第11話

「ちょっと変なお客さんが来てるんですけど」

 バイトの梢ちゃんからインターフォンで自室に居た近衛に連絡があった。

「1時間以上C2席に座って、最初にカルボナーラを注文して、次に和風、そして今度は煮込みハンバーグを注文したんです、単品で。その間、コーヒーのお代わりを2杯、モカを別に注文して・・・・・・」

 C2席とは、真ん中の列、センターの前から2番目の席のことである。リスニング・ポイントとしては、スピーカーとリスナーを結んだ正三角形の軸線上に位置し、C1席に誰もいなければ、一番良い音を堪能できる席である。

 その席に座っているだけでもなかなかのオーディオ通と思われるのだが、パスタを2種類注文した上に、普通のハンバーグではなく、煮込みハンバーグを注文するとは、よっぽどの大食漢か、覆面調査員かもしれない、と近衛は思った。

 コーヒー豆の仕入れ業者との打ち合わせを電話で手早くすませ、裏口から店内に入って、そっとフロアの様子を伺った。

(原島先生!)

 さすがに近衛は焦った。

 原島先生は、ジャズ喫茶の大御所であり、ジャズ喫茶組合の組合長でもある。

 リニューアル・オープンして本格的にジャズを流すようになってから、挨拶に行こうと思いながらも、忙しさにかまけて、つい、足が遠のいていたのである。

 しかも間というか運の悪いことに、松田が意気揚々と入口のドアを勢いよく開けて入ってきてしまった。

「近衛さん、いる? もう、帰ってきた?」

 ニコニコ笑顔の松田の表情が、スピーカーの前に座る人物の横顔を見るなり青ざめた。

 くるりと踵を返して店から出て行こうとする松田の背中めがけて、原島が般若の面の表情よろしく声を発した。

「まぁつぅだぁ~っ」

「は、はいっ!」

 松田の歩みが止まって、その場に凝固した。

 原島の声と視線はメドゥーサに通じるものがあるらしい。

「最近、顔を出さないと思ったら、こんなところに出入りしていたのかぁ?」

 原島は松田の方へ体も向けると、ゆっくりと立ち上がった。

「出、出入りしていると言いますか、お手伝いをしていると申しますか、娘婿の、いや、娘婿になるかもしれない方のお力になることができれば、なんて思いまして」

「娘婿?」

「いえ、いえ、それは私の希望でして、近衛さまが私の娘と結婚してくだされば、なんて思ったりしたものですから・・・・・・」

 相変わらず後ろを向いて立ちすくんだまま、冷や汗を垂らしながら松田は答えた。

 原島はViva・Audio誌のコーナーを一つ担当していて、毎月、記事を書いているのはもちろん、広告も入れていて、松田にとっては大切なクライアントである。

 原島のジャズ喫茶は10年くらい前から週末はプロ、アマチュア入り乱れたジャズのセッションを行ったり、ジャズ仲間の交流の場となっている。

 かつてはジャズ喫茶の聖地の一つとして、その音はさまざまな方面から批評され、時にはジャズ喫茶の代名詞として使用されることもあった。

 さらに原島は独自のレコード・レーベルを持っていて、録音の良いジャズを広めてきた功績もある。

 そういうこともあり、近衛も原島に対して一目も二目も置いていて、喫茶店のオーナーに就任した時などは原島の自宅にまで足を運んだほどであった。

「ときに凄耳はいつこんなオーディオを集めたの?」

 近衛は自分に訊かれたとは思っていなかった。だが自分に視線が注がれたことで、凄耳というあだ名を自分に付けた最初の訪問時のことを覚えていたのだ、と確信した。

「4ヶ月ほど前です」

 矛先が近衛に向いたことでメドゥーサの妖力は弱まり、松田はそろりと店から出ようとした。

「松田、お前が持ってきたのか?」

 原島の言葉に、再び松田は固まってしまった。

「あ、いえ、その、近衛さまがご自身で揃えられたものです」

「これだけのものを自分で揃えた?」

「ご親戚筋からお譲りいただいた、と聞いております」

「本当か?」

 原島は鋭い視線を近衛に向けた。

「はい、亡くなった家内の実家にお願いして、しばらくの間、お借りしています」

 さすがに10分の1の金額のオーディオ・システムと交換した、とは言えなかった。

「原島先生にはその節は誠に失礼いたしました。家内の葬儀の際にご連絡もせず、リニューアル・オープンの際にもご挨拶にも伺わず・・・・・・」

「そんなことはどうでもいい。それより、客単価はいくらだ。利益率は?」

 近衛は目が点になった。

 てっきりリニューアル・オープンの際、挨拶にいかなかったことや、イベントの時にチケットを送らなかったことに言及されるとばかり思っていたからである。

「見渡したところ、酒は置いていないようだな。嫌かもしれんが、アルコールは利益率が高い。その上、手のかからない乾き物やつまみなんかで、そこそこ客単価も見込める。どうせプリアンプもヴィオラのソロだろう。電気代も馬鹿にならん。ちゃんと元を取れるようにしなくてはならん」

 普通なら競合する店ができたということで、音も含め、いろんな面でさんざん酷評するのが常である。

 しかし原島はむしろこの店の経営のことを心配していた。

 かねてより、ジャズやジャズ喫茶の裾野を広げたいと、ことあるごとに言ってきたことを実践し、自分のあとに続く者のことを気に掛けているのだろう。

(原島さんは松田さんにジャズ喫茶の経営などについて教えた師匠なんだろうな。松田さんの経営コンサルタントみたいな口ぶりは、原島さんからの受け売りだったのかもしれない)

 原島と松田のやりとりを見ていて、近衛はそう思った。

「松田。ちゃんと援助してやれよ。娘婿なんだろう」

「は、はいっ!」

 ほとんど松田は最敬礼状態だった。

 娘婿の件は説明が面倒なので、あえて訂正もしなかったが、もし、松田が本気になったらどうしようかと、近衛は少し不安になった。

 と、その時、原島が鞄の中から一枚のCDを取り出した。

「これ、かけてもらえる?」

 こういう場面において、近衛には「嫌です」という言葉と、拒否権はない。かけるしかない。しかしCDをトレイに載せて回せば良いのとは違って、ネットワーク・オーディオはデータをいったんパソコンなどに取り込み、リッピングというデータ変換・保存作業が必要になる。これが意外にやっかいなのである。

 それというのも、CDのタイトルをリッピングソフトにより判別、インターネットを通して曲名などを自動で取り込むことができれば良いが、それができないと、直接キーボードを叩いて入力していかなければならない。

 もっとも、音楽をかけるだけなら、とりあえずできないことはないが、取り込むだけでも数分かかり、さらにあとから作業を追加しなければならないとなると、非常に面倒である。

 しかもCDのソースを取り込むパソコンの性能やネットワーク・オーディオのハードディスクまで送り込むケーブルの性能などによっても、音が変わってしまうことがある。

 近衛としては音の良い自宅のリッピング用のパソコンをこちらに持ってきて取り込みたかった。が、そうも言っていられない。原島を待たせるわけにもいかないし、今、ここでやるしかないのだ。

 近衛はDVDドライブ付きの旧型ノートパソコンを開いて無線のスイッチを切り、LANケーブルを挿す。さらにLANケーブルのもう片方は、カウンター奥にあるバッファローのファンレス・スイッチングハブのBSL―WS―G21シリーズに直接挿して、電源を入れる。

 店内はWiFi環境にあるが、パスワード・フリーは来客一般に解放しながら、もう一系統、パスワードを要求するアクセスポイントによるWifi環境も設けており、これは有線のLAN環境につながっていて、音楽専用NASやDSにもアクセス可能である。

 だが音楽データを取り込む際には、データ量の大きさを考えると、有線LANでの取り込みの方が高速で安全である。

 ソフトウエアのアップデートをしつこく言ってくる画面を無視して、ドライブにCDを突っ込むと、ようやくリッピング用ソフトが起動した。

 幸いインターネットから曲名などを引っ張ってくることができたようで、手入力の必要はなかった。

 Franklin Clover Sealesの「Three Worlds」はエレクトリック・ベースを使用していて、システムの低域の状態を試すには絶好の一枚である。しかも一曲目は比較的静かな曲調で、ウッドベースをブルンブルン鳴らすタイプではない。パワーでごまかせない分、オーディオ・システムの低域における伸びや解像度が欠点も含めて如実に表れてしまう。

 原島はスピーカーを睨みつけるように耳を傾けていたが、「これ、なにをしたの?」と訊いてきた。

(さすが、原島さん!)

 近衛は唸った。

 原島はJBLなのにJBLらしくない、ワイドレンジで空間分解能が良すぎる鳴り方に異和感を覚えたようだ。

 元々、JBLのオリンパスS8遣いである。JBLサウンドは熟知している。

「中のジャンパー線をAETのものに換えてみたんです」

 元来ジャンパー線部分には金属プレートを使用しているのだが、近衛はそれを変えると音がクリアになることを試して知っていた。ジャンパー線を交換するということは、スピーカーシステムの内部配線を一部、入れ替えるのに等しい。

 小さく唸った原島は、もう一枚、ディスクを出した。

 Theo Saunders Trioの「Three For All」は、一曲目の「The Kicker」から、派手なシンバルが容赦なくシステムの欠点を暴き出そうとする。

 シンバルも大きさや叩き方で音が変わる。ワイヤーブラシやスティックの材質でも違ってくる。当たり前のことである。さらに木製のスティックで叩いているその質感を正確に出すのはなかなか難しい。

 スネアドラムやトムトムでは木製スティックらしさは出しやすいが、シンバルでは相手が金属なので、非常に難しい。

「もっと、こう、カシャーン、パシャーンと鳴って欲しいねぇ、個人的には。でも、ちゃんと七色のシンバル、出てるじゃない」

 シンバルの色彩感をこのように表現したのだろうが、力任せのシンバル叩きでは、その色彩感が出にくい。演奏にそれだけの色彩感を出せる表現力、技量がないとできないことでもある。

 オーディオ・システムによっては、高域は確かによく伸びて、シンバルやトランペットの倍音が嫌と言うほど出てくるものもある。だが、過ぎたるは及ばざるがごとし。逆に色彩感が乏しくなり、聴き疲れするばかりか、その内、単調でつまらないと感じてしまうようになる。

 近衛としてはジャンパー線に銀線を使えば原島が望む音を出せることくらいわかっていたが、ここは自分の喫茶店である。自分の求める音が出てくれればそれでいい。別にそこまで媚びる必要はない、と考えていた。

 強く求められれば、ジャンパー線を手持ちの銀線に交換してもいいとは思ったが、ちょっとこれも面倒な作業だったので、また元に戻すことを考えると、やらないですむに越したことはなかった。

 それはともかく、原島の評価としては近衛のシステムは一応、合格、というところであろうか。

 近衛は安堵の吐息を漏らした。

 しかし先ほどから気になっていることがもう一つあった。それは、原島が執拗に煮込みハンバーグの中身を確かめながら食していることである。

 近衛は業務用ハインツのデミグラスソースを使用している。いつも大型の3㎏入り1号缶を使用している。

 しかもそのままは使用せず、タマネギ10個分をみじん切りにしてバターで炒め、これに本しめじ、エリンギ、舞茸、雪嶺茸ゆきれいたけ、マッシュルームなどを加えて煮込む。さらには醤油を微量加えているのも見逃せない。

 醤油は甘露醤油と呼ばれる再仕込み醤油を使用している。芳醇な味と香り、濃厚なコクとまろやかさが特徴で、本来、麹の仕込み時に加える塩水の代わりに生醤油を加える、九州や中国地方で広まった独特の製法である。

 ハンバーグを細切れにして食していた原島が突然顔を上げて訊いた。

「凄耳は九州出身?」

(まさか、醤油を見破ったのか?)

 近衛は驚きの表情を原島に向けたまま答えた。

「い、いえ・・・・・・。明治以前の一族は京都ですが、明治以降は東京です」

「味付けが甘いから、関東じゃないと思ったんだけどね。九州は醤油も甘口だから」

 なるほど、そう考えたのか、と近衛は膝を打った。

「味付けが甘いのは、デミグラスソース1号缶一つにつきタマネギを10個分、みじん切りにして1時間以上も炒めて甘みを出したからでしょう。砂糖は使っていません。確かに少量加えた醤油は『甘露醤油』を使用しているので、コクとまろやかさが出ていると思いますが、タマネギの効果ほどではないかと思います」

 近衛が答えると、原島は大きくうなずきながら言った。

「京都にしちゃぁ、濃厚な味付けだよね。関西なら龍野のうすくち醤油ってイメージだけど」

「醤油はあくまで隠し味ですから、『甘露醤油』を『たまり醤油』や『濃口醤油』に変えてみたところで、それほど味に差が出るとは思えません。それに私は生まれも育ちも、この地、荻窪です。ただ、母も祖母も関東風の塩辛い味付けは好みませんでしたので、こんな風になってしまったのではないでしょうか」

 一応、もっともらしい理由を述べてみたものの、自信はなかった。ソースを舐めてみて甘いというのならまだしも、どうやら原島はハンバーグを食べても甘いと感じているようなのだ。

「表面を焼いたあと、味がなじむようにハンバーグをデミグラスソースの中に漬け込んで煮ていますから、ハンバーグが甘いのもたぶんそのせいかと・・・・・・。ハンバーグの中のタマネギもみじん切りにして、こちらは軽く表面を炒めるだけにして生の時のシャキシャキした食感を残し・・・・・・」

 言い終わらない内に、何か思い当たる節でもあるのか、ハッとした表情で付け加えた。

「ハンバーグの調味料には岩塩を使用しています。しかも少しだけ火を通して加熱し、それから香辛料、牛2豚1の割合の挽肉とともに練っています」

「岩塩? どこの?」

「ドイツ産、輸入物です」

「中国とかは駄目なの?」

「さぁ、試してみてはいませんが、海水塩よりは良いかと思います」

 残り少なくなったハンバーグを一気に口の中に放り込むと、岩塩の味を確かめているのか、原島はゆっくりと咀嚼した。

「これなら看板メニューとして、いいね。原価はどのくらい?」

「いや、ちょっとすぐには試算できないんですが・・・・・・」

「経営者なんだから、出すメニューの原価くらいは頭に入れておかなくちゃ」

「ご、ごもっともです」

 近衛は頭を掻いた。

「ほかにもケーキとか、いろいろ取りそろえています」

「甘いもの、好きだね」

「別にそういうわけではないんですが・・・・・・」

「ハンバーグね、関東の人間相手に商売するのなら、少し塩辛く感じるくらいがちょうどいいんだよ、な、松田!」

 表から出られないのなら裏口から出ようと、カウンターの中に入ろうとしたところを原島に声をかけられ、松田はビクッと体を震わした。

「は、はいっ」

「で、松田はこの煮込みハンバーグ、食べてみたのか?」

「い、いえ、まだ・・・・・・」

「なんだ、まだ食ってないのか!」

「普通のハンバーグは食べたのですが、煮込みはまだ・・・・・・。も、申し訳ありません」

「お前んとこの娘に食わせてみろ。そして同じ物が作れるか、試してみろ。凄耳はたぶん勘でやっている。それじゃ駄目だ。味が一定しない。旨いと思って次に訪れた時に味が落ちていたり、味が大きく違っていたら、その客は二度と来ない。誰が作っても同じ味が守れるように、きちんとレシピ、作ってもらえ」

 近衛は感心していた。

(原島さんは単なるジャズ喫茶の店主とは根本的に違う。経営者として自分に足りないものを持っている。そればかりか、同業者を本当に大切に思っている)

 それでいて、こんなことも思っていた。

(でも、ハンバーグの話で凄耳はないだろう)と。

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