第9話

 朝、9時すぎ。近衛のiPhoneが鳴った。発信人は冴木先生。

(日曜日の朝っぱらから、いったいなんなんだ。レッスンは午後のはずだが)

 近衛は日曜日の朝寝を妨げられ、ふてくされ気味な表情で「はい、近衛です」と応じた。

「今すぐ、奏ちゃんといらっしゃい」

(怒っているような口調だが、いったいなんだろう)

 近衛は臨時休業の看板を表に掲げて、奏と冴木の自宅まで向かった。 

 レッスン室を重い扉を開けたら、目の前に冴木が腕を組んで仁王立ちになっていた。近衛を睨んで「あんた、いったいどういうつもりなんだい」と怒鳴りつけた。

 近衛は昨夜のライブのこともあって、体がクタクタで頭も冴えなかった。

「なんのことでしょう?」

 冴木は無言で携帯の写真を、まるで水戸黄門の印籠のように近衛に示した。

「これ、あんたの娘だね」

 冴木は奏の方は見ずに、近衛を睨みつけたまま続けた。

「朝、教え子から電話があって、この子、レッスンに来ていた子じゃないかって写真を送ってくれたんだけどね」

 しまった、と近衛は心の中で舌打ちした。

 今日、午後のレッスンの時に喫茶店で歌った件について、ワイン一本とともに一言お詫びしようと思っていたところだったのだ。

「あたしに断りもなく、しかも中学生の娘に夜の酒場で歌わせたって言うじゃないか」

「そ、それは・・・・・・」

 近衛は口ごもってしまった。

「それには理由があって・・・・・・」

 横から奏が口をはさんだ。

「嬢ちゃんは黙っといで」と言うと、冴木は再び近衛を睨みつける。

「あんたはそれでも父親かい。あたしはねぇ、嬢ちゃんに酒場で歌わせるためにレッスンしてたんじゃないんだよ!」

「わかっています。たまたまその日・・・・・・」

「たまたまも、たまさかもあるかね。あたしはね、事実を言ってるんだ。嬢ちゃんにこんな胸元が見えるような赤いドレスを着せて酔っ払い相手に・・・・・・」

 その時、奏が伏せていた顔を上げて、キッと結んでいた口を開いた。

「それは母の服です。母の形見の服なんです」

「千明ちゃんの?」

「はい。それに歌っていた場所はうちの喫茶店です。リニューアル・オープンの『感謝の夕べ』と題したジャズ・ライブやることにしてたんですけど、ボーカルの人が病気で来られなくなって、サンタが町にやってきたとか、母の曲とか、私が歌える曲を代わりに歌っただけです」

 冴木はしばらく沈黙したが、表情は険しいままだった。

「だから言ったんだよ。あんな喫茶店、止めちまいな、と」

 力なく、最初と打って変わって寂しげな声だった。

「あたしから、なにもかも奪っていかないどいてくれ。舞台に立てないあたしにとって、あんたの娘を育て上げて、私が立てなかったメトでフィガロの結婚のスザンナを歌わせたいというのが夢だったんだよ。それを・・・・・・」

(確かに冴木先生じゃ、若い結婚前のスザンナ役は無理だな。ひょっとしたらメトのオーディション受けて落ちたのかな?)

 近衛はこの状況においてもなお、罰当たりなことを考えていた。

 冴木は涙した。

 かつて、ヨーロッパの名だたる劇場に立ち、日本人というエクスキューズ無しで絶賛された名ソプラノである。

 英語はもちろん、ドイツ語、フランス語、イタリア語に堪能で発音も正確。様々な役柄を演じ分けることができる役者としての才能もある上に、そのパワー溢れる歌いっぷりは、ニーベルングの指環のブリュンヒルデ役でいかんなく発揮され、語りぐさとなっている。

 そんな彼女でも、まだ叶わぬ夢があったのだ。

「他の弟子たちへの示しもある。破門よ」

 えっ、と近衛は小さく声を上げた。

「千明の時はそんなこと、言わなかったじゃないですか」

「あの時は、まだ身内の一人しか弟子にいなかったから黙認することもできた。今はそうもいかないからね」

「でもそれじゃ、せっかくここまで勉強してきて中途半端になってしまう」

 冴木は哀しげに頭を振って奏に向き直った。

「クラシック音楽の分野ならまだしも、ポピュラーの分野なら、もう、あたしが教えることはなにもない。あんたが教えてやるがいい。音楽的センスはあたしなんかよりあんたの方が上だからね」

 近衛は驚いた。冴木がこんな言葉を口にするとは思っていなかったからである。

「ま、まさか、そんな、冴木先生。私なんか先生の足もとにも及ばないのに・・・・・・」

 冴木は睨むような視線を近衛に送った。

「あんたはまだ小さかったから覚えてないだろうが、あたしがフォーレのレクイエムのソロを任されたとき、どうしてもうまく歌えなくて、何度も駄目出しされてリハが中断になっちまったことがあってね。コーラスの母親に連れられて来てたあんたが、あたしのリハの旋律を真似て、舞台の袖で『あ』だけの見事なボーイソプラノで歌ってみんなを驚かせたことがあったんだよ」

(そう言えば、小さい頃は舞台の袖で指揮者の真似ごとなんかやってたっけ。齋藤秀雄先生の指揮が一番格好良かったなぁ)

 つい、思い出に耽ってしまうのが近衛の悪い癖である。

「完璧だった。音符だけじゃない。指揮者があたしに言ったことを理解して、まるでお手本をみせるかのように、心が洗われるような清らかで伸びやかに歌って聴かせたんだ。おかげで指揮者がいっそのことボーイソプラノでやろうかなんて言い出してね。悔しかった。泣きそうになった」

 冴木をもう一歩のところで泣かせてしまうところまでいったとは、恐れ入るばかりである。たぶん、もう二度とそのようなチャンスは巡って来ないだろう。

「で、あたしは明日までにはキッチリ仕上げてきます、と頭を下げてリハを再開してもらったんだよ。あの時、あと10年もしたら、あんたたちのような若手が出てきて、あたしの出番がなくなるんじゃないかって、背筋が寒くなったもんだよ。だから必死に勉強した。その甲斐あって、一回りも二回りも大きく成長できた」

(確かにデビューした頃の写真を見ると、今では考えられないくらい細身だったからなぁ)

 近衛は冴木が聞いたら激怒するようなことを心の中で思っていた。もしその時、まじめに冴木の話を聞いていたら、冴木が飛躍するきっかけを作ったのが近衛だったということに気づいただろう。

「お陰で、おやかたさまにケルン音楽大学への奨学金をもらって留学することが叶ったんだよ」

(へぇ、渡欧できたのは、おやかたが金を出してくれたからなんだ)

 と、近衛はまるで他人ごとのように話を聞いていた。

 冴木の言葉の端々まで注意を払って聞いていたら、冴木が近衛やその関係者に対してどうしてこんなに親切で面倒見がいいのか、その理由の一端をも理解できただろう。だが、さすがにそこまで近衛は考えが回らなかったようだ。

「それなのにあんたは、あれだけの才能をもちながら、雅楽の世界に進んだかと思ったら、自分は表舞台に出ずに千明ちゃんをプロデュースしてレコード1000万枚売り上げたとかなんとか言って悦に入っている。今度のことだってそうだ。嬢ちゃんじゃなくて、あんたが演奏すりゃ良かったんだよ。ユーなんとか言うビデオに嬢ちゃんの歌うところが出ていたらしいんだけど」

(ああ、YouTubeのことか)と、近衛は小さくうなずいた。

「この歌いっぷりを聴いた連中、衝撃だったろうね。他の生徒なんか、あたしんとこでレッスンするのを止めたくなっちまって当然だろうよ、中学生でこんなのがいたらね」

 かつての自分を思い出しているか、それとも他の生徒に同情しているのか、いったん目を閉じた。そして一呼吸おいてゆっくり見開くと、懇願するような瞳を近衛に向けた。

「もし、嬢ちゃんがクラシック音楽の世界に進むというのなら、他の生徒は全員辞めると言われても止めやしない。嬢ちゃんだけでも立派に育ててみせる。でも嬢ちゃんはクラシック音楽には進みそうにないし、今ここでウチの将来有望なオペラ歌手3人を放り出すわけにもいかないんだよ。わかっておくれ」

 冴木は奏に向き直り、前屈みになって奏の目を見ながら言った。

「なに、心配することはない。すでにお前さんは父親からその才能を受け継いでいる。ただ、肺活量はまだまだ足りない。足挙げ腹筋と毎日のジョギングを欠かさないように。いいね」

 奏は涙ぐんでうなずいた。

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