第12話

 2年の歳月が流れた。

 奏は歌手活動に備えて単位制の高校に進学した。そして1年の冬休みを前にして、高校卒業に必要な単位の内、取れるものは片っ端から取ってしまっていた。あとは歌手活動をしながらでも、2年間で十分、取ることができる範囲である。

 そして今日はデビュー兼ファースト・アルバム発売記念のファースト・コンサート当日。

 シングルではなく、アルバムを引っさげての画期的なデビューである。

 新人歌手がアルバムでデビューするという例はないわけではないが、デビューと同時にファースト・コンサートまで行った歌手は例を見ない。

 もっとも奏の場合はデビュー前からその歌声が評判で、アマチュアながらYouTubeにアップされたクリスマス・ライブは4曲中3曲が英語だったこともあって、世界中から注目され、500万回を超える再生回数を誇った。中でもフライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンは絶賛だった。これがデビュー前のプロモーションに一役買ったのは言うまでもない。

 CDはレコード・ショップで入手可能であるが、インターネットで高音質ハイレゾ音源のダウンロードもできる。さらには、発売記念と題して、ファースト・コンサートの模様は後日、CDあるいはダウンロード時のアクセス・キーを用いて一ヶ月間、一回だけ映像をフルでダウンロードできる仕組みになっている。しかもその一部をYouTubeにアップする予定にしていて、全部観たくなったらアルバムを購入するように仕向けている。

 その間、ミラー・サーバーを駆使してダウンロード負荷を分散させることはもちろん、ダウンロードできなかった者のために、レコード・ショップに非売品のブルーレイ・ディスクを置いてもらい、直接現物を入手することも可能にした。ブルーレイ・ディスク特典付きも後日限定発売することにしているが、値段はCDのみと同じ価格である。

 さらに音源は近衛の実力をいかんなく発揮し、ダイレクト・ミックスダウン方式で録音、最高の音質を目指すことにした。

 ハイレゾ24ビット/192kHzでの録音が功を奏し、リハーサル時のチェックではミュージシャンたちが「今まで聴いたことがない近未来のサウンド」と評するくらい鮮烈でダイナミックレンジの広い音だった。もちろん、通常の24トラックでの録音もハイレゾで行う上に、リハの音も必要とあれば活用できるように準備している。

 マイクロフォン・ケーブルはグラドが入手困難になってしまったのでAETを使用。インターコネクト・ケーブル、電源ケーブルも所有している友人やAETに協力を仰いで、AETの最高峰、エビデンスを主だったところに使用したのが高音質に寄与したことは言うまでもない。

 成長して今では胸元が少し苦しいくらいになった千明の茜色の衣装を身にまとい、奏はステージの袖に立って出番を待っていた。

「あ、お母さま」

 足音に、奏は奈々美の方を振り向く。

 近衛に寄り添われて大きなお腹を抱え、旧姓六条院、近衛奈々美はゆっくりと奏の方へ歩み寄った。

「デビュー、おめでとう」

「有り難うございます、お母さま」

 そう言うと奏は腰を落として、奈々美のお腹に優しく手を置いた。

「私も歌手だった母さまのお腹の中で聴いていたのよ。そして今日、こうしてやっと歌手としてデビューすることになったの。だからあなたもちゃんと聴いていてね。そしていつか一緒に歌いたいな。じゃ、お姉ちゃん、行ってくるからね」

 奏は屈んだまま、奈々美のお腹に向かってバイバイをした。

「あ、動いた」

 奈々美は嬉しそうに言った。

「まるであなたにバイバイしているみたい。きっとわかっているのね」

 奏は奈々美に深々と頭を下げ、近衛に満面の笑みを向けた。

「じゃ、行ってきます!」

「ああ。3曲目には後ろで一緒に演奏するからな」

 コクリとうなずくと、奏はヒールの靴音を響かせ、緞帳が降りて薄暗いステージに向かう。

 ステージでは奏と喫茶店で初めて一緒にライブを演奏したドラムの向井、ピアノの木之元、ベースの坂上、ギターの榊原が笑顔で迎えた。

 向井は体でリズムを取りながら、スティックでシンバルを叩く動作を確認していた。

 坂上は神経質なまでに耳をそばだて、ベースのチューニングを繰り返していた。

 ギターの榊原はアコースティックとエレキを弾き分けるため、アコースティック時に座る椅子とマイクロフォンの位置を綿密に調整していた。

 木之元もピアノとキーボードの掛け持ちである。クラシカルな曲の際に弾くピアノということもあって、ピアノはなんとグロトリアン=シュタインヴィッヒのグランドピアノが用意されていた。クララ・シューマンが愛したピアノと言われ、創始者はハインリッヒ・シュタインヴィッヒ、つまりスタインウェイ・アンド・サンズの創始者でもある、ヘンリー・スタインウェイである。彼は息子たちとアメリカに渡ったが、長男テオドールはしばらくドイツ残った。その技術を引き継ぎ、改良を加えたグロトリアンの一族らが現在でもドイツ国内で製造を続けている。

 ちなみにステージにあるピアノは近衛の祖母の兄、『おやかたさま』が戦前に輸入したもので、その孫から借りたのである。

 そうそう、この2年間で薫風堂にもう一つ変化があった。スピーカーの間にピアノが置かれたのである。これもグロトリアン=シュタインヴィッヒのアップライトピアノで、まるでグランドピアノのようなスケールの大きな響きが堪能できる『キャラット』である。

 中低域は当然のことであるがスタインウェイ・アンド・サンズに酷似し、高域はベーゼンドルファーに似て、ピアニッシモが素敵で玉を転がすような美しい響きが特徴なのだが、日本国内での代理店は、まだない。近衛がドイツの友人を介して取り寄せたものであった。

 奏はこのピアノでレッスンを続けていたのである。もちろん、ジャズのミニ・ライブも行われた。千明の曲をバックに歌の練習も行っていた。音源は近衛のクィーン・レーベルがその権利も含め、依然として所有していたので、カラオケに編集し直して流すのも容易であった。

 開演のベルが鳴る。

 緞帳が上がって、ステージが照明の光に包まれる。

「みなさん、お待たせいたしました! 本日、デビューすることになった、三条かなでです」

 会場は拍手と声援が渦巻いた。

 奏を見守っていたスーツ姿の女性マネージャーが目を細めながら言った。

「まさか、私が母娘2代に渡ってマネージャーを務めるとは、思いもよらないことでしたわ」

「悪いな、由香里君。社長なのにマネージャーまでさせちゃって」

「会長こそ。なにも演奏にまで首を突っ込まなくても良さそうなものを・・・・・・」

 横から奈々美が口をはさんだ。

「でも、演奏することが決まったら、ご機嫌で練習してるんですよ」

「ま、元々、演奏家の血筋だからね。じゃ、準備してくるから。あと、よろしく」

 そう言うと、嬉々として足早に控え室に向かった。

 マネージャーの由香里が奈々美に呟くように言った。

「それにしても、よく、三条家がお名前の件、お許しになりましたよね」

「実はねぇ、口止めされているんだけど、おばあさまからのたっての願いだったのよ」

「えっ? 麗子さまが?」

 奈々美はうなずいた。

ぃちゃんが亡くなって、やっぱりお寂しかったのでしょう。孫のかなちゃんが三条家の名前を名乗ってくれることになって、本当に嬉しかったみたいよ」

 そう言うと、奈々美はステージに視線を移した。

「千ぃちゃん、あなたの娘、奏ちゃんが今日、公式デビューするのよ。そしてファースト・コンサート。あなたがお気に入りだったドレスを着て、まるで千ぃちゃんの武道館でのファースト・コンサートの時のように、キラキラ輝いている。どうか最後まで見守ってあげてね」

 奈々美は持っていた写真立てを舞台袖のテーブルの上に置いた。

「それでは、母、三条千明も歌った『フォーエバー』、どうぞお聴きください!」

 一気に会場が熱気に包まれた。

                                (おわり)

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喫茶・薫風堂 楠 薫 @kkusunoki

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