下北沢へ
オフィスのあるバス通りから小田急線の駅まで歩き、電車で下北沢に向かうことにした。ほぼ平行して走るバス通りと小田急線の間は、戸建て住宅が密集していて、所々に廃止された公共施設の跡地か何かに建てられたのであろう新し目のマンションがポツリポツリと点在して街並みのバランスを壊している。駅までの近道はそうしたマンションを迂回するために何度もクランクしていた。かと思えば突然道幅が広がり、庭の柿の木が道路に実を落とさんばかりに枝を広げる重厚な邸宅街が現れたりする。そうした邸宅街は何区画も続かず、またすぐに車が一台通れるかどうかの細い道に戻り、やがて駅の喧騒が耳に届く。
帰宅ラッシュで騒然とする下り列車を尻目に、ガラガラの上り電車に乗り、下北沢へ向かう。既に濃い紫色に暮れ行く十一月の夕空を車窓から眺めながら、私はネット上のumiko777のプロフィール写真を思い出す。
鮮やかなピンク色の髪に猫耳のカチューシャ、丸い鼻と太い三本ヒゲが口紅か何かで顔にペイントされている。夏に撮ったのか白いTシャツの柄が少しだけフレームの中に見えているが、何の柄なのかは判別できなかった。ただ、やはり猫を思わせるラグビーボール型で端がつり上がった大きな目、こちらを見つめる大きな黒い瞳は、写真でありながらも、忘れることのできない何かを持っていた。
下北沢に着き、商店街をしばらく歩いて二階のファストフード店に入る。注文する前に、フロアを見回して、彼女が来ているかどうかを確認した。約束の時間の少し前だったが、奥の席から私を見上げた黒い大きな瞳と目が合った時、 それがumiko777であることを確信した。
私は彼女に向かって軽く手を上げた後、カウンターに戻ってコーヒーを注文し、スチロールのカップを持って再び彼女のいる席に向かった。
「探偵の由名時です。君がウミコさん?」
「海野といいます。ウミコのままでもオッケーだけど。そこ座っていいですよ」
そういって向かいの席を指差す彼女は、ネットのプロフィール写真とは違い、どちらかといえば清楚だった。セミロングの黒髪を後ろで束ね、通学服なのであろう白いシャツにチェックのスカート、リボンやネクタイはしていなくて、胸のボタンを一つ外していた。店内が暑いのか、クリーム色のベストと紺の上着が横の椅子に脱いであった。テーブルの上には大学受験用らしい参考書が何冊か乱雑に積まれ、その一つが開かれていて細かな書き込みがしてあった。数学の参考書で、積分の練習問題が並んでいた。随分前からここにいて、勉強をしていたようだった。どちらにしろ女子高生であることに変わりはなく、私はこのシチュエーションに戸惑い、周りの視線を気にした。
自分でもぎこちないとわかる動作で椅子に座りながら「ネットの写真と全然違うね」
「当たり前じゃないですか。本人とわからないような写真をアップするのは常識ですよー」
ガックリ、という感じで体を前に少し折り曲げる。脇によけていた前髪が垂れて顔を隠し、胸元が見えそうで私は思わず緊張が高まる。
「よく僕と会う気になったね」
「だって本物の探偵さんでしょ、記念に会って見たいじゃないですか、ケラケラ」
「ケラケラ?」
「おかしいから、笑ったってこと。よくショックを受けた時、ガーンって声に出すでしょ、あれとおんなじ」
「なるほど。で、実際に会ってみてどうだった?」
「見た感じは普通ね。普通すぎる探偵?」
「あまり目立っても、尾行とかに差し支えるんでね」
「やっぱり尾行とかするんだ」
「猫とかね」
彼女が何か言いそうになるのを遮り「ずいぶん勉強してるんだね」
「もう高二だからね、今から受験勉強しないと。ケラケラ?」
「いいとこ狙ってるんだ」
「T大か、K大、W大あたり。大学行くならそれ以外はお金の無駄だって、父がよく言ってたんで」
「君自身はそこに行きたいの?」
「あー、センセイみたいだね、そんなふうに聞くの。父のことはともかく、私は大学に行きたい、というよりは、世の中がどんな風に変わっても、自由に生きていけるようになりたくて。そのためにすごく勉強したり、いい大学に行ったりというのが必要なら、そうしなきゃって思ってるから。だって、ただそこそこの大学行って、そこそこの会社に勤めたって、その会社がつぶれちゃえばおしまいじゃないですか。それに、結婚して専業主婦ですーっていうのも、これからは難しいと思うし。だから、会社がつぶれたり、だんなさんに養ってもらえなくなっても、なんとかやっていけるチカラを身に付けたくて、そのためにはやっぱり上の大学狙っておかなきゃなって……」
「なるほど、いろいろ考えているんだね……」
私は、ロックバンドと女の子にしか興味がなく、どちらも上手くいかなかった自分の高校時代を思い出した。
「だって、資本主義はもう終わりじゃないですか」
「……」
思いもよらない言葉が海野の口から出てきたので、私は面食らい、正面に座る彼女を再度まじまじと見つめた。クリクリとよく動く大きな目と呼応して、次々に変化する表情。パリッとした白シャツに包まれた上半身は、ピンと張った力強い肩の線がしなやかに動いてみずみずしい軌跡を残す。重力をはね返すその黄金のラインは、成人を過ぎたら絶対に取り戻すことはできない十代の証だ。私は性別は違いながらも、それを所有している海野を限りなくうらやましく感じた。
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