第10話

 予期していたこととはいえ、案の定、奏の件で学校から呼び出しがあった。学校の担任からかと思ったら、PTAの役員会であった。

 父親の近衛新のみ出頭せよ、と言う。

 PTAは下手をすると学校の理事会以上に影響力があり、親が多額の寄附金を供与する旧財閥系の学校や、皇室や旧華族の子弟が通う学校というのは、学校側としても非常に神経を使う。

 奏の通う学校も幼稚園から大学まで一貫教育を掲げ、PTAは改選こそ毎年とはなっているものの、一度選任されると、よほどのことが無い限り、あるいは辞退でもしない限り、子弟が学院を離れるまで続くことになる。

 会長の柳は息子が附属幼稚園入学時にPTA役員に推薦で選出され、現在まで17年間その座を暖め続けた。昨年からは会長として2年目の任期にある。

 近衛は会議室に足を踏み入れた瞬間、柳会長の身を切り刻むような視線を感じていた。元より四面楚歌は覚悟の上である。

 コの字型にテーブルを配置され、まるで被告席のような場所に椅子が一つ置かれていた。

 両肘をついて腕を組み、その上に顎を載せて眼鏡越しにこちらをじっと見ている柳会長を、どこかで見覚えがあると近衛は思った。

 そして、はたと思い当たった。そう、それは先日娘からせがまれて購入、一緒に観た「新世紀エヴァンゲリオン」に出てくる、碇ゲンドウそっくりであったのだ。

 やっかいなヤツを敵に回したな、と近衛は思った。

 なにがどうやっかいなのかは定かではないが、シンジ君も大変だったろうな、と妙なところでアニメの登場人物に同情した。

 幸い自分はシンジ君のような14歳の子供ではないし、今、この場に14歳の奏もいない。近衛は自分が碇ゲンドウと同年代であることに感謝した。

「そこの席に座りなさい」

 碇、もとい、柳の横にひかえる副会長とおぼしき男が命令口調で椅子を示した。

 近衛が椅子に座ると、その副会長らしき男が立ち上がった。

「それでは平成26年度、第19回PTA会議を始めます。まずは会長からひとこと」

 会長の柳は手の甲に顎を載せた格好のまま、口を開いた。

「お忙しい中、お集まりいただき有り難うございます。本日も活発なご意見を賜りますよう、よろしくお願いいたします」

 まるで録音しておいて人形に喋らせているような、判で押したかのようなありきたりな挨拶だった。

 副会長がせき払いして、顔を上げた。

「本日の議題はお手元の資料にありますように、一昨日の夜、当学院の中等部二年の生徒が許可無く無断で夜間のアルバイトをしていたとの通報がありました。以前よりその生徒はアルバイトを続けており、義務教育期間中の当学院の生徒としてはあるまじき着衣でもって、歌手活動を行っていたとの報告もあります。のちほど、YouTubeでの画像をご覧いただきたいと思います。その件につきまして、父親の近衛氏にご説明いただくため、本日、お越しいただいております。なお、本日の司会進行は副会長の前田が務めさせていただきます。よろしくお願いいたします」

 PTA役員の手元には、胸元が見えるような斜め上方向から撮影した奏の茜色のドレス姿が大きく引き伸ばされて画像資料として添付されていた。

(ほう、けっこう胸があるように見えるじゃないか)

 近衛は写真を撮影した者の腕前に、少しだけ感心した。

「なんといかがわしい」

「本当に中学生ですか?」

「最近の中学生は進んでいると聞きますが、お宅はどうです?」

「どうもなにも、私のところはまだ中一、ほんの子供ですから」

 ひとしきり役員たちが言いたいことを言ったのを確認して、副会長の前田が近衛の方に向き直った。

「この件につきまして、父親である近衛氏に説明を求めます」

(まるで裁判だな)

 近衛は柳会長に冷ややかな視線を向けた。

 だが、会長の柳はニヤリと口元を歪ませ、視線をはね返した。

 立ち上がる近衛にいっせいに視線が注がれる。

「ただいまご紹介いただきました、荻窪にある喫茶店・薫風堂の主人の近衛です。元々は父がマスターをしていましたが、亡くなってのち、家内が引き継ぎ、家内も5年前に亡くなってしまったので、現在は私が薫風堂を経営しています。このたび、リニューアル・オープンしまして、そのお披露目にと、感謝の夕べと題して、ヒロ・ナカムラを招いてジャズ・ライブを企画しており・・・・・・」

 話の途中にもかかわらず、副会長が横から割り込んできた。

「あなたは以前、音楽関係の仕事をされていたとか。身上書には音楽事務所社長とだけありますが、事務所名も書けないようないかがわしい、あるいは実態のない事務所、なのでしょうか」

 近衛は改めて副会長の前田を見た。

 まるでこういったことに慣れているような口ぶりである。

(弁護士かなにか、そういった職業だろうか)

 近衛は目をそらさず、黙ったまま少し呆れたような表情で副会長に視線を注いだ。

「な、なにかおっしゃりたいことがあれば、どうぞ遠慮なくおっしゃってください」

 副会長の方から視線をそらして、手元の資料に目を移した。

「別に隠そうとかそういう意図はありませんが、家内が歌手活動を引退してのち、ペーパー・カンパニーに近い状態となっていたので、あえて書かなかっただけです。事務所名は近衛音楽事務所です」

「お名前、そのままじゃないですか。やはりあまり表での活動は・・・・・・」

 その時である。一人の役員が挙手をした。

 名前を呼ばれる前に、その役員は口を開いた。

「近衛音楽事務所って、もしかして、三条千明さんの所属事務所じゃないですか?」

 近衛は一つせき払いした。

「はい、その通りです。私の家内が三条千明です。5年前に他界して今は私と娘の二人だけになってしまいましたが」

 会議室が急にざわめき始めた。

「あの三条千明って、亡くなったの?」

「そうみたいだね」

「誰? 三条千明って」

「もう、15年以上も前だから、30前の人達は、わからないかもね」

 と、副会長の前田が立ち上がって役員たちをグルリと見回した。

「お静かに。発言は挙手をしてお願いします」

 やっと雑談が鳴りを潜め、副会長が改めて近衛を詰問しようとしたが、先手を打って近衛が口を開いた。

「その日、ボーカルを担当する予定だったヒロ・ナカムラがインフルエンザで倒れてしまって、代役を用意していなかったので・・・・・・」

 再び横から副会長が口を挟んだ。

「だからお嬢さんにジャズを歌わせたと」

(まぁ、そうなんだけど、それがいけないとでも言うのか? それに自分から発言は挙手をして、と言いながら、話の腰を折っているのはお前だろうが)

 と、近衛は少々腹立たしい思いを視線に乗せて副会長を睨んだ。

 その時、一人の婦人が挙手をした。

「はい、どうぞ」

「市瀬です。私、当日、その喫茶店に演奏を聴きに行ってました」

 役員たちはいっせいにその声の方に振り向いた。近衛は予想外のことに表面上はポーカーフェイスだったものの、さすがに顔が強ばり、冷や汗が流れた。

「あれ、昨年の文化祭の時に一年生が出し物で歌っていた、マイ・フェイバリット・シングスですよね」

 市瀬は近衛の方に顔を向けて訊いた。

「は、はい。マイ・フェイバリット・シングスなら歌えると、ライブが始まる直前に娘が言ったものですから・・・・・・」

「ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』は私も大好きで、カラオケでよく歌います」

 役員席から笑い声が漏れた。

「奏ちゃん、可哀想でしたねぇ。マイクの音が出なくて。あれじゃ、カラオケにもならないですよね。あのマイクを引っかけて壊した人、最っ低です」

 再び笑い声が漏れた。

「でも、凄かったんですよ。ちょっとビデオ、流してみてください」

 奏はマイクなしで、いつもより野太く力をこめて、まるでオペラ歌手のようなスケール感でもって歌っていた。ジャズ・ライブで歌うのでなければ、元がミュージカルなので、舞台の上で歌うのなら、こちらの方が自然なくらいである。

「ほら、マイクなしで歌っちゃってるでしょう。さすが、あの冴木淳子先生にオペラを学んでいるだけのことはありますよね」

 再び役員席がざわついた。

「えっ、あの冴木先生の弟子なんですか?」

「冴木って、あのブリュンヒルデの?」

 ジャズはよく知らずに見下すくせに、クラシック音楽にはけっこう通じている者がいたりするのが、こういった学校のPTAの特徴である。冴木の名前は日本人でオペラを愛する者にとって、知らなければモグリだと叩かれるほどである。

「どうせならジャズじゃなくて、クラシック音楽やれば良かったのに、なんて私は思いましたけれど、ま、寄せ集めのメンバーでしょうからレパートリー、他になかったんでしょうね」

 この女性はいったい近衛の側なのか、役員会の側なのか、ここまでの発言の内容からでは判断つきかねた。

(それにしても、まるで内情を知っているかのような言い方だな。もしかしたら、冴木先生の生徒さんの母親なのだろうか。だとしたら、先生に写真やYouTubeのことをチクった張本人かもしれない)

 近衛は別な意味で危ぶんだ。

「2曲目はお母さん、三条千明さんのフォーエバーでしたっけ?」

「は、はい」

「女手がないと、衣装すらまともに選べない。悲しいですよね。奏ちゃんとしては、母親の曲を歌うってことで、千明さんが遺したドレスで目いっぱい、最高に着飾ったつもりでしょうけど・・・・・・。まぁ、中学生ですから、頑張ったんじゃないですか、あれでも。父親に恥をかかせないように場を繕って、歌える曲を必死に考えて。私は拍手を送ってあげたいですよ。あ、もちろんちゃんと、その場でも曲が終わったら拍手しましたからね」

 市瀬が付け加えると、笑いが起こった。

「3曲目はサンタが町にやってきた、でした」

 YouTubeで曲が流れる。奏が踊るように体を動かして歌っていた。

「クリスマスですから、ま、いいんですけどね。私としてはせっかくのジャズ・ライブを期待してやってきたんですから、歌えるからといって、クラシック音楽専門の素人を出されてはちょっとねぇ」

「も、申し訳ありません」

 近衛は頭を下げた。

「でも一所懸命、ジャズっぽく歌おうとしてましたよね。頑張りましたよね。中学生としては、あっぱれでした」と言って、一つ咳払いをした。

「もう、いいでしょう」

 そう言うと、市瀬はYouTubeの画像を消させて、プロジェクターのスイッチを切り、スクリーンを上げるよう、事務局に命じた。

(この女性、助けてくれたのか? フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンまで見せられると、ちょっとまずいことになったかもしれなかったな)

 近衛は市瀬をまじまじと見つめた。

「まぁ、いろいろご意見はあるでしょうけど、私としてはライブ中止、チケット払い戻しになるよりは良かったと思っています。だって、もう、お店に着いちゃってたんですもの」

 市瀬は役員たちの反応を見るかのように、ぐるりと周りを見回した。

「あ、そうそう、ここのお店の煮込みハンバーグ、絶品です。カルボナーラもなかなかですよ。ただ、それに見合うワインとかビールとか、アルコール類は置いてなくて、しかも8時には閉まっちゃう殿様商売。殿様じゃなくて、貴族商売でしたね。これには改善を要求します」

 再び役員席で笑いが起こった。

「以上、現場レポートでした」

 役員席では笑い声とともに小さく拍手する者もいた。

 一方、気勢を削がれた副会長の前田は、見せ場をなくしてくさっていた。

(やっぱりこの女性、助けてくれたんだ)

 近衛は確信した。

「全部、あの女に持って行かれたな」

 前田と反対側に座っていたもう一人の副会長らしき男が会長に声をかけた。

 もし近衛がその男にもう少し近寄ってアップで顔を見たら、「エヴァの冬月だ!」と声を上げたに違いない。それほどこの二人は雰囲気だけでなく、声まで似ていた。

 会長はクククッと、わずかに表情を崩して声を漏らした。

「ああ。だが問題ない。結果、オーライだ」

 そう言うと、ニヤリ、と口元を歪ませ、また嗤った。

「近衛宗家から今回の件で声がかかったのも意外だったが、実際に聴きに行った者がいたとはな」

 冬月似の副会長は市瀬を見つめながら呟いた。

 会長が左手をゆるゆると挙げると、挙げきらない内にもう片方の副会長の前田が立ち上がった。

「近衛さまにはご足労いただき、有り難うございました。お尋ねする件につきましては、これですべて終了いたしました。どうぞ、ご退席ください」

 最初と違って、背中がむず痒くなるほど丁寧な口調だった。

 近衛が部屋から出て扉が完全に閉まったのを確認し、再び前田が口を開いた。

「本日の件につきまして、会長からひと言賜りたいと思います」

 会長の柳は手の甲に顎をのせたまま、まったく姿勢も表情も変えずに言い放った。

「我々もパーティーの一つや二つはやるし、プロの楽団をバックに歌うこともある。今回は歌って金をもらったり、酒を飲んだわけでもなさそうです。たまたま近衛氏が喫茶店を経営し、娘が声楽の勉強をしていてパーティーで歌ったところ歌が上手かった、ただそれだけだったようです。検証する必要があったとはいえ、このようなあまりにも日常的なことでいちいち目くじら立てて役員を招集、会議するなど、時間と労力の無駄。皆さまには会長の私から陳謝いたします。本日の会議で判明したことは、近衛氏のためにも、また、彼の娘のためにも、嫁を探してやることが先決、ということでしょう。役員の皆さまがたにはその点についてお心に留めおいていただき、良い話がありましたら、ぜひ、お報せいただきたい」

 そう言うと、左手を軽く挙げた。

 失笑が漏れる中、副会長の前田が立ち上がる。

「以上をもちまして、平成26年度、第19回PTA会議を終了いたします」

 バラバラと立ち上がる役員たちの中に、どうやら三条千明のファンがいたようだ。

「もう、15年も経つんですなぁ」

「このドレス、観たことありますよ」

「まぁ、母親が三条千明なら、歌が上手くて当然ですな」

「中学で冴木について声楽を習っているとなると、将来はオペラ歌手でしょう」

「う~ん、それは残念。今度は娘のコンサートを期待していたんですがね」

「さすがに娘の方のコンサートに行って、かつてのように熱を上げるわけにはいかないでしょう」

「確かに。そんなことをしたら、自分とこの娘から変な目で見られますからなぁ」

 そう言うと、役員の一人は小さく笑った。

 一方、先に退出していた近衛は、学校の正門の外に立って、出てくる役員を待っていた。

 近衛と正門を避けて、道路沿いに運転手付きのベンツがずらりと並ぶ。

 ヒエラルキーがここでも如実に現れている。

 運転手付きのベンツのSクラスは当然のこととして、ハイブリッドなど論外。AMGのロングモデルでようやく肩を並べるレベルである。マイバッハだと一目置かれるのは言うまでもない。

 自ら運転するならBMWもありだが、運転手付きでBMWは皆無だ。

 レクサスはたとえ1600万円を超えるLSであっても、この場では場違いにみえる。運転手も役員も、いかにも肩身が狭そうに身を屈めて乗り込むのがなんとももの悲しい。

 そんな中、JCBタクシーチケットを片手に、携帯で呼んだ個人タクシーに乗り込もうとする剛の者もいる。あの、市瀬である。

「あのう、市瀬さん、先ほどはどうもありがとうございました」

 市瀬の姿を見つけて、近衛は歩みながら頭を下げた。

「呼び止めてすみません」

 そう言うと喫茶店の名刺を差し出した。

「よく存じておりますわ、MNOの新さま」

 近衛は面食らった。MNOの名前が出てくるとは思わなかったからである。

「だって私、あなたの大ファンなんですよ。中学の時、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)と間違ってMNOのコンサートに行っちゃったんですけど、新さまの笙がとても素敵でファンになって以来、妹の奈々美や妹の友だちだった千ぃちゃんまで引っ張り込んで演奏会に通ったんですもの」

 市瀬は口元を手で隠して小さく笑った。

「奈々美さんて、もしかして、六条院の?」

 クスッと市瀬は再び笑った。

「今ごろお気づきになって? 私、妹の奈々美と一緒に一昨日のライブ、聴いていたのですよ」

 ひとしきり笑うと、市瀬は真顔になって言った。

「男手で女の子を育てるのは大変です。女同士でないと話しにくいこともあります。ぜひ、奏ちゃんのためにも再婚なさってくださいな」

「は、はぁ・・・・・・」

「奈々美ったら、親友のご主人てことで、千明さんが亡くなってからはなおさら遠慮しちゃって、言いたいことも言えないようで、見ていてじれったいったらありゃしない」

「はぁ・・・・・・?」

「再婚する気になったら、いつでもおっしゃってください。MNOの新さまであっても、奏ちゃんのお父さまであったとしても、お相手、探せば身近にいると思いますよ。じゃ、このあと、大学で講義しないといけませんので、失礼します」

 そう言うと、周囲の視線をものともせず、堂々、タクシーに乗り込んだ。そして右手で小さく近衛にバイバイをして微笑んだ。

 道路の両側に並ぶベンツの列の真ん中を、白のタクシーが春の嵐のように走り去っていく。そして一人残された近衛に一気に視線が注がれた。

「再婚、か」

 小さく呟き、顔を上げたところが周囲の刺すような視線に気づいて、足早にその場を立ち去り、学院の駐車場へと急いだ。

 近衛の車は日産スカイラインV6・3500ハイブリッドである。スカイラインの名称ではあるが、海外で展開する高級車ブランドのインフィニティをベースに作られていて、前モデルのスカイラインより一回り大きい。しかもハイブリッドなので、実測でリッター13㎞以上走る環境に優しい車である。しかし3500㏄のパワーにハイブリッドの電気モーターによるトルクが加わり、発進時の加速性能は5000㏄クラスにも負けない。

 だが、近衛がこの車を選んだ理由は他にもあった。それは自動車アセスメント(JNCAP)の予防安全性能評価で最高評価を得たなどと発表される以前の購入の際に、前方衝突予測警報などもチェックし、奏をレッスンに送り迎えする際、安全に配慮した車であると判断したからである。

 さらにこれは実際に購入してからのことであるが、物陰から飛び出す自転車を感知したアラームのお陰で急停車し、難を逃れたこともあった。

 ただ、あまりにも至れり尽くせりのエレクトロニクス技術に頼る新型車について、神経を研ぎ澄まして危険を察知したり回避する能力が損なわれていく気がして、近衛は手放しでは喜べなかった。

 近衛が駐車場に着いたちょうどその時、PTA会長の柳が車に乗るところだった。車はBMWカブリオレタイプのM6である。V型8気筒Mツインパワー・ターボエンジン搭載で、とにかく速い。ただ、カブリオレタイプでも重量が2トンを超えてしまうのが難点である。

 これに対抗できる走りの車を選ぶとしたら、BMWのラインナップではプラグイン・ハイブリッドのテクノロジーを用いたi8くらいであろう。だがこちらは車重を軽量小型化し、排気量は1500㏄程度で231psの出力、低燃費としたもので、M6の4400㏄、560psとはコンセプトを異にする。柳ならこういった車は見向きもしないに違いない。

 一方、近衛のスカイラインは車重を1800㎏に抑えて排気量は3500㏄、ハイブリッドの電気モーターと併せて374psを叩き出す。5000回転等、ある程度回した時に最大トルクが得られるエンジンと違って、電気モーターの場合、発進時から最大トルクが得られるのがウリである。従って勝負するならスタート時しかない、と近衛は考えていた。

 柳のBMWはすでにエンジンがかかっていたが、近衛が乗り込むのを待っているのだろうか、まるで静かに牙を研いでいるかのように、時おりアクセルを踏んで低くて野太い音を響かせていた。

 近衛もエンジンをかけ、音が落ち着いたところで一度、アクセルを吹かす。一瞬、二人が横方向に飛ばした視線が合った。

 ほとんど同時に発進。駐車場から学院裏門の間は近衛のスカイラインがわずかに速く、先に門を出てT字路に頭を突っ込むことに成功した。

 スカイラインは鮮やかなドリフト走行で学院侵入道路の下りに向きを変え、白煙の上がった路面にはタイヤ痕と焼けたゴムの臭いが漂う。少し遅れてその煙の中にBMWが突っ込んできて、スピン気味に回転するとカウンターを当てて体勢を立て直し、5車体分ほどスカイラインから離されたものの、負けじと追跡する。

 直線コースでは馬力がものを言う。次第に車間を詰められ、横断歩道の手前でBMWがスカイラインを追い抜いて走り去っていった。

「おいおい・・・・・・」

 近衛は呟いた。

 目の前の横断歩道に黄色い幼稚園の帽子をかぶった女の子と母親が、呆然と立ちすくんでいたのである。

 近衛は時速100㎞に到達する寸前で横断歩道に人影を認めて減速、停止したので、抜かれて当然だった。もっとも、そのまま走り続けていても遅かれ早かれ、抜かれたに違いないが。

 近衛としてはスタートして横断歩道までの間ですでに勝負あったな、と思っていた。車をコントロールするドライビング・テクニックにおいて、柳よりも自分の方が上であると確信したからである。

 元来、公道は制限速度を超過して走ることはできないし、万一、スピードオーバーで警察に捕まって免停になってしまおうものなら、奏の送り迎えどころではなくなってしまう。

「ありゃぁ、自分が勝つまで何度でも勝負を挑み続けるタイプだな」

 近衛は独り言を呟いた。

(そして絶対、自分の負けを認めないタイプだな)

 一人で納得して、会釈する母親と子供に手を振り、二人が横断歩道を渡りきったのを確認して、ゆっくりと発進した。


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