのところに行き、ニュースサイトにアクセスして、アーカイブされた事件現場のテレビ映像をもう一度確認した。ポータブルのサーチライトで明るく照らされた岸辺に捜査員たちがしゃがみこみ、何かの作業をしている。少し離れたところに、見覚えのある人間が突っ立っている。その両手を腰に当てた尊大な態度から、捜査の指揮官であることがうかがわれた。ベージュのトレンチの前をはだけ、突き出た大きな腹の上にネクタイが小さく乗っかっている。カメラのアングルで正面から顔を確認することはできなかったが、それはまぎれもなく、私の学生時代からの友人である警視庁捜査一課係長の松山刑事だった。

 彼なら今回の事件も早晩解決してくれるに違いない。私は当面の捜査の流れをシミュレーションしてみた。

 死体の身元が割れている以上、警察はすぐに後藤亜実の一人暮らしのマンションを突き止め、中に踏み込むだろう。そして、充電スタンドにセットされた彼女のスマートフォンを見つけ、たくさんの援助交際の履歴を目にするだろう。その履歴から何人かの容疑者を割り出せるかもしれない。さらに、一千万円を巡る田柄とのメールのやり取りを発見し、田柄が帰国する明日の朝を待って、参考人として事情聴取をするだろう。田柄は一千万円の顛末を話し、金の出所の調査を私に依頼したことを伝えるだろう。

 警察はまた、後藤亜実の父親にも事情聴取をするだろう。後藤は、一千万円の出所についても、警察に話さなければならなくなるだろう。そして私が彼女の件で突然後藤の家を訪問したこと、さらに渦中の一千万円のありかを知っていると発言したことも重要な証言として記録されることになるだろう。

 どう転んでも、私は警察から参考人として聴取される。今私がすべきことがあるとしたら、それは警察からの連絡を待つことだけだ。


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