第8話

 松田がクリスマスに向けて、イベントを持ちかけてきた。

 ジャズの演奏を店内でやろうと言うのだ。

「薫風堂クリスマス・ジャズライブ、と題してワンドリンク付き2000円の予約チケットを販売してみてはいかがかと」

 近衛はアルコールを出すことに対して難色を示した。

「夜、こういったお店のジャズ・ライブでアルコールが無いというのも寂しいもの。アルコールは常備ではなく、今回特別に当日限定での販売としてみてはいかがですかな?」

 近衛はしぶしぶ了承した。

 こうなると業のようなもので、出すアルコールはなにを選ぶか、近衛を悩ますことになる。

 昨今の焼酎ブームはまだ許せるとして、発泡酒をメニューに加えるのは気が進まなかった。ましてや松田が言うように、「キリンとアサヒで好みが大きく分かれるので、2銘柄用意しておくべき」という意見にはどうしても承服しがたかった。結局、近衛はヱビスビールだけ置くことにした。

 焼酎はさんざん迷った挙げ句、薩摩川内市のいむた池麓にある祁答院蒸溜所の野海棠のかいどうという銘柄と、鹿児島市さつま無双株式会社の極の黒を置くことにした。

 野海棠は本来、霧島山に自生するバラ科の植物である。この蔵ではその名を冠した焼酎を木槽もくそう仕込み・木樽蒸留という独特の製法で造っている。木の香りがほのかに漂い、ふくよかで爽やかさもあるその甘みに、近衛は珍しく感嘆の声を上げた。限定発売されたアルコール度数32度の3年古酒原酒もあったが、これは今まで体験したことのない素晴らしい味わいで入手困難だったこともあり、秘蔵用として、奥の氷温庫にこっそり保管した。

 極の黒も3年古酒で、焼酎のレファレンスとして置いたものである。さつま白波や霧島といったメジャーな銘柄はあえて置かなかった。だが、さつま白波の明治蔵、地元でしか手に入らない春秋謳歌に似た4号瓶白ボトルを飲んでいたら、話は違っていたのかもしれない。

 伊佐大泉や原口屋甚衛門、千鶴の7年古酒も考えたが、安定して入手することが難しいことがわかり、止めにした。どうせ日頃は置かないアルコール類なのだからその時に取れるのなら置けばいいと考えるのが普通だが、勧められたのに入手ができなかった時の失望感を味わったことがある近衛には、それが許せなかった。

 もっとも、特別の来客用に個人的に所有している森伊蔵の楽酔喜酒1996年も万一に備えて、お店の氷温庫に移していたりするのだった。

 冷蔵庫を開けた際に、すぐ見つかったりしないようにと、森伊蔵の一升瓶で隠すあたり、無駄な努力である。なぜなら、森伊蔵の一升瓶ですら貴重なお酒である。これを手に取ってしまえば、その奥に隠していてもモロバレである。

 だが近衛はこれで大丈夫だろう、とほくそ笑んだ。

 ウイスキーは香りが素晴らしいバランタインの17年と30年を置いた。他にマッカラン18年と30年も置くことにした。

 輸入元が山崎シングルモルト・シェリーカスクを創ったサントリーである。昨今のスコッチウイスキーの評価を考えるなら、どうせならそちらを置いた方が良かったのかもしれない。それに仕入れ価格と利益率を考えたら、いずれのスコッチも足が出るのは目に見えていた。もっとも、山崎シングルモルト・シェリーカスクがワールド・ウイスキー・バイブル2015で最高得点をつけて以来、プレミア価格がついて入手困難となってしまってはいるが。

 ワインはBELLINI CHIANTIの2008年ものだけ置いた。来客がある際に近衛が出すワインの一つで、美味なのに比較的値段が安くて、一気に100本購入してしまったシロモノである。少々飲まれてしまっても、余裕である。

 近衛はワインには痛い目に遭っていて、有名なソムリエに勧められて大枚はたいて購入したボルドーが見事なまでに外れだった。これは酒販店の保管状況にもよるのだろうが、コルクがボロボロで、一部は瓶内に落下していたのもあった。飲んでみてもタンニンが強すぎて、不快な渋みが目立ち、香りが台無しになってしまっていた。それに価格も投機的で、中身に見合ったものではないと痛切に感じた。

 以後、自分が飲んでみて本当に美味しいと感じ、価格も比較的安い(と言っても、高いものは1万円を超えるが)ワインだけ自宅に取り置くことにしていた。

 日本酒は置かないことにした。

 実は近衛は大の日本酒好きである。もっとも量は飲めないが、訪問先などで明鏡止水や磯自慢、義侠、加茂福が出されたら、酔い潰れるまで飲んでしまう危険性があった。なにより、そのような銘柄を揃えたら、我慢できなくて自分が飲んでしまうのが目に見えていた。さらに、お気に入りの銘酒がザルで底なしの客に容赦なく飲まれてしまうのが耐えられなかった。

 焼酎にしろ、ウイスキー(年数の若い方のみワンドリンクとして供される)にしろ、ワインにしても、これにチーズや生ハム、燻製の鴨肉などが出てきた上に、ジャズのライブまで楽しめるとなれば、超破格値である。

 だが近衛は本来このお店の売りであるコーヒーがアルコールに圧されてしまっていることに、危機感を覚えていた。

 一つドリンクを選べとなると、どうしてもコーヒーよりビールやワインなどのアルコールとなってしまう。

 近衛としては、なんとかコーヒーを飲んで欲しかった。

 そこで先頃共同で仕入れたばかりのゲイシャというパナマのラ・エスメラルダ農園で採れたコーヒー豆をリストに加えることにした。200gで一万円もする希少豆である。

 桃のようなフルーティーな香りと、もったりとせずに爽やかで心地よい甘み、そしてスッキリとした嫌みのない酸味。

 エチオピア原産と言われるゲイシャはコスタリカでも栽培されているが、ラ・エスメラルダ農園のゲイシャは香りの豊かさでは群を抜いていると評判である。そのため、一杯2000円で提供する喫茶店もあるくらいである。

 近衛としてはバランタインの17年にも匹敵すると見込んでの、ある意味、採算度外視の暴挙である。

「ゲ、ゲイシャとケーキのセットなんて、なにを考えているのやら。そもそも、こんなものを出したら、赤字ですぞ」

 松田は身を乗り出して止めようとしたが、近衛の決意は固かった。

「薫風堂は喫茶店です。バーではありません。ゲイシャは薫風堂の看板を飾るに相応しいコーヒーです」

 松田はため息をついて、腰を落とした。

 12月20日土曜日当日。

 雪交じりの寒波が早朝から関東を襲った。

 風も強く、交通機関も乱れ、路面凍結による転倒などが相次ぎ近衛は気を揉んだが、ドラム、ピアノ、ベース、ギターと次々とやってきて、近衛は安堵の表情を浮かべた。

「MNOの新さんじゃありませんか? ピアノの木之元です。その節はお世話になりました」

 木之元は笑顔で手を差し出す。

 ドラムの向井が驚いて振り向いた。

「えっ? クィーン・レーベルの近衛さん、ですよね。千明さんの2枚目のアルバムでドラムを叩いた向井です。あの録音、見事でした。あれ以降、急に仕事がくるようになって、ほんと、近衛さんのお陰です」

 向井も手を差し出した。

 近衛も「その節はお世話になりました」と、最初に木之元、そして向井と握手した。

「それにしても、なんで近衛さんがこんなところに?」

 向井が首を傾げた。

「いや、ここが私の喫茶店なんですよ」

「ええっ、喫茶店? 近衛さんが? クィーン・レーベルであれだけヒットを飛ばした近衛さんがこんなところで喫茶店?」

「ええ。裏が自宅なんです。千明が引退してこの喫茶店を私の父から受け継いで切り盛りしていたんですが、千明が亡くなってしまったんで、今では私がマスターやっています」

 近衛は頭を掻いた。

 木之元が嬉しそうに歩み寄った。

「まだ、楽器、やってらっしゃるのですか?」

「いや、あの通り、飾りと化してまして」

 近衛はカウンターの奥の笙と篳篥を指した。

「それは残念です。あの笙の音色、まだ耳に残っていますよ。鮮烈でしたから。最初お話があったとき、笙にピアノなんてなにを考えているんだ、とマネージャーに言ったものですが、クラシック音楽からアニメの音楽まで、まったく異和感なく演奏されたのには驚きでした」

「いやぁ、お恥ずかしい。まだ若かったので、なんでもやってみたかっただけなんですよ」

 懐かしい昔話に会話が弾んだ。

 ギターとベースの二人は、クィーン・レーベルの社長と向井から聞いた時には普通に頭を下げて軽く握手しただけだったが、向井が「あの録音を現場で実際にやってくださったエンジニア兼プロデューサーさんでもある」と言ったとたん「お噂はかねがね」と、再び握手を求め、思いきり手に力を込めたので、近衛は苦笑するほかなかった。

「それにしてもボーカルが遅いですねぇ。交通機関は動いていましたけど」と、リーダーの向井が呟いた。

 ボーカルは日系4世。今、売り出し中の実力派女性ボーカル、米国在住のヒロ・ナカムラである。

 午後4時に日本ツアーを終え、明日、アメリカへ帰国予定だった合間をぬって、午後6時からのジャズ・ライブに3曲だけ参加して歌ってもらうという離れ業を、ヒロ・ナカムラを招聘した音楽事務所に持ちかけたのである。

 こういうところは、さすが、音楽事務所の元社長ならではの人脈と言えよう。もちろん本日のジャズ・ライブのメインであり、コンサートのチケットを取れなかったヒロ・ナカムラのボーカル目当てにやって来る客も期待しての企画であるのは、言うまでもない。

 リッキー・リー・ジョーンズを思わせる動物的かつ奔放な歌いっぷりでファースト・アルバムが全米2位まで昇りつめ、セカンド・アルバムも全米3位と、まさに現代版リッキー・リー・ジョーンズである。

 お陰でチケットは2日で完売。と言っても、用意したのは30枚で、10枚は招待券と化してしまったので、実売は20枚である。

 招待券の内、2枚はオーディオ機器を提供してくれた奏の祖父母である三条夫妻に贈られたが、果たして来てくれるかどうかはわからなかった。

 JBL・DD66000の前の横一列に並ぶテーブルを3つ除けて演奏スペースとし、入り口に近い最後列のテーブルを片付けて12人分の椅子席とした。

 調理場には助っ人を呼んでいて、用意は万端。ボーカルが来次第、曲の入りを確認すればOK、という段取りであった。

 その時、突風に煽られ、入り口のドアが壊れんばかりに開いた、かのように見えるほど、松田が息せき切って飛び込んできた。

「大変だ。ヒロ・ナカムラが倒れた。インフルエンザだそうだ。熱が40℃を超え、新宿からこちらへ向かう途中、意識が朦朧となって、タクシーでそのまま河北総合病院に担ぎ込まれた」 

 近衛の顔色が変わった。向井も青ざめた。

 向井が声をかけたこのメンバー、実は寄せ集めである。だから曲もメイン6曲、アンコール用に2曲しか用意していない。メインの内、3曲はボーカルの予定で用意したもので、ボーカルがなくては格好がつかない。

 近衛は呆然と宙を仰ぎ、向井は唇を噛んだ。ギターの榊原とベースの坂上は顔を見合わせた。

 その時、ピアノの木之元が近衛に歩み寄って、ニヤリとした。

「近衛さんがいるじゃないですか。私がピアノやります。あの時に収録した3曲分くらいなら、いつでもやれますよ」

 だが、近衛は頭を振った。

「もう、かつてのような演奏は私にはできません。練習もしていないし」

「今日の曲目にもあるマイ・フェイバリット・シングス、あれ、主旋律を笙でやったじゃないですか」

 近衛は悲しげに視線を落として頭を振った。

 アマチュアならまだしも、かつてレコードまで出したことのあるMNOの新としては、下手な演奏をしてそのイメージを傷つけることだけはしたくなったのだ。こういう時、完璧主義者は本当に困ってしまう。

 その時、カウンターの中から声がした。

「マイ・フェイバリット・シングスを歌えばいいのですか?」

 向井がカウンターの声の方に視線を向けた。声の主は奏だった。

「まぁ、そうだけど、英語で歌わなくちゃならないからねぇ」

「Raindrops on roses and whiskers on kittens・・・・・・」

 えっ? と全員が声の方を振り向いた。

「Bright copper kettles and warm woolen mittens・・・・・・」

 向井がゴクリと喉を鳴らした。

 英語の発音もだが、音程があまりにも見事だったからである。

「英語で歌えるのか?」

 近衛が驚いて訊いた。

「はい。去年の文化祭で歌いましたから」

 文化祭と聞いて、近衛はガックリ肩を落としたが、向井は目を丸くした。

「全部、歌えますか?」

「たぶん。歌詞カードがあれば大丈夫だと思います。あ、音源があれば聴かせてください」

 向井は急いで鞄を開くと、中から楽譜を取り出し、カウンターに小走りに駆け寄った。

「こ、これなんですけど」

 奏は楽譜を受け取ると、ニッコリ微笑んだ。

「たぶん、これなら歌ったのとまったく同じ歌詞です。音程は1音分低いようですけど」

 そう言うと、楽譜通りに移調して再び最初からアカペラで歌い始めた。

 ピアノの木之元が途中から伴奏を始める。ベースの坂上が続く。

 もう、これだけでも十分に聴かせるに足る音楽になりつつあった。

 その時、近衛が横で声をかけた。

「もうちょっとけだるく、甘えた舌足らずのような口調で、あまり音程は気にしないで喋るように歌ってみてごらん」

 奏は即座に反応して歌い方を変えた。

「信じられん。もう一人、ヒロ・ナカムラがいる」

 松田が唖然として目を見開いた。

 さすがに本物のヒロ・ナカムラには及ばないし、まだクラシック音楽調の正確な音程が抜けないものの、それなりにジャズっぽい歌い方になっていた。

「リーダー、出番、出番!」

 木之元が声をかける。

 あんぐりと口を開けて呆けて奏を観ていた向井が、慌ててドラムに駆け寄りシンバルを叩き始めた。

 シンバルが鳴り始めると、奏は歌うのを止めた。楽譜の歌詞が終わって、ドラムの合図まで休止、とコメントが書かれてあったからである。

 奏はドラムの方を見て体でリズムを取っていたが、ピアノ、ギター、ベースとソロが移ってゆくに従って、視線をそれぞれに向けて楽しげに体を揺らしていた。

 そして再びドラムがリズムを刻み始めて向井がボーカルの奏にアイコンタクトしたが、さすがに2番の入りが合わなかった。

 だが、ギターが旋律部分をカバーしたので、奏は気づいてすぐそれを追いかけるように2番を歌った。

 2番を歌い終えたところで、向井は曲を止めた。

「お、お嬢ちゃん、文化祭で歌ったのって、ジャズじゃないよね?」

「はい、クラスの出し物で、ピアノと合唱です」

 ギターの榊原とベースの坂上が顔を見合わせた。タイミングが多少ずれたとは言え、初顔合わせで曲の入りのタイミング確認という意味では、ほとんどリハーサル上、合格レベルである。

 プロならここまでできれば、あとは本番でキッチリと合わせるところなのだが・・・・・・。

 近衛は近衛で、まるで千明を彷彿とさせる歌いっぷりに驚くとともに、一声かけただけで歌い方を理解し、合わせることができた奏の才能に舌を巻いた。

 さらには奏のその柔軟な発声に、冴木のレッスンの効果が現れている、と感じていた。そしてなにより豊かな声量は、レッスンを始める前とは段違いだった。

「さすがは、千明さんの娘さんですな」

 松田が大きくうなずきながら言った。

 向井は驚いて奏の顔をまじまじと見つめた。

「あ、あの三条千明さんの娘さんなんですか?」

「はい、奏と申します。歌えてちょっと楽しかったです」

 近衛は数回頭を掻くと、小さくため息をついた。

「申し遅れましたが娘の、奏、です」

 近衛が頭を下げると、続いて奏も頭を下げた。

 向井は近衛の方に向き直ってにじり寄った。

「歌の勉強、してるんですか? アルバムとか出してないんですか? ぜひ、また一緒に仕事がしたい!」

 近衛は頬を指で掻きながら答えた。

「まだ中学生でして、デビューなどは考えていません。クラシック畑ですけど、千明も教えてもらった冴木先生について勉強を始めているところです。今、やっと3ヶ月、というところです」

 奏もニッコリ向井に微笑んだ。

「まだ、修行を始めたばかりなんです」

「いやいやいや、修行を始めたばかりって、冗談でしょう。アカペラでも完璧な音程で、楽器とも自在に合わせることができる。声音も自在に操って歌えるなんて・・・・・・」

「お師匠さまが良いんでしょうね」

「いや、そういう問題じゃなくって・・・・・・。長いことこの仕事やってるけど、練習を積んでいても、プロでもなかなかここまで歌えないし、近衛さんが指示したとたん、ジャズらしい歌い方に変えることができるなんて・・・・・・」

 後ろで榊原が千明のセカンド・アルバムの3曲目の旋律をギターで弾き始めた。向井がドラムを叩いたことがある曲だ。

 すぐ、奏は旋律を重ねるように歌い出した。歌詞と音程を確認した榊原は対旋律とコードでリズム刻みの伴奏に移り、ドラムも加わったが、テンポを変えてもしっかりとついていって1番を歌いきってしまった。

 しかも声音を先ほどとはまったく変えて、まるで千明が歌っているかのような、まろやかでクリーミーでいながら、澄んだ美しい声色だった。

 松田が拍手する。

「いやぁ、千明さんだ、千明さんだ」

 ベースの坂上も、ピアノの木之元も「お~っ」と声を上げて拍手する。

「二曲目は、これ、だね」と、榊原が向井にウインクした。

 千明の歌の中でもジャズっぽい曲の一つで、千明風に歌うと人間臭さが消えて、どうしても凜として神がかってしまう。

 でもそこが千明の魅力でもあり、奏ならジャズっぽく歌うこともできるだろうが、あえて向井は千明風に歌うことを希望した。

 すぐさま近衛が楽譜の用意に走る。千明の歌った曲はすべてネットワーク・ハードディスクに保存してあったので、タブレットPCであっと言う間に印刷した。

伴奏はピアノ用、エレアコ(エレクトリック・アコースティックギター)用、トリオ用、ビッグバンド用、オーケストラ用と各種取りそろえているあたり、さすが、元プロデューサーである。そしてトリオ用にエレアコ用をプラスした形で、近衛が詳細を指示した。

「他にレパートリーは、ない?」

 向井が身を乗り出して訊いた。

「母の曲ならたいてい歌えます」と、奏は少し胸を張って言った。

「いつの間に母さんの歌を練習したんだ?」

 近衛は憮然とした表情をした。

 ふふっ、と奏は口元に笑みを浮かべた。

「毎日。英語の勉強の合間に母さまの曲も聴いてましたから」

 奏はポケットからイヤフォンを取り出して揺らしながら、嬉しそうに近衛に見せびらかせた。

(本当に英語の勉強の合間なのか? 逆じゃないのか?)

 喉元まで出かかった言葉を飲み込み、近衛は大きくため息をついた。

「それはそうと、3曲目、どうする?」

 木之元が訊いた。もう開演までの時間が40分を切り、リハーサルする時間もあまりないのだ。

「できればジャズでいきたいねぇ。予定じゃ『サンタが町にやってくる』だけど、英語なんだよねぇ。これ、歌える?」

 向井が奏に楽譜を渡す。奏が楽譜に目を走らせると同時に木之元がピアノを弾き出した。軽やかで転がるように、テンポも大きく揺らしていたが、途中から奏は確かめるように小さめに声をあてた。だが、2番になったとたんにパワー全開で声を張り上げた。

「マイクを使うからそんなに声を出さなくてもいいんだよ。クリスマスの歌だからね、楽しげに、軽く弾むように歌ってみて」

 一瞬で奏は声を落とし、声を弾ませる。

(なんと柔軟に声を変化させることができるお嬢さんなんだ)

 松田は横で見ていて、まるで舞台稽古の演出家と役者みたいだ、と思った。

 松田は声優がアニメに声をあてる現場を知らない。もし知っていたら、あるいはアニメ世代の若者なら、アニメの声優みたいだと思ったに違いない。

 向井は興奮を抑えられずにいた。

「もう一曲、アンコールがあった場合の予備に用意しておきたいんだけど、フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンって曲、知ってる?」

「はい。アニメのエンディングで流れてましたから」

 近衛は思わず額に手をやった。

 つい先日、「新世紀エヴァンゲリオンというアニメ、観てみたい」と娘からせがまれ、その時はBlu-rayディスクが出ていなかったので、DVDでテレビシリーズ全26話分に加え、ブルーレイ・ディスクで新劇場版も全部購入して観せたばかりだったのである。

「英語の歌詞だけど歌える?」

「はい。アニメも英語でしたから」

 そう言うと、アカペラで歌い出した。

 すぐ伴奏が音を合わせる。

 楽譜では歌いやすいように低めに移調していたが、奏に合わせて長3度上げて演奏した。

 ピアノの木之元は驚いていた。移調するだけで音のピッチがぴったりだったからである。

(絶対音感だな。今までの演奏で音程を覚えたのか。凄いもんだな)

 さすがにジャズの歌い方にも慣れてきたようで、最初から肩の力を抜いた語り口調で、さらには振りまで付けて曲に合わせて歌った。

 まだ開演30分前にもなっていないというのに、路上には人が集まり始めていた。

 向井は意を決してメンバーに伝えた。

「よし、これでいこう。最初の2曲はウチのオリジナルで、3曲目からは歌ってもらった順番で、6曲目は再びウチの曲ってことで。フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンはアンコール用の予備ということで、それじゃよろしく!」

 開演30分前になった。入口のドアが開くと同時に次々とチケットを手にした客が入ってくる。

 松田がA3用紙を4枚つないで手書きの張り紙をして、「本日、ヒロ・ナカムラは体調不良のため来演できなくなってしまいました。誠に申し訳ございません」と、読み上げながら入口で頭を下げた。近衛も「申し訳ございません」と頭を下げた。

 稀に「え~っ、楽しみにしていたのに」と、声を上げる者もいたが、誰も入口で踵を返して帰っていくことはなかった。

 半数以上がヒロ・ナカムラと言われてもあまりピンとこない、ご祝儀的な意味合いでの客と招待客だったからでもある。

 中には「本当にこのチケットでゲイシャも飲めるんですか?」と訊いてくる者もいたりする。

 むしろ近衛としてはこういった喫茶店本来の客の方が嬉しかった。その一方で、奏が歌うということで、本人以上に緊張し、不安で落ち着かなかった。

 千明が最初に人前、正確にはテレビ・カメラの前で歌うようになるまでにはレッスンやリハーサルを繰り返し、綿密に行っていた。さらに武道館のファースト・コンサート前には別の会場で本番さながらのリハーサルを行って臨んだので、ほとんど不安はなかった。

 今回の奏の場合はサプライズ的な飛び入り参加のようなもので、ジャズ・ボーカルはもちろん、J―POPですら人前で歌ったことはないのである。しかも千明のデビュー時よりも3歳も若い、14歳である。

(し、しまった!)

 危うく近衛は声を上げそうになった。

(まさか、衣装、制服のまま出てくるんじゃないだろうな)

 冷や汗が流れた。

(でも、衣装、なにを選べばいいんだ)

 まったく予期していなかった奏のボーカルでの参加に、本番が近づくにつれ、近衛の表情がみるみる青ざめていった。

「近衛さん、どうかされましたかな?」

「あ、いえ、ちょっと・・・・・・」

 笑顔で来店客に挨拶しながらも、顔が半分引きつっていた。

「奏ちゃん、心配ですかな?」

「ええ、まぁ」

「千明さんの娘ですぞ。そしてあなたの。信じておあげなさい」

 松田からそう言われても、不安材料が多すぎて、なにをどう信じればいいのか近衛にはわからなかった。

 カウンターの中も戦場だった。

 上野精養軒から独立してオーナーシェフとなった知り合いを応援に頼んだものの、勝手を知る奏と近衛が中に入れない状況では、アルバイトの高二の梢ちゃんがどんなに奮闘しても追いつかないであろうことは明かだった。

「ちょっと中を手伝ってきます」

 近衛は背を向けて中へ入ろうとした。

 その近衛のワイシャツの襟をむんずと捕まえ、松田がニヤリと不気味な笑いを見せた。

「逃げるんですか?」

「いや、そんなつもりじゃ」

「あなたがこの喫茶店のオーナーなんだから、入口で来店客に頭を下げる義務がある」

 どうやら松田はヒロ・ナカムラが来演できなかったことを言っているようだった。

「それに近衛さん、あなたがオタオタとしていてどうする。どーんと構えて、笑顔でいなされ」

 確かにそうなのだが、カウンターの中でシェフが汗を拭いながら動き回っている姿が目についた。

「ウチの姪っ子も手伝っているから心配なさらなくても大丈夫。あれでも一応、接客のプロだから」

 そう言えば、フロアの方をお願いした松田の姪は30人分を超える飲み物とおつまみを出しながら注文を次々と取っていて、そのため一層、調理場が追いつかずに混乱が増しているようにも見えた。

 チケットを渡す際、食事の希望がある方には予め注文を取っていたのだが、当日の確認の段になって別のメニューを注文したり、追加が入ってしまったのも混乱の原因であった。

 しかし一番の不安は、やはり奏のことである。せめて衣装のことくらいは話をしておくべきだった、と後悔した。

 当初、30人予約席のみのはずだったのがやはりヒロ・ナカムラ効果もあって、10人ほど中に入れない人達が出た。

 ヒロ・ナカムラが来演できないことを説明しても、2000円でバランタインの17年まで飲めるとあって、立ち見、立ち飲みでもいいから、と無理を言って中へ入ろうとする者もいた。

 結局、カウンターの椅子を全部取り外して立ち見、立ち飲み席として解放し、合計42名入ることになった。

 開演の時間である。

 メンバーが次々と姿を現す。

 音合わせを数秒間行っただけで、いきなり曲がスタートした。

 タル・ファーロウばりのギターテクニックでビバップのナイト・アンド・デイを聴かせる。榊原のテクニックはとてもこんなジャズ喫茶で聴くことができないほどハイレベルな演奏だった。

 曲が終わり、リーダーであるドラムの向井が立ち上がって挨拶する。ヒロ・ナカムラの来演ができなかった理由を述べ、頭を下げた。他のメンバーもそれに続いて頭を下げた。

 そしてメンバー紹介を兼ねて、2曲目が始まった。

 近衛は気が気でなかった。

 まだ、奏の姿が見えない。なにかあったのか、あるいは緊張のあまり、表に出て来れないのか。

 近衛の不安はピークに達していた。

 とうとう2曲目が終わってしまった。

 その時、カウンターの奥から一人の少女が姿を現した。

 七五三の時に母、千明から塗ってもらって以来という母のお気に入りの口紅を引き、衣装は千明がセカンド・アルバムに使用した茜色のドレス姿の奏であった。

さすがに裾丈が長くて、裾上げテープと安全ピンで取り繕っているが、その足もとまで凝視する者は誰もいなかった。

 近衛の視線は奏の胸元に釘付けになっていた。

 細身でまだ千明がこのドレスを着ていたときほど胸がないので、胸元が少し開いている。だが、寄せて上げるブラのお陰でYラインとまではいかないまでも、ちゃんと胸の谷間が演出できているあたりは、さすがである。

(まだまだ子供と思っていたが、もう、14歳なんだもんなぁ)

 近衛は妙なところに感心していた。

ぃちゃん!」

 一人の女性が声を上げた。あの、女性小説家である。

「ああ、やっぱり・・・・・・。千ぃちゃんそっくりだわ」

「千ぃちゃんて?」と、隣の男性が訊いた。

「三条千明、あの、千年の歌姫と言われた三条千明ちゃんのことよ。あの子、千明の娘さんなのよ。ほんと、そっくり!」

 我を忘れて彼女は声を上げた。

「おお、そう言われてみれば、2枚目のアルバムのドレスだ!」

 他の男性客が声を上げた。

 それと同時にスマホや携帯を取り出して写真を撮る者、テーブルに置いてビデオ録画開始する者が現れた。

 近衛は天を仰いだ。

 ただでさえ初めてのライブ。緊張しないわけがない。それが、さらに緊張を煽るような状況になってしまったのである。

 40人以上も客がいると、中にはめざとくとんでもないものをスマホの検索で見つけてしまう者もいる。

「これ、これ、この写真、千明のラスト・コンサートのCDの表紙! 確かこの時、すでに妊娠してたんだよな。ってことは、その時の赤ちゃんかぁ。もう、15年前の話なんだなぁ」

 スマホの画面を周囲の者に見せびらかしていたりする。

 リーダーの向井も顔では平静を装っていたが、内心はかなり動揺していた。

(早く始めなくては・・・・・・。このままじゃ雰囲気に飲まれてしまう)

 慌ててマイクを持って奏を紹介しようとしたところ、マイクロフォン・ケーブルにつまずいてケーブルが接続部で切れて外れたばかりか、もの凄い音がして、アンプが壊れてしまったのだ。

 万事休す。

(今日はなんてついていないんだ)

 向井も天を仰いだ。

 だが、そんな騒然とした中、奏はマイクロフォン・スタンドを横に押しやり、センターにスックと立ってフロアを見回した。

「本日は年末のお忙しい中、薫風堂のジャズ・ライブにお越しいただき、有り難うございます」

 マイクロフォンは使っていないのに、無理して声を張り上げた様子もないのに、透き通るような美声をフロアに響かせた。

 フロアはあっと言う間に静かになった。ほとんど同時に近衛はカウンターの奥に姿を消した。

「母がデビューして20年。引退して15年、亡くなって5年になります。その節はみなさまに本当にお世話になりました」

 深々とお辞儀をする。

 顔を上げたその視線の先に、三条の祖父母の姿を見つけ、唖然としている祖父にニッコリ笑顔を贈った。

 祖母の麗子は近衛に対して怒りの混じった困惑の表情を見せていたが、肝腎の近衛の姿が見えないので、ため息をついた。

 本来は向井が紹介するところだったが、マイク無しで、しかもアンプが壊れてしまっていては、もう奏に任せるしかなかった。

「私が初めてみなさまの前で歌う記念すべき一曲目、マイ・フェイバリット・シングス、どうぞお聴きください」

 そう言うと、向井の方を振り向いた。

 ピアノの木之元が大きくうなずく。

 向井は一瞬目を閉じ、再び大きく見開いてシンバルを叩き出した。

 いつもならシンバルは思い切り叩く向井であったが、ボーカルが聴こえるように音量を抑えて叩いた。ピアノもちょっと控えめな音量であった。

 アコースティック・ギターも、ベースも、いかにもジャズらしいゴリゴリしたパワーあふれる演奏はせず、控えめに伴奏に徹するあたりは、さすが、プロである。

「Raindrops on roses and whiskers on kittens・・・・・・」

 奏が歌い始めたとたん、フロアからため息が漏れた。

 リハーサルの時より野太く、表情を付けての大きな歌いっぷりに、聴衆はマイクがないことを忘れてしまっていた。

 2番を歌う途中で、カウンターの奥に近衛が姿を現した。

 手になにやら機械を持っていて、カウンター奥のラックに据えられたプリアンプにケーブルをつなぎ、接続しているようだった。

 手に持っていたのはスタックスのマイクロフォンアンプMA―2。48Vのファンタム電源も使える優れものである。本来はステレオなのだが、片チャンネルだけつないで、20mのグラドのマイクロフォン・ケーブルを挿した。

 曲が終わり、「おおっ・・・・・・」という歓声と割れんばかりの拍手の中、腰を屈めて近衛が新たにスタンドを奏の前に立て、マイクをセットした。

 ノイマンU―87。本来は録音用である。ポップガードが取り付けられた録音スタジオ仕様で、千明のアルバム録音時に使用したシロモノである。こういうものがすぐ出てくるところが、第一線を退いたとはいえ、さすがである。

「母さんが録音する時に使用したマイクだよ」

 高さを調節する際、近衛は奏に声をかけた。

 奏はスタンドを握りしめ、目を閉じた。

「ちょっと音量を調節するから、声を出してみて」

 奏はうなずいた。

「みなさん、マイクがなくて今までお聴き苦しかったかと思います。本当に申し訳ございませんでした」

 自分の声が後ろのJBLDD66000から聴こえてきた。奏は驚きの表情をみせたが、すぐにパッと笑顔になった。

 アンプのボリュームを調整していた近衛が親指を立て、ゴーサインを出した。

「2曲目は、母、近衛千明、あ、これは結婚してからの名前で、えっと、三条千明の2枚目のアルバムの3曲目、フォーエバーです」

 向井が「ワン、ツゥ」と声をかける。

 とても喫茶店の中とは思えない音量と、まったく伴奏に消されず、伸びやかな歌唱を聴かせる奏に、曲が終わると同時に、割れんばかりの拍手がしばらく続いた。

「このマイク、母が録音で使用したものだそうです。そして音を出しているのが後ろのスピーカー。4ヶ月前にこの喫茶店のリニューアル・オープンに向けて、三条のお爺さまからいただいたものです」

「あげたのは、あ・た・し・よ」と、麗子は不満げに呟いたが、さすがに奏に声は届かなかった。

 リハーサル時よりも表情も豊かで低域へ重心が下がり、高域にかけての声が伸びやかに聴こえたので、近衛はホッとした表情を見せた。

 壊れて床に転がっているマイクの20倍以上もする録音用マイクに、近衛が選んでセッティングしたピュア・オーディオ最高峰の組み合わせである。しかもダイレクト・レコーディングも真っ青な、生、ライブであるから当然と言えば当然なのかもしれないのだが。

 向井は出てきた音の良さにも驚いたが、即座にマイクや音響をセットした近衛に感心していた。

「さすがはあのクィーン・レーベルの近衛さんだ」

 千明のコンサートの際、PAの調整にも必ず近衛が携わっていた。現場でのトラブルにも手慣れた対応と、とてもコンサート会場とは思えない優れた音質は業界内でも評判で、勉強にやってくるエンジニアがあとを絶たなかった。

 一方、奏は後ろのスピーカーから音が聴こえてきて自分の声が確かめられるので、とても歌いやすいと思っていた。しかもリハーサルの時よりも格段に音が良い。もう、心が弾んでしかたがなかった。

「えっと、3曲目、私が歌う最後の曲です」

「え~っ、もう終わり?」と、フロアから声が上がった。

「演奏はまだ続くのですが、私は今日、歌うはずだった方の代役で、今までこうして歌ったこともなく、レパートリーも少なくて申しわけありません」

 奏は頭を下げた。

「曲を選んで譜面を見て、伴奏の方々と合わせたのはつい先ほど、1時間半ほど前で、ちゃんとリハーサルもやっていないので、本当に歌えるのか、心配でした」

「今まで歌ったことなかったの? 初めてなの?」と、フロアから驚きの声が上がった。

 そう言えば、今日はヒロ・ナカムラが歌うってことでやって来たんだった、と思い返した客が数人いたが、誰も後悔していないようだった。

「3曲目は、もうすぐクリスマス、ということで、サンタが町にやってきた、を歌います」

 拍手とともに曲が始まった。

 完全にジャジーな歌い方とは言えないにしても、リラックスして縦横無尽、飛び跳ねるかのような奔放な歌いっぷりに、皆、感動の拍手を惜しみなく送った。

「有り難うございました」

 お辞儀する奏に、再び拍手が鳴り響いた。

 カウンターの奥に引き下がった奏だったが、「アンコール、アンコール」の拍手に、近衛が笑顔で声をかけた。

「行ってあげなさい、奏」

 奏はちょっと涙ぐんでいた。しかしフロアの方を見て表情を引き締めた。

「はい」

(もう、プロの顔だな)

 近衛は奏の後ろ姿に目をやりながら思った。

 少しとまどい気味に姿を現した奏の姿を認め、拍手が一段と大きくなった。

「アンコール曲ですが、私にはあと一曲、フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンくらいしかレパートリーがありません」

「いいぞ~、それで」と、声が上がった。

 笑いが起こった。

「じゃ、OKも出たことですので、歌います」

 奏はクルリと後ろを振り向いた。

 向井がうなずく。

 まるで歌い慣れたジャズシンガーそのものだった。フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンを歌っているのが、若干14歳の少女だとは誰も思ってはいなかった。

 声量を抑えて表情豊かに振りまで付けて色っぽく歌ったせいもあって、別人が歌ったのに合わせてクチパクで歌ったと言われても、思わず納得してしまうくらい、見事な歌唱だった。

 曲が終わって深々とお辞儀する奏に惜しみない拍手が続いた。

 拍手がまだ続いている中、ドラムの椅子から降りて向井がマイクの前に立ち、「次が我々の演奏する、最後の曲になります」と説明する。ちょっとまばらな拍手の中、演奏が始まった。

(なんだかオマケみたいで、やらない方がよかったかな)

 向井は思ったが、そこはプロである。曲が終わった時には再び熱い拍手が送られ、メンバーは安堵の表情を見せた。

 カウンターの中には奏がいつもの制服に着替えて姿を現した。片付けをするため、仕事着に着替えてきたのである。

「可愛いっ!」

「奏ちゃん、こっちへいらっしゃい」

「やっぱ、ここの店員だったんだ」

「店員というより、マスターの娘、だろ」

 フロアは再び騒然となった。

「ほら、今日の主役」

 近衛が奏の背中をポン、と押した。

 奏はちょっと不安げな表情で後ろを振り向いた。

「行ってご挨拶なさい」

 奏はうなずき、前を向いてカウンターから出て行った。

 フロアでは握手する者、頭を撫でる者、肩や背中を叩く者、中には酔っ払っていて抱きつこうとする者までいて、みんなからもみくちゃにされていた。

「千明、聴いたかい。奏のデビューだよ」

 いつもはキッチンのテーブルの上に置いてある千明の写真を、先ほど店裏の家に戻った時に持ってきたのである。ライブ中はカウンターの隅にひっそり置いてあったのだが、フロア正面、奏の方へと向けて置き直した。

 松田が歩み寄ってきた。

「千明さんの写真だね。まるで奏ちゃんの今日のライブでの演奏、喜んでいるみたいだ」

 近衛もうなずいた。

「奏には歌もいいけれど、歌以外にも、いろんなことをさせてみたいと言ってたんですけどね。でも、蛙の子は蛙」

「確かに声や歌は千明さんの遺伝子を受け継いだようだが、音楽的才能は近衛さん、あんたに似たんだろうな。なんたって耳がいい。音に対する感性というのが並外れている」

 これには近衛も同感だった。

「それはそうと、松田さん、あなたのお嬢さん、接客のプロというのは・・・・・・」

「ああ、娘はファミレスの店長やってましてね。しかもグループ内に3人しかいない、地区の統括店長。調理師免許も持っていて、メニュー開発なんかも担当させられていたりするようだが」

 どうりで注文を取り終わったと思ったらカウンターの中に入り、程なく調理場が落ち着きを取り戻したわけだ、と近衛は納得した。そして松田がファミレスの制服に詳しい理由も、なんとなく理解した。

「おお~い、みどり、こっちへ来~い」

 松田がカウンター奥へ声をかけた。

「今、片付けで忙しいの。あとにしてくれる?」

 松田はやれやれ、という表情を近衛に向けた。

「ああいう具合で、仕事一筋。まぁ、それは良いとして、結婚もせずにいつまで続けるやら」

 30歳前後だろうか。美人というほどではないが、それほど長くはない髪を束ねていて、耳も襟元も丸見えである。幸いなことに松田にはあまり似ていなくて、細面だが、メリハリの効いたボディは、男やもめには眩しかった。

「今日はご招待いただき、有り難うございました」

 女性小説家が近衛の方へ歩み寄って、挨拶した。間もなく、奥から翠がエプロンで手を拭きながら出てきた。

「あら、御息所先輩もいらしてたのですか?」

「もう、大学の時のあだ名はよしてよ」

「六条院奈々美先輩って本名の方は呼びづらくって」

「だから、奈々美でいいっていつも言ってるでしょ」

「先輩を名前で呼んで、しかも呼び捨てにはできません」

「お知り合い?」

 近衛が訊いた。

「先輩、大学の文芸部の部長だったんです」

 即座に翠が答えた。奈々美は顔を赤らめ、視線を落とした。

「もう、翠ったら。あなたも2年後には部長になったでしょう」

「在学中の3年生の時に児童文学で賞を獲るなんて、私たちとじゃ出来が違います」

「ん? もしかして、『あくまとてんしのものがたり』の?」

 近衛が目を丸くして訊いた。

「そうです。あれで児童文学賞を獲っちゃんたんですよね、先輩は」

「んもう、翠ったら」

「あのお話、千明が大好きで、奏にも小さい頃、読んで聞かせていましたよ」

「ええっ、千ぃちゃんが?」

 奈々美が思わず声を上げた。

「ええ。奏も大好きで、大きくなってからも絵本、繰り返し読んでましたよ」

「まぁ、嬉しい!」

 視線が宙を泳ぎ、意識が遙か彼方へ飛んでしまったようだった。

「奏~、こっちへおいで」

 近衛が呼ぶと、周囲に会釈して父のもとへと急ぐ。

「お前のお気に入りの絵本、『あくまとてんしのものがたり』の作者さんだ」

 目が点になる、というのを近衛は初めて目のあたりにすることになった。

「せ、先日は、し、失礼いたしました」

 奏はテーブルに頭がつくかと思われるほど、深々と頭を下げた。

「ううん、私こそ嬉しいわ。私の本、読んでくださっていたなんて」

「あの本の作者さんだとは知らなくて、本当に失礼いたしました」

「そしてねぇ、今日、ここのお手伝いをしていたのが松田さんの娘で翠さん。私の大学の後輩なのよ」

「今日は本当にお世話になりました」

 今度は軽めに頭を下げた。

「ひょっとしてこの前話してた、亡くなった親友の娘さん、ですか?」

「そうなの! 凄いご縁でしょう。そしてマスターのお嬢さん。マスターの淹れるコーヒーは、本当に美味しいのよ」

「御息所先輩からかねがね伺っています。お客さまの好みに応じて淹れ分けるなんてこと、なかなかファミレスではできなくて・・・・・・。プレミアム・コーヒーとしてメニューに加えてみようかと思ってはいるのですが、いちいち細かく好みを訊かないといけないし、バリスタというか、店員が違ってもそれをちゃんと淹れ方に反映できるか、難しい問題です」

 近衛は松田の娘をこの喫茶店に欲しい、と思った。単にファミレスの店員としてではなく、経営者的視点も持っていて、優秀であるのは間違いないと確信した。だが、給料は現在のファミレスほどは出せないだろうし、今の職場ほどやり甲斐があるかどうか、少々疑問だった。

 なにか良い方法はないものか、そう近衛が考えたときだった。

「翠、お前、近衛さんと結婚しなさい」

 思わず吹き出しそうになった。

 幸い、口の中にはなにも入っていなかったので、周囲への被害はなかった。

「いったい、なにを考えているんです」

 松田の方を振り向きざま、近衛は眉間に皺を寄せて声を上げた。

「いったい、なに考えてんの?」

 ほとんど同時に、翠が机をドン、と叩いて父親に言い返した。

「息もピッタリだ」

 松田が大きくうなずく。

「近衛、翠さん?」

 奏が翠の方を向いてポツリと名前を口にする。

「ち・が・い・ま・すっ! 松田翠、です!!」

「ライバルが二人に増えた・・・・・・」

 奏がため息をついてポツリと口にしたのを二人の女性は聞き逃さなかった。

恋敵ライバル?」

 御息所、もとい、女性小説家、六条院奈々美と翠が同時に声を上げた。

「えっ?」

 二人の熱い視線を浴びて奏は自分が口にした言葉の意味を考え、湯気が出るのではないかと思うほど、赤面して顔を伏せる。

「奏ちゃんて、ファザコン?」

 奈々美がまじまじと奏を見つめる。

「ち、違います」

「でも、もし、お父さまが翠と夜を共にする、なんてことになったら?」

「そのようなことになるようなら」

「なるようなら?」

「私が・・・・・・」

「私が? 私がお父さまと?」

「ち、違いますっ、私が全力で阻止します、と言おうとしただけです!」

 奏はさらに真っ赤になって力説した。

「ほ~んと、からかい甲斐のあるだわ」

 翠が面白そうに、そして多少、呆れた風に言った。

「まぁ、なんだ。奏ちゃんにとっては再婚されると、父親が離れて行ってしまうように感じるんだろうな。母親の千明さんもいないし、一人ぼっちになるという気持ち、わからんでもない」

 松田が珍しくまともなことを口にした。

「それなんですがね。3ヶ月ほど前、奏の方から再婚してもいいみたいな話を持ち出してきて・・・・・・」

「あ、あれは無し。やっぱり駄目。父さまは再婚しないっておっしゃったじゃありませんか」

「再婚、する気はまったくないんですか?」

 横から口をはさんだ奈々美が、身を乗り出して至近距離からまじまじと近衛を見つめた。

「まったくない、というわけでもないんですが・・・・・・」

「嘘つき」

 奏がふくれっ面をした。

「それに奏はまだ中学生ですし・・・・・・」

「じゃぁ、奏ちゃんがもう少し大きくなったら、再婚をしても良いと考えてらっしゃると?」

 少しアルコールが入っているのか、なぜか女性小説家、六条院奈々美の追求は執拗だった。

 近衛は奈々美の質問には答えずに顔を赤らめ、視線を落とした。

「ほんと、からかい甲斐のある父娘おやこだわ」

 誰との再婚話からこういうことになったのかまったく自覚のない一名と、そもそも話のきっかけを作った諸悪の根源とも言うべき張本人は、我関せず、と第三者を気取っていた。

「お取り込み中のようなので、我々はこれで」

 いつの間にか楽器の詰め込みも終わり、向井が入口のあたりでお辞儀をした。他のメンバーも、一緒にお辞儀をする。

「お、お疲れさまでした。良い演奏、有り難う。またあとで連絡するから・・・・・・」

 近衛は右手を挙げて、さよならの合図を送った。

 外は再び雪が舞い始めていた。

 しかし店内は、まだ熱い戦いバトルが続いていた。


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